第1話 偶然か運命か
「おい、いちごちゃーん!」
小学生の男子が数名、こっちを見ていた。全員、見知った顔だ。その中のボールを持った一人が、どうやら俺を呼んでいるみたいだった。
「い、いちごじゃないよ!!ぼく、さとるだもん…!」
「うわ、いちごちゃんが泣いたー!」
「なきむしー!」
これ見よがしに声を上げる彼らに腹が立って、でも言い返せなくて涙が出た。
「ねぇ、なんで泣いてるの。」
淡白な女の子の声が聞こえて―――
アラームが鳴り響いた。昨日脱いだままの服がだらしなく椅子にかかっている。毎朝見る自分の部屋だ。むっくりと起き上がって掛け布団を持ち上げると、冷気が足を撫でた。
「ふわぁ…」
首の後ろを掻けば、じんわり汗をかいていた。一度シャワーを浴びなきゃな…そう思ってとりあえずパンツを出し、そのまま風呂場へ向かった。さすがに風呂場は換気されていてこの時期はまだ寒い。
熱めのシャワーを浴びてそのまま髪をセットし、食べ物を求めて台所へ向かう。リビングには母の置手紙があった。
『仕事に行ってきます。夜更かしもほどほどにね。昨日の夕飯の残りが冷蔵庫にあるので食べてください。 真弓』
置手紙は捨てるのが嫌だからメッセージを送ってくれれば良いといつも言っているのに、母さんはいつも何かあればこうして手紙を書く。母曰く、メッセージは味気ないらしい。
指示通り冷蔵庫にあった夕飯の残りを温めて食べ始める。行儀が悪いと知りながらスマホを開いてスケジュールを見た。今日は午後からの講義だけだった。
「えー…」
今は朝九時半。早起きし過ぎたと後悔する。先日春休みが明け、大学生活にも慣れた二年生だ。誕生日はまだだから大人にはなりきれていない。
入ったサークルはいわゆる『飲みサー』で、ノリが合わずに行くのをやめた。
そんな大学デビューしきれなかった俺は、講義だけは真面目に行くつまんない奴になってしまった。洗濯物日和な朝の清々しい風を浴びながら呟く。
「…どうせならどっか別のサークル入ろうかな…」
小さな呟きは誰の返事も得られず空気に溶ける。
このまま家にいても仕方ないと思い、とりあえず大学に行く用意をして外に繰り出す。バイト先のカフェを避けて通りながら駅へ向かい、大学周辺の商店街をぶらついてコーヒーを買おうと列に並ぶ。さすがに大学の近くだからか若者が多い。
「え、っと…ラテをお願いします。ホットのMサイズで。」
財布の中を見て小銭を取っていると、十円が一枚零れ落ちてしまった。
「あ…!すいません、これで!」
レジの女の人にぴったり代価を渡し、転がって行ってしまった十円を急いで振り返る。十円と言えどお金はお金。必死で探すのも気が引けたが辺りを見回すと、すらりとしたショートカットの美人が目の前に拳を突き出した。黒いセーターにジーンズ。スタイルが良いからか、不思議な雰囲気に引き込まれる。
「はい。」
手のひらを広げ受け取って顔を上げ、きちんと目が合った途端背筋がすっと冷えた。
お礼を言おうと口を開けるが、乾いてまともな言葉も出てこない。
たったの数秒だが見つめ合うと、冷めた目が少しだけ開かれる。
「…いちごちゃん?」
心臓が握られたかと錯覚するほど収縮した。
「林堂、豪…」
掠れた声で彼女の名前を言えば、不満げに口が閉じられた。
「ひ、久しぶり…」
とりあえず笑顔を浮かべれば変わらない冷たい両目でじっと見つめられる。
いつのまにか時が止まっていた両方の耳にようやく周囲の音が届く。
周りは俺と同じくコーヒーを待つ人がいて、その多くが目の前の林堂に向けられているのが感じられる。それくらい容姿が整っているのだ。
「…変わってないね。その笑顔。…可愛くない。」
また心臓が跳ねる。彼女が口角を上げると、体が固まったのが自分でも分かった。
「ラテでお待ちのお客様ー?」
「あ…は、はい!」
