第44話 世界の成り立ち

 同行者が決まると、臥神は、自分の気球に、リディア、ロイ、ステイシア、レイ、クロードを乗せ、もう一つの気球に、従者四人と霞寂と雲水陽焔ウンスイ・ヨウエンを乗せて、離陸した。

 気球が上昇するにつれて、地上で気球を見上げながら手を振っている近衛兵たちの姿は、どんどんと小さくなっていった。

 空を飛ぶ乗り物に初めて搭乗したステイシアたちは、興奮と畏敬の念の入り混じったような気持ちで、自分たちのいた世界を見下ろしていた。それは、まるで、天界を自由に舞う天使にでもなったかのような不思議な感覚でもあった。

 「人間が鳥のように空を飛ぶことが出来るなんて、考えたことすらありませんでした…」

 クロードが、雄大な空と、眼下に広がる広大な大地を目にして、感慨に浸りながら呟いた。

 臥神と霞寂とその従者たち以外の誰もがそう思っていたが、あまりに信じられない体験だったため、皆、しばらく言葉を失ったまま、恍惚の境地へといざなわれていくかのように、別世界のようなすばらしい光景に見入っていた。

 彼らの乗る気球が飛行する空には、遠ざかっていく黒い雨雲以外は何もなかった。彼らの行く手を遮るものは何もなく、地上の様々な障害物や人間同士の争いなど、負の要素となるようなものが何もない、完全に自由で平和な世界のように感じられた。

 気球は、しばらくの間風に流されながら、ランドルの森の上空を漂っていた。臥神がどのように気球を操縦しているのかは誰にも分からなかったが、空の移動は、地上とは比べものにならない程速かった。

 臥神の言っていた三つの巨大遺跡を結ぶ三角域の重心点付近まで来ると、今まで森の樹木しか見えなかった大地に、火災で樹木を焼失し、無残な姿で地肌がき出しとなった場所が見えてきた。

 「降下を始める」

 臥神のその一言で、恍惚状態から目覚めたロイたちは、臥神の見下ろす方向に視線を移した。

 そこには、大きな竪穴のようなものが見えた。それは、グランダルにそびえ立つ巨大ピラミッドが、そのまま入ってしまうと思われる程の大きさで、それ程巨大な穴が、ランドルの森の中に存在していたなど信じられなかったが、眼下の光景は、ややかすんでいるようにも見え、物理的にそこにあるというよりも、同じ場所に別世界の竪穴が重なって存在しているかのようにも見えた。

 臥神は、竪穴の存在に驚く様子もなく、目には見えない空気の流れを読み取っているかのように、風の流れのない場所を選んで、ゆっくりと垂直に気球を降下させていった。

 霞寂の操縦する気球も、臥神の気球の後を追うようにして飛行していたが、雲水ウンスイという名の男が竪穴を見るなり騒ぎ立て始めた。気球のかごが安定を失って揺れ始めたため、従者たちは男を力づくで押さえ込み、口に布を押し込んで口をふさいだ。すると、抵抗しても無駄なことを悟った男は、諦めたかのように、黙りこんで静かに籠の中に腰を落とした。

 気球が安定を取り戻すと、霞寂は、燃焼装置から噴き出す炎を絞り、気球の排気装置を開け、内部の熱気をゆっくりと抜いて、降下を始めた。


 不思議なことに、気球が竪穴に入ると、突然気球の燃焼装置の炎が消え、太陽の光が差し込まなくなり、何も見えない暗闇に包まれてしまった。

 臥神は、取り乱す様子もなく冷静に燃焼装置を手探りで確認していたが、ロイたちは皆、視覚的な情報を奪われて未知なる世界へと入り込んでいく恐怖と心の中で戦いながら、気球から落ちないように籠のふちをしっかりとつかみ、声を出して乗員全員の無事を確認すると、その後は、黙ったまま気球が無事にどこかに着陸するのを祈った。


