第1話 偶然か運命か 続

 

 雑多な足音や挨拶の声、会話。それを遮断するかのように音量を上げたイヤホンを耳に突き刺して歩く。こうしていれば多少気分が良くなる。

 さっきまで隣を歩いていた、いつも笑顔の彼を思い浮かべて顔をしかめる。


「はぁ…」


 スマホを取り出して横に付いているボタンを何度も押す。画面には音量が聴覚に与える危険性に関しての注意が出てきたが、躊躇もせずに最大まで上げて来た道を戻った。

 人気のない芸術学部の棟の裏。雑草で荒れた裏庭の獣道をたどれば、視界がすっと開く。

 大きなパラソルの付いた綺麗なテラスが二つと椅子が何脚か、乱雑に置かれているここには滅多に人が来ない。

 特定の人以外。


「………。」


「……チッ」


 思い切り嫌な顔で舌打ちしてきた数少ないこの場所の共有者は、煙草を咥えなおして椅子を引く。決まりはないが、手前が彼の席で奥が私の席になっていた。

 わざわざ引いてくれたので遠慮なく奥のガーデンチェアに腰掛けて上着のポケットから煙草を取り出す。


「あ…」


 ライターを取ってオイルが切れているに気付く。それでも何回かカチカチしてみたが、もう使えないようだ。

 ちらりと彼を見やるが真剣に本を読んでいるようで暫く待つ。片側だけ上げられた髪が少し崩れていた。加えてテラスの上の灰皿にある吸い殻の数からして昼前からここにいるのだろう。

 彼は授業あるなしに関わらずほぼ毎日ここにいる。その事情も、心の機微に無駄に聡い自分には察しがつく。


 待っているのも飽きて音楽を聴きながらぼんやり雲の動きを観察していると、ふっと影が落ちた。彼が頭上で何やら口を動かしているのでイヤホンを外すと、乱暴にライターを投げつけられた。間違っても顔に当たらないように投げてくれるし、もしかしたら彼は優しいのだろう。


「お前、耳やられんぞ。うるせぇし俺に聞こえる。」


「…ありがとう。礼ちゃんも本数減らしなよ。」


 舌打ちだけで返事はなかった。火をつけて、やっと一息つく。イヤホンを外して、風に揺れる葉の音と遠くに聞こえる人の音、少し離れた隣で聞こえるページをめくる音が、逆立っていた心を撫でるように落ち着けてくれる。


「火。」


 最低限の言葉に目を開けると、座ったままこちらに手を出していた。


「……煙草は空気じゃないよ。」


「は?」


 あ、怒られそう。


「今日はいつにも増して機嫌が悪いね。」


「いつもだよ。早く返せ、くそ。」


「ふ、口悪い。」


 ストレートに言ってくる割には、悪口を言う時は人の目を見ない。そんなところは嫌いじゃない。本当に怒られる前にライターを投げ返すと、上手い具合に受け取ってポケットに入れた。吸わないんだ、とぼんやり見ていると一度視線がぶつかった。


「お前、授業だろ。」


「Yes。」


「うぜぇ。出ろよ。」


 私はいつも授業終わりに来てここで休む時が多い。彼はいつもここにいるから、私の時間割を否応なしに覚えてしまったのだろう。


「…今日は、気分ではなかったので。自主休講。」


 彼は応えずにページをめくった。この、相手のことなどどうでもいいという態度が心地いい。それに比べて、と彼を思い出す。ありがとうも、気を使われるのも、面倒だ。特に、あの甲高い声の子とか。


「そろそろ時間じゃないの?」


 私もここで過ごすことが多いから、彼が日の傾く頃に授業があることを知っている。

 彼は本日何度目かの舌打ちをして本を閉じると、また一本取り出して火をつけた。立ち上がって首を何度か回すその姿が様になっている。

 身長が高いとは得だなぁと心のどこかで言う自分がいた。容姿に特にこだわりはないし、こだわりという概念すら自分にあるのか曖昧だ。


「何。」


 見ているのを知っていてもいつもは無視をする彼だが、今日は気分が違うらしい。


「いや。」


「見んな。」


「…ごめん。」


 でも首の角度を変えるのも何だか面倒で、彼の後ろにある花に目を留めた。白い小さな花がいくつも咲いている。さっき来る時に踏んでしまったものもあるのだろう。

 何となく息がし辛くなって空を仰ぎ、目を閉じる。足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ポケットから煙草を取り出す。


「あ。」


 ライターを切らしていたのを思い出して去っていった方を見ると、テラスにライターが置かれたままになっていた。


「……ありがたい。」


 最近は吸える場所も少なくなってきたからこの場所は貴重だ。彼もこの場所以外では吸わないのだろう。

 ライターを取りにそこまで歩き、なんとなく彼の席に座るのも憚られて同じ距離を戻る。


「ふーー。」


 煙が空気と混ざって消える。それは見ていて飽きないし、その為に吸っているようなものだ。彼が吸うような重たいものは吸えない。軽いもの。

 音楽のように気を紛らわせることができるような。


「おう、まだいたかー。」


 ゆるゆるな話し方で草を掻き分けてきたのは、他でもないこの大学の教授だ。


「どうも。」


 私も礼ちゃんも、この人に掴まってここに連れられてきた。喫煙所以外で吸っていたのが見つかり、指導されるのかと思えばここなら誰も来ないから吸ってもいいと言われて驚いた。もう一年も近く前のことだ。