雑音の中から聞こえ、少し大袈裟すぎる音量で返事をして弾かれたように取りに行く。ラテを受け取ってゆっくり振り返ると、彼女はまだそこにいた。どうやら待っていてくれているようで、顔には出さずに心でため息を落とした。
「…あの、授業とかは?」
彼女は俺の笑顔が好きじゃないんだ、そう自分に再度言い聞かせて視線を別のところにやりながら尋ねる。なんとなく歩き出した彼女に合わせ踏み出す。
「さっき終わって次は午後イチ。お昼は?」
「まだだけど…林堂もまだなの?」
彼女は眉をしかめて立ち止まる。
「りんごちゃん、て呼んで?」
りんどうごう、から彼女はりんごちゃんと呼んで欲しいといつも周囲の人間に言っていた。どうやらそれは今でも健在らしい。
「ごめん…いや、でも流石に大学生だし…ちょっと恥ずかしいんだけど。」
苦笑して言うと、彼女は大きく息を吐いてじろりと不躾な視線を浴びせてきた。
「いちごちゃん、も嫌?」
「嫌、かな…」
視線を逸らして言えば、彼女は特に気にする素振りも見せずに前を向いて、手に持つアイスティーのストローを噛んだ。
「あ、りんごちゃん!おはよー!」
友達であろう女の子のグループの挨拶を、彼女は軽く手を振るだけで済ませる。
「いや、せめておはようとかは返そうよ…」
小声で呟いてみたが、そんなことを気にするような性格ではない。と思う。
思い返せば、彼女とは幼稚園から一緒だった気がする。小学校になって同じクラスになり、悟の漢字をごと読み、あのあだ名を付けられた。それ自体は嫌じゃなかった。
しかし、それから他の男子生徒にいじめられるようになり…
「豪ちゃん!」
目の前に突然カラフルな色が飛び出してきて網膜を刺激する。真っ赤なスカートに白いシャツ、黄色いカーディガン…夢の国かと目を瞬かせていると、真反対の色味の林堂は嫌悪感をあらわにして目の前の女の子を見た。
「偶然だね!お昼はまだぁ?一緒に食べようよぉ!」
猫なで声が耳につくその女の子は訝し気に俺の方を見て、警戒するように林堂の腕を引いた。
「いち…この人と食べるから遠慮する。」
しかし絡まれた腕は乱暴に解かれ、林堂は目も合わさずその子にそう言った。彼女に恨めしそうな目で睨まれ、俺は必死に笑顔を浮かべて言う。
「いや、俺は一緒でもいいんだけど…」
「私は良くない。松城は他の人と食べなよ。じゃ。」
初めてこんな冷たい言動をする彼女に驚きを隠せず、茫然としたまま真っ黒な背中について行った。
明らかに機嫌が悪そうな彼女に話しかけることもできず、遠ざかっていく悔しそうな顔をしたあの子を振り返ることもできずただ歩く。
途中空になった飲み物のカップを、今となっては希少なゴミ箱に捨てる。何度か角を曲がると、ピタリと林堂は歩みを止めた。
「…ここでいい?」
「え?」
振り返った彼女は何事もなかったかのように変わらない涼やかな顔をしていた。
その指差す方を向くと、控えめなサイズのイタリア国旗が掲げられている小ぢんまりとした静かそうなお店だった。
「ああ、う、うん。」
大学の門からそう遠くない場所に洒落た店があるものだと頭の中で経路を確認する。一年以上も大学へ通っているのにここを知らなかったことを残念に思った。
「いらっしゃいませ。」
「…二人です。」
「では窓際のお席へどうぞ。」
入り組んだ場所にあるお店だ、学生は意外にもいなくて落ち着いたBGMが心地良かった。壁際の席を彼女に譲り腰を落ち着けると、店員さんがすぐにメニューとお水を持ってきてくれた。
「ありがとうございます。」
「いいえ、お決まりになりましたら呼んでくださいね。」
気の良さそうなおばさんで良いお店だな、と林堂を見る。
「ここ、何度か来たことあるの?」
「…まぁ。」
素っ気ない返事の彼女に苦笑いをしてメニューに視線を移す。あまり種類が豊富ではないが、優柔不断な自分には丁度いい。
