第3話 招かれた客人


 朝早く。大学の門が開いてすぐ。

 まだ朝の清々しい匂いが鼻を掠める時間に俺はひとり、煙草を共に読書を嗜む。

 昨夜は散々だった。

 関わりたくもない親と兄、家族の食事。口を開けば勉強はどうだ、友人はいるのか。

 くだらない。

 友人とまで言わずとも、何かあれば頼れるツテはそれなりに確保しているし勉強もしている。そんな当たり前のことをいちいち確認することに何の意味があるのか。

 中途半端なコミュニケーションに付き合っている暇はない。

 独立して、確実に離別するため。そのために俺は必死になっている。


「よーぉ。」


「チッ」


 ガサガサと草を掻き分けながらやってきた音無に躊躇わず舌打ちする。

 初めて会った時も、名乗った時も、まるで態度を変えやしないばかりか、なら来るかとここへ誘われた。


「ほーんと、もったいないねぇ。」


 音無は俺のライターを勝手に使って火を付けると、至極残念そうに言った。


「はあ?」


 あまりにも無礼な物言いに渋面をつくると、音無はくっくと薄い肩を震わせて笑う。

 気分を害された俺は無視して本に意識を向けた。


「りんごちゃんが言ってたのよ。礼ちゃんはもったいないってさ。」


「どういう意味だよ。」


 苛立って聞くと、音無は煙草の灰を落としながら目を見開いて俺を見ていた。


「……興味、ある?」


 しまった、と俺は顔を引きつらせる。こいつはいつもそうだ。人の揚げ足を取っては食い物にする、嫌味な教授。


「ねぇよ。っくそ。」


「それそれ。そんな悪態ついてばっかだと、怖がられちゃうよ?」


 ニヤリと嫌味な笑い方をした音無にまた舌打ちを飛ばして、新しく火をともす。


 あいつが?怖がる?―――有り得ない。


「りんごちゃんも一応、女の子なんだから。」


 そう言う音無は所謂先生面してて腹が立つ。

 先生だというならこんなところに生徒を引き込んでないで説教でも何でもすればいい。


 俺が返事をしないで本を読んでいると、返答を諦めたのかそもそも待っていないのか、短くなった煙草を灰皿へ押し付けるとそのまま草の中へ消えていった。


 獣道を歩けば草を掻き分けずに済むのに。馬鹿なのか。


「………――。」


 吐いた煙が視界に広がる。文字が霞んで思考が別の事へと飛んでいった。

 先程の音無との会話。りんご。その響きに引きずり込まれるように思い出す。


 そう言えば、俺が椅子を蹴飛ばした時。あいつはびっくりしたと言っていた。

 怖がっていた?


 まさか。


「……ッチ」


 何を気にする必要がある。読んでいる本に飽きただけだ。


 気分転換に別の本を取り出してテーブルに積む。専門書、ビジネス本、歴史書…。それらは全て俺の知識となってくれる有能な部下だ。必要なことを教え、無駄に喋ることもない。

 要らなくなれば消え、必要となれば買い足せる。なんて便利なものだろう。

 インターネットも悪くはないが、目は疲れるし履歴は残る。保存をするにもいちいち面倒で、ページ数がないサイトなら余計に何がどこに書いてあったのか思い出し辛い。

 俺は断固紙書籍を推す。


 一度切り替えようと手に取ったのはビジネス本だ。マーケティングとITについての繋がりやその可能性など。誰しも考えつくようなものを更に独自の視点で考察している。こういう本は著者の傾向がはっきり分かって面白い。同じテーマで他にも著者がいるため比較できるのも醍醐味だ。


 スマホのアラームが鳴る。授業の時間だ。


 集中して読んでいた途中だったが、名残惜しく思いつつも薄いスティック状の栞を挟んで本を閉じる。成績で少しでも欠点を取るのだけは避けたい。

 東家の人間は常に成績が良く、完璧でなければならない。クソジジィの言っていた言葉だ。家訓として代々引き継がれているらしいが知ったことか。俺は親に従うだけの兄とは違う。与えられたものでなく、俺だけの会社、俺だけの財、俺だけの居場所を作り上げてやる。


「わっ!」

「いっ、て!」


 無意識に歩き始めたせいで、ちょうど角を曲がってきたあいつとぶつかった。

 鎖骨に額が当たったのか、痛みがジンジンと広がる。


「ああ、ごめん…礼ちゃん。」


 今日も表情金が死んだような顔をして、赤くなった額をさすっている。かなりの勢いでぶつかって痛むのか、目には涙を溜めている。

 俺は舌打ちを返してため息をついた。それでもこいつは少し眉をしかめて道を譲るだけで文句も何も言わない。いつもは気にしないことなのに、音無のせいで余計なことを考えてしまう。


 怖がってるのか?

 痛みのせいでなく、怯えだとしたら?