 何故ここを教えてくれたのか尋ねれば、何となくと返された。


「音無先生。」


「あー?」


「ここ、私と礼ちゃん以外見たことないんですけど、他にもいるんですか?」


 彼はいかにも貧弱そうな細い腕で礼ちゃんの置いていったライターを取り、火をつける。

 普段はあまり会話もしない私が質問をして驚いたのかは分からないが、暫く間を開けて彼は上を向く。


「…いねぇなー。最近は、ほら…喫煙者の人口も減ってきてるしなぁ。」


 大きく吐き出された煙の塊は渦を巻き、やがて透明に溶けていった。


「お前らの目、相変わらず死んでるしなー。」


「…それ、失礼ですよ。」


 私ももう一本、と咥えてやめる。死んだ目をしているのは自分にも分かっている。


「美男美女の割に、いかにも青春楽しめてない顔だぞー。」


「ああ、礼ちゃんは本当に勿体ない。」


 綺麗だと思うものを眺めるのが好きだ。

 今までは空とか雲とか、少なくとも人間ではなかったが、礼ちゃんはそういう意味では特殊な存在だ。


「いや、りんごちゃんもなかなかよ?」


「…先生は普通ですね。しいて言えば病弱なところが儚げで良いんじゃないですか。」


「え、ほめられんの嫌なの?辛辣―。」


 この短時間で吸い終えた音無先生はぐしゃっと火を灰皿でねじ潰し、ぐっと腰を伸ばした。授業でもあるのだろう。


「あ、今度デッサンさせて欲しいんだけど、嫌?」


「嫌ですね。」


「あ、そう…東も…嫌がりそうだよなぁ…まぁいいや…じゃあな、程ほどにしとけよー。」


 先生は美術系の教授だ。画家もしていてそれなりに好評らしい。一度見たことがあるが、いつもののらりくらりとした態度からは想像がつかないほど熱が感じられる絵で、思わず身震いした。何かを生み出せる人はすごい。


「帰ろうかな…」


 思えば礼ちゃんを待っている理由もない。立ち上がり時計を見れば、もうすぐ彼が授業を終える時間だ。ライターのお礼でも言って帰るべきか。逆に迷惑だろうか。


「…めんどくさ」


 新しく火がともり、濃い煙が思考を濁した。


「東くん!今日学部混ぜてカラオケ行くんだけど、無理かなー?」


 マジックでよく見るウサギのように目の前へ飛び出して来た障害物。俺はすぐに笑顔を浮かべる。


「あー、ごめんね。今日も家のことで少し。また今度誘って。」


 申し訳なさそうに言えば大抵の障害物は同じような反応をする。


「そうなんだ…じゃあ、また都合良い時に!」


「東また来れないのかよ!仕方ねぇな、頑張れよ!」


「うん、ありがとう。」


 がやがやと騒ぎ立てる有象無象たちに手を振ってあの場所へ戻ろうと早足に教室を出る。

 皆、東礼司の前では虚像に過ぎない。後ろにある大きな力に目が眩んで声を掛けてくる。それ自体は別にいけ好かない訳ではない。自分も同じようなものだ。長い物には巻かれろ。大きな力には好かれようと努力する。

 だから自分にも非があるのだ。“東”を見て欲しくないのなら“礼司”を自分で見せていけば良い。しかしそうしないことを選んだのもまた自分なのだ。


 すっかり日も落ちた時間には、校舎の明かりが間接照明の様にテラスに流れ込む。心もとないオレンジ色の外灯もあるから本は読める状態だ。早足でたどり着いた唯一の休憩所は昼過ぎと違い、幾分か不気味さを増していた。


「……。」


 自分の所定の席を見ると、市販の棒付きキャンディーと自分のライターが置いてあった。きっとあいつが置いて行ったものだろう。何度か煙草の代わりにこれを口にしているところを見たことがある。


「はぁ。」


 乱暴に椅子を引いて座り、煙草の代わりにそれを口に咥えれば甘ったるい味にめまいがした。最初は顔をしかめて我慢していたが、本を読み進めていくうちにそんなことも気にしなくなった。あいつの存在と同じだ。