「い――決まった?」
さっきもそうだ。いちごちゃんと呼ぼうとして止める。
一応気にするんだ、と思ってなんとなく人間らしいところに微笑ましくなる。さっきまであんなに気にしていた自分が小さく思えた。
「いいよ、いちごちゃんでも。もう。」
そう言うと彼女は何度か瞬きをして、目を伏せる。けれど少しした後にまた顔を上げて店内を見回した。
「あ、決まった?すいません。」
俺が声を掛けるとすぐに店員さんは来てくれて、カルボナーラと、林堂はボロネーゼを注文した。
「…変わったと思ったけど、そうでもないんだね。いちごちゃん。」
改めてそう呼ばれると少しまだ後ろが気になるが、次第に慣れるだろう。そう自分に言い聞かせて水を飲みこむ。そろそろ克服しないと。
「そ、そうかな…?」
「おどおどしてるとこ。人を気にすること。お人好しなとこ。」
それは全て友人に言われたことがあった。ぐうの音も出ない情けない俺を見て哀れにでも思ったのか、彼女は少し口角を上げた。
「…いちごちゃん。」
「えっ?な、なに?」
彼女はテーブルに肘をつき、口元を片手で覆うと考える様に目を伏せて黙った。
気まずさに奥のキッチンの方を見ると、白髪のコック服をきっちり着たおじさんが湯気の合間に見えた。
「――いちのせ、だよね。」
唐突に呼ばれ絶句する。まさか今までの時間も俺を呼ぶ時にいち、までしか言えなかったのも、名字を思い出すためだったのだろうか。
「…違った?」
「……一ノ瀬、悟です…。」
変に勘ぐってしまって情けない気持ちと、覚えられていない切なさ。
言い表せない感情が押し寄せ、肩を落とす。
「ああ、さとるっていうのは覚えてた。小学生にあれは読めなかった。」
「まぁ、そうだよね…あはは。」
自分でも思う不謹慎な乾いた笑い声で誤魔化す。こんな作られた笑顔、可愛くないと言われるのも納得できる。
「…そのせいでからかわれてたよね。」
一気に体中の血が凍り付くような感覚に手が震える。冷淡な目で真っ直ぐに俺を見てくる林堂から目を離せずに、口角が引きつる。
「……ごめんね。」
その一言で淡くなっていた視界に色が戻る。
「え…っ?」
いつの間にか目を逸らしていた彼女を見て、自分が冷や汗をかいていたことに気付く。首筋がひんやりしていた。
「いや…」
あんなものは、子供のちょっかいだと今ならば分かる。ただその標的が俺だったというだけだ。それに、俺は――
「俺、最初からかわれててもへらへらしてたからさ…」
だから次第に嫌がらせにも繋がったのだ。傍から見れば子供が遊んでいるだけだったが、自分が常に下に見られるというのは良いものじゃない。
「でも、助けてくれたじゃん。」
堪らなくなって泣いた時、目の前に立ってくれたのは彼女だった。ハッキリ言えるその背中に憧れを覚えた感情はまだ継続中だ。林堂は、かっこいい。
「……そんなの…。元は私のせいだからね。」
目も合わせず歯切れの悪い彼女を見て笑みがこみ上げる。俺と同じように、彼女もそれを覚えてくれていて、罪悪感まで持っていたと聞いた今、なんとなく心も晴れやかだった。
「お待たせしました。はい、ボロネーゼとカルボナーラでございます。」
丁度良く出てきた美味しそうな一品に目を輝かせる。ベーコンと半熟卵、胡椒とチーズの香りが食欲を掻き立てる。
「わ、ありがとうございます。」
コトン、と置かれた皿に林堂も会釈をしてフォークを持つ。
「いただきます。」
想像していたより美味しいパスタですぐに平らげてしまった。
林堂の頼んでいたボロネーゼも肉がゴロゴロしていて美味しそうだったし、次はそれを頼もうと思っていると、彼女は口を拭いて気怠そうに視線を上げた。
「…ここ、おすすめ。」
「うん、また来るよ。ありがとう教えてくれて。」