 どのくらいの時間が経ったのだろうか。気球の燃焼装置は結局直らず、まったく光のない完全な暗闇の中で、全員、気球の籠の中に座り込みながら、どこかに到着するのを待ち続けた。

 今もまだ気球が降下をし続けているのか、あるいは、空中を前後左右のいずれかの方向に漂いながら進んでいるのか、臥神も含めて、気球の乗員の誰一人として分かる者はいなかった。なぜなら、竪穴に入る前に空中で感じることの出来た空気の流れを、肌で感じることが出来なくなってしまっていたからである。

 何も見えない状況下に長時間置かれていると、誰もが不安を感じ、何かに触れていないと、自分がどこにいるのか分からなくなるだけでなく、自分自身が本当に存在しているのだろうかという疑問さえも湧き上がってくる。ロイたちは、気球の籠のふちつかみ続けながらも、隣の仲間の体を手探りで探して、手を握り合った。

 しばらくすると、霞寂の操縦する気球に乗っていた雲水という男が、突然叫び始めた。

 何を言っているのかは、ロイたちには理解出来なかったが、何事かと思い、籠の中で立ち上がって、声の聞こえた方向に目を向けると、雲水の体が、かすかな光に照らし出されていた。

 「光だ!」

 ロイが、光源の方向に視線を移すと、小さな光の点のようなものが見えた。

 気球の乗員の誰もが立ち上がって、その光の方向に目を向けた。

 それは、暗闇の中で、唯一、彼らに方向性を与えてくれるものだった。

 空気の流れは依然として感じることは出来なかったが、光の点が徐々に大きくなっていくのが分かったため、彼らの乗る気球が、その光の点に向かって進んでいるのだという、移動感覚も蘇った。

 そして、光の点に近づいていくにつれて、光の輝きは増していき、ついには、目を開けていられないほどの眩しい光が彼らを包み込んだ。

 次の瞬間、彼らは、不思議な世界に迷い込んでいた。

 臥神と霞寂の気球は、燃焼装置が作動しなくなってしまったこと以外は、どこにも損傷を受けることなく、無事に陸地に着陸したようだった。

 辺りを見廻すと、皆、目の前に広がる光景に目を見張った。そこに存在するすべての物が、信じられないほどの大きさだったのである。

 巨人族の世界に入り込んだのだから、それは当然のことと予想はしていたものの、実際にの当たりにすると、言葉に出来ないほどの驚きを感じた。

 彼らが着陸した場所は、川のほとりのようだったが、川は海と間違えるほど川幅が広く、対岸は遥か彼方にかすかにしか見えなかった。

 時折、川の水面を魚が飛び跳ねたが、それはまるで、海水面を叩きつけて水の中に戻っていくくじらのように、激しく巨大な飛沫しぶきを、ロイたちのいる場所に降り注いだ。

 周辺には、美しい花の咲く植物が繁茂していたが、それらは、彼らの背丈と同じか、それ以上のものばかりだった。

 さらに先に目を向けると、樹木が林立していたが、それらも計り知れないほどの巨大なもので、地下世界に空があるというのも不思議だったが、樹上の先端は、その空にまで届きそうな程、背丈の高いものだった。

 巨人族の地下世界では、彼らは、虫にでもなったかのように、自分たちがとても小さい存在として感じられた。それほど、周りの全てのものが大きかったのである。

 しかし、それも正しくはないことに、すぐに気付かされることになった。

 草陰から、彼らの体と同じくらいの大きさの巨大な飛蝗ばったが顔を出し、彼らを見つめていたのである。それは、エドの生物研究所で見た頒賜蝗ハンシコウと見た目はそっくりだったが、虫といえど、それほど大きな虫は、彼らにとっては、命を脅かしかねない危険な存在だった。

