謀の暴露

第35話 周到に仕組まれた陰謀

 リディアを乗せた荷馬車がトラキア城に着くと、リディアは、城の地下牢へと連れて行かれた。

 兵士の一人が、入り口の扉を開けると、中から異様な臭いが漂ってきた。

 「いつ来ても、たまらねえな、この臭いは…」

 兵士は、左腕を鼻に当てながら呟いた。

 「まったくだ。こんな罪人を連行する役なんて、早く終わりにしたいものだな」

 他の兵士も不満を漏らすと、リディアの背中を小突いて、先に進むように指示した。

 階段を下りていくと、臭いはさらにひどいものになっていった。それは、囚人たちの体臭や汚物が原因のようだった。

 地下牢に閉じ込められている囚人たちは、わずかな量の粗飯しか与えられず、それらを食べ、排泄し、寝るといっただけの毎日を過ごし、まるで生きる気力を失った生けるしかばねのようだった。

 地下牢の奥へと進むと、監房の鉄格子の扉が開けられ、リディアは、両手の縄をほどかれることなく、その中に勢いよく押し込まれ、床に倒れ込んだ。

 扉が閉められると、壁の格子と扉の格子がこすれ合い、耳障りな音が地下牢全体に響き渡った。

 兵士たちは、扉に施錠をすると、陰湿で暗く、不快な臭いのする地下牢から早く外へ出ようと、リディアの縄をほどくのを忘れたまま、息をとめて、何も言わずに足早に去って行った。


 リディアは、上半身を起こすと、周りを見渡した。

 地下牢の中は薄暗く、明かりといえば、通気用に設けられた、壁の上の外に通じる格子窓からわずかに差し込む日の光と、通路の各所に備え付けられた燭台しょくだいとも蝋燭ろうそくの炎しかなかったため、すぐには気が付かなかったが、彼女の入れられた部屋は、独房ではなく、雑居房のようだった。

 部屋の奥には、以前、サパタの町の生物研究所へ向かうときに見かけた、ラモンに拘束されて連行されていた、奇妙な服を着た男が横たわっていた。すでにその服は脱がされて、囚人服に着替えさせられてはいたが、その男の顔は、間違いなくサパタで見かけた男のものだった。死んでいるのか、寝ているだけなのかは、よく分からなかったが、リディアはもはや、男と女の区別もなく地下牢の雑居房に放り込まれたのである。闘技試合の出場者だったこともあり、リディアを連行した兵士たちは、リディアが男だと勘違いしたのかもしれないが、リディアは女としての身の危険を感じ、反射的にその男から離れるように、入り口の格子扉の方に移動した。

 リディアが、今通って来た通路を挟んだ反対側の雑居房に目を向けると、そこには、以前出会った放念という僧侶のような、髪のない頭をした老人たちが、床の上で目を閉じた状態で座禅を組み、小声で何かをぶつぶつと唱えていた。何を言っているのかは、リディアには分からなかったが、それは美土奴国の言葉のようであった。囚人服を着せられてはいたが、彼らは美土奴国の僧侶たちだとリディアは思った。

 美土奴の僧侶が、なぜこんなところに収監されているのだ?

 彼らは、異教徒という理由で拘束されたのだろうか?

 リディアが心の中で自問すると、彼女の心の声を聞きとったかのように、誰かが答えた。

 「そこにいる僧侶たちは、奇妙な思想をトラキアに広めようとする悪しき者と見なされて、収監されたのだ」

 その声は、老人たちのいる雑居房の隣の独房から聞こえたようだった。

 リディアが、そちらに視線を移すと、そこには、体の小さな一人の男の姿があった。薄暗い中でよく分からなかったが、目を凝らしてよく見ると、それは子供のような体形だった。

 臥神である。彼も闘技場で拘束されて、この牢獄に入れられていたのである。

 臥神は、グスタル軍曹とアシュベル少将との戦いに勝利した後、ラモンの命により突然拘束されて、地下牢に投獄されたのだったが、その不当な扱いに憤りを感じている様子は全くなく、落ち着き払った様子でリディアを見つめていた。

 すると、突然、どこからか鳥の羽音が聞こえてきた。臥神が後ろを振り向くと、独房の壁の格子窓に全身の白いからすまっていた。臥神が、肘を曲げて左腕を前に差し出すと、その鴉は格子の間を通り抜けて、短く滑空し、彼の腕に留まった。

 妖鴉ヨーアだ!