「はー、うぜ。」


 随分小さくなったそれを噛み砕いて、煙を吸う。ほろ苦い、鼻が通るようなその煙が自分の思考をすっきりと整えさせる。余計なことを考えることはやめるのが吉だ。


「…帰るか。」


 腕時計を見てスマホのアラームを止める。帰宅は特別のことがない限りいつも7時と決まっている。家で無意味な夕食会が始まるからだ。

 特に会話もないあの無駄な時間はいつまで経っても慣れない。


 重い腰を上げて校門を出ると、同じくらいの背丈の男が学校の地図の前でおどおどしているのが見えた。別に知り合いでも何でもないから当然、放っておく。

 駅への真っ直ぐなアーケードを歩いていると、少し離れた場所に見覚えのある集団がいた。授業終わりに声を掛けてきた奴らだ。帰りの時間に鉢合わせるなんて、うざすぎる。


「あの、どうかしました?」


 仕方なく少し引き返しておどおどした障害物に話しかける。スマホと地図を見比べてはまた同じことを繰り返している。バグを起こした動画の方がまだマシな動きをする。


「あ、いえ…!すいません、俺、不審者ですよね。」


 よく分かってるじゃないか。


「困ってるなら、何かできないかと思いまして。どうしました?」


 にっこりと笑顔を浮かべると、目の前の虚像はじっと俺の顔を見ると、ぱっと爽やかな笑顔を浮かべた。顔は悪くないな。そう無意識に査定する。そういう癖がついてしまった。

 ある程度顔が整っていれば社交経験も多い傾向がある。差別ではなく、そういう風に世の中が作られている。清潔感、容姿に合った服装、話し方、内から滲む性格の良し悪し。それで大方人としての魅力が決まる。


 目の前の男は見た目はまあまあな癖に腰が低く、仲間内では下に見られているのだろうと推測ができる。優男、優柔不断、そんな言葉が頭に浮かぶ。しかし有象無象に比べればよっぽどマシだ。そう思って彼の話に耳を傾ける。


「実は、落合教授の教室を探していて…レポートの提出をしたくて。」


 今時、レポートはメールでのやりとりが主流のはずだが、そういったアナログな教授がいたりする。その一人である落合という教授の名前は聞いたことがあった。

 頑固で、よくいる頭でっかちのバカだ。


「ああ。それなら確かC棟の三階だったかな。場所、分かりますか?」


「えっと…グラウンドの先の棟でしたよね?」


「そうですよ。」


「なら分かります。ありがとうございました!」


「いえ。掲示板は分かりにくいですからね。」


 そう笑って見せると、恥ずかしそうに笑う。胸やけがしそうだ。

 もうあいつらは行ったことだろうし、早く切り上げようと一歩足を引くと、目の前のそいつは逆に一歩踏み出して言ってきた。


「あの!総合情報学部の先輩ですか?」


「……経営学部の二年ですよ。」


 何故かそいつはほっとしたような笑みで俺に歩み寄る。


「同い年なんだ。俺、一ノ瀬悟。本当に助かったよ。ありがとう。」


 同い年だというのに深々と頭を下げて、風でも吹き抜けていきそうなおめでたい笑顔を浮かべたままの顔に嫌気が差して、毒を吐きそうになるのをぐっと堪える。


「それなら良かったよ。じゃあ、気を付けて。」


 くるりと背を向けこれ以上の追求がないように早足で去る。


 ――ああ、イライラする。


 早足で過ぎていく人々を見ながら、陽の落ちた路地を歩く。黄色いスカートの裾にあるレースが風に踊った。今日は、散々だったなぁとため息をつく。


「豪ちゃん…」


 口の中で呟くと、切なさが増した。大学で知り合ったミステリアスな女の子。いつも一人でいて、勉強もできて格好いいと皆は言うけれど、あたしはそうは思わないの。

 好きで一人でいたって、寂しい時もあるはずだもの。

 りんごちゃんて呼んでって言っていても、誰も名前を呼んでくれないと悲しいと思うの。

 でも、今日。見てしまった。豪ちゃんの隣にいた、あの男の人。誰なんだろう。


「ただいまぁ。」


 白い扉の玄関を開けると、奥から良い匂いといつもの優しい声がふわりと体を包み込む。


「愛輝ちゃん、おかえりなさい!今日はどうだったー?」


 リボンが可愛いエプロンを着たママはいつも通りあたしに聞く。


「今日も楽しかったよ!着替えてくるね!」


 いつも通りそう返して、二階の自分の部屋へ上がる。可愛いものがたくさんの、大好きな自分の部屋。

 大学生にしては、子供っぽい部屋。うさぎさんがプリントされたふわふわの部屋着。

 全部、ママと一緒に買った。


「愛輝ちゃん、ご飯よー!」


「はぁーい!」


 階段を降りると、帰ってきたパパがあたしの頭を撫でた。


「ただいま、愛輝。」


「お帰りなさい!」


「愛輝の笑顔でパパ、また明日も頑張れるよ。」


 えへへ、と笑いながらパパの大きな背中を見送って笑顔を消す。物心がつく前から、変わらない扱い。


「シチューか。今日の人参は花なんだね。ママは器用だなぁ。」


「愛輝ちゃんたくさん食べてね。おかわりもあるのよ?」


 いつもニコニコしていて、あたしが悪いことをすると泣いちゃう可愛いママ。優しい優しい自慢のパパ。そんな二人に愛されて育ったあたし。


「うん!あき、ママのお料理全部好きだよ!」


 自立したいって言ったら二人は悲しむだろうな。お腹の底に溜まったどろどろしたものがゆっくりと嵩を増した。


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