 ロイとクロードは、半ば恐怖に怯えながらも、すぐさま腰の剣を抜いて、ステイシア姫を護ろうと身構えた。そして、ロイは、巨大な飛蝗ばったに警戒しながらも、全員の助かる良い策はないものかと、無言の問いを投げかけるかのように、臥神に目を向けた。しかし、臥神も、初めて訪れた世界で、どうすべきかを思案しているようで、臥神にもなす術がないように見えた。

 「恐れなくともよい。この世界の生き物は、人間に危害を加えることのない、平和的な生き物ばかりなのだ」

 突然、雲水ウンスイが、ロイたちの理解できる言葉で話し始めた。

 これには、全員が、目の前の巨大な飛蝗ばったの脅威を忘れてしまうほど驚いて、雲水に目を向けた。これまで、精神的に錯乱した状態のようにしか見えなかった雲水が、人が変わってしまったかのように、突然、冷静な声で話し始めたのである。

 「あなたは、我々の話す言葉を話せるのですか?」

 「お前たちの言葉を話しているのではない。私は、ランドル語を話しているのだ」

 「ランドル語?」

 「そうだ。お前たち地上の世界の人間が、巨人族と呼ぶ、この世界に生きるランドルの言葉だ」

 「しかし、我々は、ランドルの言葉など話せませんが、どうして、あなたとこうして話が出来るのですか?」

 「それは、この世界では、言葉の違いによる意思疎通の問題というものが存在しないからなのだ」

 「それは、どういうことですか?」

 「お前たちに仕組みを説明しても理解できないだろうが、簡単に言えば、ここは、お前たち地上の世界の人間が想像する理想郷のような世界で、すべての物が、人間の想像しうる理想に近い状態で創り上げられているのだ。つまり、すべてが完璧な世界なのだ」

 「完璧な世界?」

 「いや、完璧な世界だと奴らが思っているだけで、実際は、完璧な世界などあり得ないのだが」

 「奴らとは誰のことですか?」

 「勿論、この世界の住人たちのことだ」

 「あなたは、この世界の住人のことを知っているのですか?」

 「当たり前だ。私は、この世界の住人だったのだからな」

 そう言うと、雲水は、ロイたちのことを眺めていた飛蝗ばったに視線を移した。

 彼が、飛蝗ばったに指示するような手振りを見せると、飛蝗は素直にその場から離れた。

 その様子を見ていたロイたちは、雲水がこの世界の住人だったというのは本当かもしれないと感じた。

 「あなたが、この世界の住人だったのだとしたら、なぜあなたの体は、我々と同じ大きさなのですか?地上世界の考古学者たちの調査によれば、ランドルの身長は、我々の十倍以上もあると推定されていますが、それは正しくないのですか?」

 飛蝗ばったの恐怖が取り除かれたことで、ステイシアが話に加わった。

 「その推定は、間違いではない。私の体もかつては、その大きさだったのだ」

 「では、なぜ今のあなたは、我々と同じ大きさなのですか?」

 「それは、私が、この世界を離れて、地上世界に行くにあたって、地上世界の人間に合わせて、体を小型化したからだ」

 雲水の答えは、レイが地下世界に来る前に言ったことと一致していた。

 「では、我々はランドルを巨人族と呼んでいますが、それは誤りで、正しくは、我々地上世界の人間が、小人になったということなのですか?」

 レイも話に加わり、雲水に尋ねた。

 「その通りだ」

 「すると、我々は、体を小型化して地上世界に住みついたランドルたちの末裔まつえいというわけですね?」

 雲水は頷いた。

 「では、なぜ我々の祖先は、この地下世界を離れて、地上世界に暮らすようになったのですか?」

 「それは、彼らが、この地下世界の暮らしに嫌気がさしたためだ」

 「どういうことですか?」

 「先程も言ったように、この世界は、人間が考え得る理想に出来る限り近い形で創られた世界で、飢えや病気、貧困、戦争など、あらゆる負の要素が取り除かれた世界なのだ。ここでは、すべての人間が、生きることへの不安を感じることなく、平和に暮らしていけるのだ」