「……―――悪い。」


 客観的に、考え事に囚われぶつかったのは俺だ。

 そう思ったからこそ素直に言うと、慌てるどころか珍しく目を大きく開いて信じられないとばかりに俺を見上げていた。

 今日はどいつもこいつも失礼だ。


「えっ…礼ちゃんが、謝るなんて…」


「て、めぇ…―――ッチ」


 結局俺は舌打ちを残して授業へ急いだ。

 アラームをギリギリに設定しているから遊んでる暇はない。


「……ふふ。」


 あの傍若無人な礼ちゃんが悪い、なんて言うとは思わなかった。

 得した気分になって鼻をさする。おでこも痛かったが、鼻の頭の方が実は重症なのだ。

 あれほど近くで見たことはなかったが、やはり礼ちゃんは整っていて美しかった。本の虫で運動もしていなさそうなのに、ぶつかったくらいではびくともしなかった。さすがというか、男の子なのだなぁと感心しながら煙を吹く。


「ふん、ふふーん…」


 今日はカフェにも寄らず、真っ直ぐにここへ来て良かったとぶつかった拍子に外れてしまったイヤホンを耳に差し込む。

 流れてくるのは中国の楽器で奏でられる音楽だ。弦楽器は心が落ち着けられて良い。

 小学生から約十年、習っていたからかもしれない。


 二胡。胡弓とも呼ばれるその楽器は木と馬の尻尾、蛇の皮でできている。

 独特な音階は人の声帯に近いとも言われ、中国では比較的ポピュラーな習い事だ。


 そういえば先生によく力を抜けと怒られていたなぁと懐かしく思い、自分の左手の指先を見る。練習のしすぎで指の腹は固かったのが、今ではすっかり柔らかい。

 慣れとは良くも悪くも恐ろしいと飴の袋をはぎ取った。


「ん、んー。」


 飴を口の中でコロコロ転がしながら、スマホに入れてあるアプリでログイン報酬を獲得する。音楽に合わせて画面をタップして点数を稼ぐ、いわゆる音ゲーだ。譜面の背後に映し出されている、王子様たちがキラキラ踊っている背景は邪魔をしてるのかと思うくらい眩しく輝いている。

 ゲームは多少の障害があった方が燃えると私は画面の世界にのめり込む。


 Complete フルコンボ!と表示されたプレイ結果画面に満足して、目を休ませようと画面を伏せる。連続のプレイは目が疲れるのだけが音ゲーの難点だ。


 私は噛んで形の歪んだ棒を口から出し、灰皿に立てかける。集中すると口の中を噛む癖があるから、その予防にといつも棒付きキャンディーは持っている。講義の席を少し離れる時に置けたり、何かと便利に使っている。


 薄く目を開いて時間を確認する。あと十五分は休めそう。

ぐっと背を伸ばして、足を投げ出す。少し姿勢は悪いけれど、これが仮眠の時の体勢。


 サワサワと草木が揺れる音に、まだ春を感じられる。桜はとうに散ってしまったけれど、春独特の暖かさはまだ健在だ。夏が来て、秋が過ぎたら、冬が来て。たくましい植物たちとは違って、人間はすぐに疲れてしまう。でも大きく区分したら、植物とそう変わらない。


 成長して、子を成して、育てたら、ゆっくりと枯れていく。


 その各過程がちょっと長かったりするだけだ。よくRPGなんかでは木が精霊になったりするが、大抵物知りでプレイヤーに今後のヒントをくれたりすることが多い。


「じいちゃん、ばあちゃんか…」


 小さく呟いたそれを、誰かに向けて呼びかけたことはない。

 実際に知らないし、親戚は母の妹と父の兄だけだ。その親戚すら、顔はうろ覚え。付き合いは薄いし、住んでいる場所も都心から遠いから上京あるあるなのだろう。

 しかしたまに聞く優しい祖父母の話には興味があった。私の祖父母もきっと優しくしてくれたのかなと想像しては切なくなる。実際には、母の両親は離婚。まだ離婚した祖父は生きているが、別に家庭を持っているらしい。

 

 くっと喉が引きつる。なんとなく可笑しく思えた。

 私以外のひとには私の両親以外の両親がいて、その両親にも別の両親がいて。

全く知らない同士がよく家族というカタチを成型しているなと、感動すら覚える。

私にはどうあっても無理そうだ。


「ん。」


 そんなことを考えていたら時間が過ぎてしまったらしい。

 勿体ないことをしたと私はため息をついてアラームのバイブレーションを切った。次は英語の構造についての授業だ。一番苦手な授業。

 だって意味が分からない。少なくとも私が生きるために身に付けた英語は会話専用であって、手紙を書くためでも翻訳をするためでもない。


 ただ、自由が欲しかっただけなのに…


 自業自得かと首を振って立ち上がる。煙草を取り出そうか迷ったが、礼ちゃんのように効率的に吸う勇気はなくて箱を閉じた。

 ひとりの時間が欲しくて、トモダチに付き合うのが少し面倒で、逃げたくて吸い始めた。本当はまだ吸うのが下手だ。でも気休めにはなるから手放せない。

本当は良くないのかもな、と苦笑して鞄を肩に掛けた。

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