俺が笑うと、彼女も微笑んで立ち上がる。イメージが冷たい顔だからか笑顔がいつでも新鮮に見えてソワソワしてしまう。
「ご馳走様でした。」
「あ、俺が――」
やはり男が払った方が良いのだろうかと一瞬脳裏を過ぎて駆け寄ろうとするが、ピッと店の外を指した指に止められた。
「一ノ瀬はいい。その代わりそこの店の紅茶、買ってくれる?」
「へ…あ、うん…いやでも」
「Mね。氷抜き砂糖ひとつ。早く。」
「は、はい。あ、ご馳走様でした!美味しかったです!」
有無を言わさぬ口調で追い出され、レジに並ぶ。横にあるショーケースの中に飾られるように並んだケーキやクッキーを見て頭を悩ませる。甘いものは、好きだったかな…
「えっと、紅茶を二つ、Mサイズで氷なしでお願いします。っあ、あと――」
店の前で待っていた彼女に渡すと、なんとも言えない微妙な顔をされた。
「…ごめん、嫌いだった…?」
「いや…」
彼女の左手には紅茶、右手には半ば俺が衝動的に買った、レジ横にあったクッキーの袋が乗っている。やっぱりお菓子はあんまり食べないのか、と心配する俺を他所に彼女はそれをじっと見つめた。
猫のクッキーが可愛いなと思ってつい買ってしまったのだがやはり気に入らないのだろうか。
「…これ、美味しいんだ。ありがとう。」
その割には眉間にしわが寄っていてとてもお礼を言っているような顔ではない。
しかしその場ですぐに開けて食べ始めるから、本当に嫌いではなさそうで俺は内心安堵する。
「え、そう…?良かった。ごめんね、払わせちゃって。ご馳走様でした。」
「無理に連れてきたのは私だから。」
またさらりと言って歩き出す。時間的にもう大学に向かう頃合いだ。
そっと差し出されたクッキーの袋に、一枚だけ取って口に入れる。サクサクとしたそれはふんわり紅茶の味がして美味しい。
「ありがと。…色々話せて良かったよ。」
「…そうだね。」
「そういえば、学部は?」
「外語。…一ノ瀬は?」
「あ…俺は、総合情報。」
ふぅん、と興味のなさそうな声が帰って来る。
俺の名字が思い出せたから、いちごちゃんとは呼ばないのだろうか、と気にしながら話題を探す。
「でもさ、驚いたよ。まさか林堂と会うと思ってなくてさ――」
「りんごちゃん。」
ピタリと歩みを止め、嫌そうな顔でもう一度繰り返す。
「りんごちゃん、て呼んで。じゃないと会話しない。」
目の下にまでしわを寄せ、本当に嫌そうな顔をしているのが心に引っかかった。
「ごめん…」
何で、の言葉を飲み込んで代わりに口にした言葉に、りんごちゃん は顔を背けた。空になったクッキーの袋をポケットに突っ込んで、くるりと前を向く。
やってしまった、と後悔する前にまた涼やかな声が投げかけられた。
「…何で総合情報にしたの。」
半歩前を歩く彼女の顔はもう見えないが、空気を変えようと気を使ってくれたのは流石の俺でも察しが付く。
「えっと、オールラウンドだし?特にやりたいこともないからさ。」
「…へえ。」
「……りんごちゃん、は?」
「留学してたから。」
呼ぶのにかなり勇気を要したが、素っ気なく返された理由にくっと喉が詰まった。
「え、そうなんだ…俺は、ずっと流されてきたから……羨ましいな。」
彼女が急に大人びて見えてしまい、真っ黒の背中から目を逸らす。何も自分が貶されている訳ではないが、並んで歩く道が狭く感じた。
「すごいね、アメリカとか?」
急に振り返った林堂は真面目な顔をして、俺の顔を覗き込む。
「…いちごちゃんはいつかストレス抱えて死んじゃいそう。」
じゃあ、と彼女は軽く手を上げると数多の学生の波に吸い込まれてしまった。
また、俺は乾いた笑顔を浮かべていた。
重いため息をついて教室のある棟へ歩き出す。
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