 「それは、素晴らしいことではありませんか。もしそれが本当だとしたら、なぜ、人々は、そんな理想的な世界に嫌気がさしたのですか?」

 「考えてもみるがいい。負の要素という存在自体が在るということは、それが必要だからこそ在るのだ。光が在れば、必ず影も存在する。もし、影のない世界を作り上げることが出来たとしたら、我々は、物を正しく認識することは出来なくなってしまうだろう。それと同じように、飢えや病気、貧困などの負の要素も、理由があって存在しているのだ。仮にもし、ある人間が、自分は病気で苦しむ人々を救いたい、自分はそういう人間になりたい、そういう体験をしたいと考えたとしても、病気なぞ、この世界には存在しないのだ。もし、飢えに苦しむ人々のために、食糧問題を解決したいと考えたとしても、食糧問題も、この世界には存在しないのだ。この意味が分かるか?」

 雲水の問いかけは、レイにとって、究極の問いのように感じられた。

 「それは、すべての問題が解決された世界では、人間は何も学べなくなってしまうということですか?つまり、人間が生まれてくる目的が、人間性を高めることだとすると、完璧な世界では、人間は、より高い人間性を目指すという人生の目的を達成できなくなってしまうということなのですか?」

 「その通りだ」

 「では、この理想的な世界の住人は、人生最大の問題と言われる死をも克服したのですか?」

 「その問いの答えは、是でもあり非でもある。この世界の人間は、医学や生物工学などを発達させることにより、病気を予防できるようになっただけでなく、死んだ人間をも蘇生させることが出来るようになったのだ。つまり、死を克服することに成功したと言ってもよい。たとえ、肉体が死のうと、肉体を物理的に破壊しようと、その肉体の情報と、その肉体の持っていた記憶の情報が全て保存されている限り、人間を蘇生または復元出来るようになったのだ」

 「ならば、地上の世界で死んだ人間も、この世界なら、生き返らせることができるのか?」

 リディアが、希望の光を見出したように尋ねた。

 「無論、それも可能だ」

 雲水の答えを聞いて、リディアは興奮しながら続けた。

 「私の母、ライーザは、地上の世界で殺されたのだが、彼女を生き返らせることも出来るのか?」

 「勿論もちろん出来るが、それには、その人間の識別情報が必要になる」

 「識別情報?」

 「簡単に言えば、名前のようなものだ。人間は、体内に、個人を識別するための情報となる生体マーカーと呼ばれるものを持っているのだ。この世界では、それを利用して、すべての人間がどこにいて、何をしているのか、肉体がどのような状態にあるのかなど、すべてが監視、管理されている。そのため、この世界の人間であれば、仮に自殺を図ったとしても、自動的に蘇生、復元させられてしまい、死ぬことは出来ない。しかし、地上世界で死んで、肉体がこの世界にないのであれば、自動的に復元されることはない。その識別情報がなければ、誰を復元すればよいのかが分からないからだ。つまり、その人間を復元させるには、その人間の識別情報が必要となるのだ」

 「その情報は、どうやったら手に入るのだ?」

 「この地下世界の中心部に、すべての情報を管理している中央制御装置のある場所がある。そこに行けば、お前の言う人物の情報を見つけることが出来るが、そこには、権限を持った限られた人間しか入れないのだ」

 「私がそこへ行く手段はないのか?」

 「無い。権限を持たぬ部外者がそこに入ることは絶対に出来ぬのだ。しかし、そこに行かずとも、死んだ母親に会う方法は他にもある」

 「それはどんな方法だ?」

 「それは、死ぬことだ」

 雲水の答えは意表を突くものだったため、リディアだけでなく、誰もが混乱して理解出来なかった。

 「どういうことだ?この世界では死ぬことは出来ぬのではないのか?」

 「その通りだ。生体マーカーは、親から子へと引き継がれ、その過程で、子は、両親の識別情報を組み合わせて別の個体としての異なる識別情報を持つようになるのだが、古代のランドルの子孫である、お前たち地上世界の人間も、当然、生体マーカーを持っているため、この地下世界にいる限りは、監視され、管理されている。したがって、この世界では死ぬことは出来ない。死んだとしても、自動的に蘇生、復元させられてしまうからだ。しかし、地上世界に戻って死を選択するか、あるいは、この世界を統治する最高指導者に会って、この世界での人生を終わらせる許可をもらうことさえ出来れば、再び生命の原初と呼ばれる元の世界に戻って、母親に会うことができるだろう」

 「もしや、トラキアの地下牢で、お前が私から短剣を奪おうとしたのは、地上世界で死のうとしていたのか?」

 「そうだ。私は、地上世界に行くことを認めてもらう代わりに、地下世界で得た知識や記憶などをすべて消し去られたのだが、記憶を失ってしまっては、地上に行って死ぬという目的を意図的に果たすことが出来なくなる。そこで、私は、記憶を消される前に、記憶を消す装置に、ちょっとした細工を施したのだ。そのため、私の記憶は完全に抹消されることはなかった。そして、地上世界の地下牢に閉じ込められている間に、記憶の一部を取り戻したのだ。しかし、お前たち地上の人間は、私を拘束して妨害し続けた。勿論、それは、お前たちが私の目的を知った上で意図的にしたことではないことは分かっているが、結果的に、私の死の選択の邪魔をし続け、私はこの地下世界に連れ戻されてしまった。そのおかげで、すべての記憶はこうして蘇ったが、また初めからやり直しとなってしまったのだ」

 ステイシアには、地上世界では、生きたくても生きられない人々が大勢いるというのに、雲水が、平和で理想的な地下世界を離れ、地上世界へ行って死のうとする理由が分からなかった。

 「あなたは、なぜ、そうまでして死を選ぼうとするのですか?」

 「輪廻の鎖を断ち切るためだ」

 雲水のその言葉には、力がこもっていた。

 「我々人間は、様々な世界で、様々な人生を送ることになっている。男や女、国王、貴族、富豪、貧民、呪術師、僧侶、軍人、商人、農民、役者、音楽家、学者、教師、天才、凡才、孤児、浮浪者、病人など、様々な人生を経験することで、様々なことを学び、様々な立場から物事を考えられるようになって、人間性を高めていくというのだが、そんなことを繰り返して人間性を高めて、その先に何があるというのだ。その究極の目的を知らされずに、我々人類は、輪廻を繰り返し、何万年も、何十万年も、いや何百万年もの長きに渡って、人生を繰り返しているのだ」

 雲水の話はもっともなように聞こえたが、レイが雲水の言葉に矛盾を感じて尋ねた。

 「人は死を迎えると、再び違う肉体を与えられて、異なる人生を送るというのが輪廻だと、地上世界のある僧侶に聞いたことがありますが、この地下世界では死というものが克服されているのだとしたら、輪廻は起こらないのではありませんか?」

 レイの質問は、もっともなものだった。レイだけでなく、他の誰もが同じ疑問を感じて、雲水の答えに注目した。

 「私が、『この世界では、人生最大の問題と言われる死をも克服したのか』という質問に対して、是でもあり、非でもある、と答えたのは、そこにあるのだ。この世界では、人間は死を克服する技術を手に入れることに成功したのだが、寿命を超えてまで生きることは許されなかったのだ」

 「許されなかった?誰が許さなかったというのですか?」

 「分からぬ。それが誰なのかは、私には分からぬが、人間の認識できぬ何らかの存在によって、それは許されなかったのだ」

 「それは神という存在なのですか?」

 ステイシアが尋ねた。

 「お前たち地上の人間は、そのように呼ぶかもしれぬが、お前たちの考えるような人間の姿をした神という存在ではない。それは、我々ランドルにとっても、想像を遥かに超えた偉大な存在なのだ。恐らく、人間は、永遠にその存在を知ることは出来ないだろう」

 「では、この世界の人間も、寿命が来れば死を迎え、その後、再び肉体を与えられて、違う世界で異なる人生を歩み、それを繰り返していくのですね?」

 「その通りだ。だが、ランドルの寿命は、地上世界の人間とは比べものにならぬほど長いのだ。我々には、数千年もの寿命があり、その間ずっと、この退屈な世界で暮らしていかなければならぬのだ。この完璧に極限まで近づいたと言われる理想的な世界で暮らすことの苦しみは、お前たち地上世界の人間には理解出来ぬだろう」

 雲水は、人間世界を包み込む未知の包括的な世界のおきてのようなものを受け入れることが出来ずに、苛立ちを覚えているようだった。

 「私たちは、この世界に暮らしたことがありませんので、その苦しみというものが、どういうものかはまだ理解できませんが、この世界が存在しているということは、あなたが先程仰ったように、この世界も必要だから存在しているのではありませんか?そして、あなたが、この世界に生まれたということは、あなたがこの世界を選んだということなのではないのですか?」

 レイの質問は、再び雲水の矛盾を突くような質問だった。

 「その通りだ。この世界は、理想世界というものが、どういうものなのかを体験するために作られた世界なのだ。そして、私は、今の生を与えられる前に、いくつかの異なる世界の候補が提示され、私はこの世界を選んだ。そのときは、この世界が最高の世界だと思えたからだ。そして私は、この世界に生を受けることとなった。しかし、通常であれば、過去の記憶は全て一時的に抹消されて、新たな人生を歩むことになるのだが、まれに過去の記憶を保持したまま、生まれてくることがある。私もその一人だったのだ。そして、実際にこの世界で暮らしてみたのだが、私の選択が誤りだったことに気付くのには、それほど長い時間はかからなかった。これほどまでに退屈で、ほとんど何も学ぶことのない世界というものに嫌気がさして、私は、地上世界へと逃げたのだ」

 「しかし、地上世界には、ランドルの巨大遺跡があります。それは、かつてランドルたちもそのままの大きさで地上世界に暮らしていて、何らかの理由で地上世界を去り、地下世界で暮らすようになったということなのではないのですか?その捨て去った地上世界へ、あなたが再び行くというのは、どういうことなのですか?」

 今度は、ステイシアが、もっともな質問を投げかけた。

 「人間とは、同じことを繰り返してしまう生き物なのだ。少なくとも、輪廻を繰り返す必要のある人間は、同じ過ちを何度も繰り返すようなのだ。そうやって、自分の過ちに少しずつ気付いていくことにより、様々な教訓を得ていくらしいのだ。今の質問にあった通り、私の祖先である古代のランドルたちが、かつて地上世界で暮らしていたのは事実だ。しかし、人間の様々な負の側面が原因で、最終戦争とも呼べるいくさが起こり、地上の世界は滅びてしまったのだ。生き残った数少ないランドルたちは、その戦争によって汚染された地上世界を捨てて、地下に潜って暮らすようになり、もう争いごとのない平和な世界を作り上げようと、長い時間をかけて、今のこの世界を創り上げてきたのだが、やはり私と同じように考える者は古代にもおり、理想的な世界を追い求めること自体は悪いことではないが、その世界に暮らし続けることに疑問を感じた一部のランドルたちは、再び地上世界へと戻って行った。しかし、地上世界は、ほとんどの地域が汚染されていたため、汚染度の比較的低い地域を選び、体を小さくすることにより、限られた地域で生活するようになったのだが、長い時を経るにつれて、ランドルたちは再び同じことを繰り返すようになっていった。今のお前たちの地上世界がその結果だ。お前たちは、過去の教訓を忘れ、限られた世界の限られた資源を奪い合い、戦争を繰り返しているのだ。しかし、それも仕方がないことなのだ。人間は、過去の人生での記憶を一時的に失って、別の人生を生きることになっているのだからな」

 「それで、あなたは、過去の人生の記憶を失って同じことを繰り返していくことに疑問を感じて、輪廻の鎖を断ち切りたいというのですね」

 ステイシアが納得したように言った。

 「そういうことだ」

 「では、お前は、これからどうしようというのだ?」

 リディアが尋ねた。

 「私は、これからお前たちと別れて、別行動を取る。私もお前たちも、生体マーカーによって監視されているため、この世界から逃げ出すのは容易なことではないが、私は、この世界を脱出する方法を知っているのだ」

 「我々は足手纏あしでまといというわけか」

 「その通りだ。しかし、お前たちを見捨てようというのではない。お前たちは、この世界を探求し、ランドルたちの持つ偉大なる叡智を手に入れるためにここに来たのだから、しばらくはこの世界で暮らして、様々なことを体験するがよい。お前たちのような遅れた文明の人間たちにとっては、学ぶことは多いだろう。しかし、いずれお前たちにも、この世界の退屈さが分かる時が来る。その時は、地上に戻ることを検討することだな」

 「その時が来たら、どうすればよいのですか?我々の乗って来た気球は、もう壊れてしまったようですが、どうやって地上に戻ったらよいのですか」

 霞寂が突然、不安そうに尋ねた。

 「壊れたのではない。この世界を監視、管理している中央制御装置が、気球の燃焼装置から出される炎が森の樹木に誤って引火して森林火災となるのを恐れて、燃焼装置が一時的に作動しないようにしたのだ」

 「では、気球では地上世界に戻ることは出来ないということなのですね…」

 霞寂が、残念そうに呟いた。

 「すると、この世界の最高指導者に会うしかないということか。では、どうやったら、その最高指導者に会うことが出来るのだ?」

 リディアが再び尋ねた。

 「それを教えてやる前に、この手枷てかせを外してくれぬか?」

 雲水は、霞寂に両手を差し出して、手枷てかせを外すように要求した。

 霞寂は、臥神に目を向けて、指示を伺った。

 リディアたちも臥神に視線を移した。戦場における経験のあるリディアやロイ、レイやクロードたちは、このような取引においては、騙し騙されることが常で、要求を先に呑んだ方が負けることもあることを知っていたため、臥神がどのような答えを出すかに注目した。手枷てかせを外せば、この世界のことを知り尽くしている雲水は、最高指導者に会う方法を教えずに、そのまま逃亡してしまうことも考えられたからである。

 臥神の出した答えは、意外なものだった。臥神は、霞寂に頷いて、手枷てかせを外すように指示したのである。

 その答えが、これまでと同様、臥神の綿密な計画に沿ったものなのかどうかは誰にも分からなかったが、臥神に絶対的な信用を置いている霞寂は、ためらうことなく、雲水の手枷てかせを外した。

 すると、雲水は、突然、指笛を吹き始め、気球の籠から飛び降りた。

 リディアたちの予想どおりだった。雲水は、すでに逃亡の手段を考えていて、指笛に応えてどこからともなく飛んできた妖鴉ヨーアのような鳥に飛び乗ったのである。

 「私は、これから単独行動を取るが、心配する必要はない。お前たちも、私と同じように、常に監視されているのだから、そのままそこに居れば、いずれランドルたちがやってきて、お前たちを最高指導者の下へと連れて行くはずだ。そして、最高指導者からいくつかの質問を受けることになるだろう。お前たちの処遇がどうなるかは、その質問に対するお前たちの答え次第となるだろうから、よく考えて答えることだな」

 そう言い残すと、雲水は、鳥に乗って飛び去ってしまった。

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