 ランドルの森で見た妖鴉に違いないとリディアは思った。

 白い妖鴉は、脚に何かを付けていた。

 すでに縄をほどかれていた臥神は、妖鴉の脚に付けられていたものを外すと、それをゆっくりと開き、格子窓から差し込む日の光を頼りに、中を確認し始めた。

 それは、伝書鳩で密通するときに使うふみのようなものだった。

 臥神は、ふみに記載された内容を読み終えると、懐からおもむろに別のふみを出して、妖鴉ヨーアの脚に取り付け始めた。

 「やはりお前は、美土奴の人間だったのか。妖鴉ヨーアというからすを使って密通している間者かんじゃだったとはな」

 臥神は、リディアの言葉にすぐには反応せずに、妖鴉の頭を優しく撫でると、妖鴉を解き放つように左腕を高く上げた。すると、妖鴉は、臥神の腕を離れて飛び立ち、元来た格子窓から外へと出て行った。

 リディアは、正体を見られた臥神がどのように反応するかを見定めようと、臥神が口を開くのを待った。

 「私は、美土奴の間者などではない」

 臥神は、再び向きを変えると、ゆっくりとした口調でリディアの言葉を否定した。

 「だが、今、白い鴉の脚にふみのようなものを付けていたではないか。妖鴉ヨーアという鴉を、伝書鳩のように使って、ふみを美土奴国に運ばせるのであろう」

 リディアは、臥神の行為をはっきりと見たので、言い逃れは出来ぬぞとでも言うかのように、強い口調で言った。

 「確かに、美土奴国の間者は、秘密裏に収集した情報を本国に送るために、妖鴉という鴉を利用するが、私は間者のような美土奴国の手先などではない」

 「だが、間者でなかったとしても、お前は美土奴の人間なのであろう。お前がここに監禁されたのは、アマラ神殿や闘技場で妖しい妖術を使ったために、美土奴国の妖術師と見なされたからなのではないのか」

 「よいか、美土奴の人間を含めた東洋人の多くがトラキアで拘束され始めたのは、異教徒や妖術師と見なされたことだけが理由なのではないのだ。彼らは、かねる木を独活うどの大木に変えてしまう存在として恐れられ、ここに監禁されたのだ」

 「それは、どういう意味だ?」

 「そなたもラモンという男のことは知っておろう。ラモンは、すでにランドルの巨人の種子を発見しており、その種子から作った大量の作物を加工して、高値で売って大金を稼いでいるのだ。しかし、一部の東洋人がトラキアに移住し始めるようになり、トラキア国民が彼らを通じて、美土奴の国民の、土を食べる習慣やその方法を知ってしまい、人々がこれまでの食文化を捨てて、食糧を買わなくなってしまうことを恐れたのだ」

 「では、やはり、お前も美土奴の人間なのであろう。そのために、拘束されて投獄されたのではないのか」

 「いや、私は美土奴の人間などではない。だが、そなたは、私が美土奴の人間だと思い、私から、ランドルの森を無事に通り抜ける方法を聞きたかったのであろう」

 「なぜ、それを知っているのだ?」

 「そんなことは、どうでもよい。それよりも、そなたは、クベス王の暗殺を企んでおるのであろう。クベス王の娘が、祖国であるグランダルを棄てて、トラキア公国に逃げ込み、トラキアの軍隊を利用して父親を暗殺しようと企んでいるとはな」

 「違う!私は、グランダルを祖国などとは思ってなどいない!クベスが、私の父だとも、一度たりとも思ったことなどないのだ!」

 リディアは、臥神の言葉に冷静さを失って、声を荒らげた。

 「母親の敵討ちだけが、そなたの目的なのか?」

 「そうだ。それこそが、私の生きる唯一の目的だ。私は、そのために、グレン=ドロスの厳しい修業にも耐えて生きてきたのだ」

 「そなたは、なぜ、クベス王直属の軍の将軍であるグレン=ドロスが、クベス王のめいに背いてまで、密かにそなたを育て上げたのか、疑問に感じたことはないのか?」

 リディアは、臥神の問いかけに、返す言葉を失った。今まで、母親のかたきを討つことだけを考えて生きてきたため、そのようなことを真剣に考えたことがなかったからである。

 母親のライーザが、赤子だった自分を抱いて城を抜け出し、自分をグレン=ドロスに託して、一人で身を隠したのだと聞かされていたため、グレンが自分を育ててくれたのは、クベス王の妻の一人であるライーザの頼みを聞いたからだとしか思っていなかったが、確かに臥神の言うとおり、グレンが、クベス王の後継者となるレイ王子と、預言によってグランダルに災いをもたらすとされる自分の二人を戦士として育てたのは、考えてみるとおかしなことであった。グレンがレイ王子を戦士として育てるのは理解できる。クベス王の後継者として、国を守る屈強の戦士が必要だからである。しかし、クベスが命を狙う自分を、グレンが戦士として育てれば、いずれ自分が母親のかたきであるクベスの命を狙うことになるであろうことは容易に想像がつくはずである。実際、リディアは、母親の敵を討つためと言って、グレンに武術を教えてくれと頼んだのである。しかし、グレンは、クベスの目をあざむいてまで、密かに自分を育ててくれたのである。それも、女戦士として。

 リディアは、今になって、その答えを知りたいと感じた。

 「分からぬのなら、教えてやろう」

 臥神は、さきほどの妖鴉ヨーアの脚に付けたふみを入れていた小さな入れ物を、懐の隠された衣嚢いのうの中にしまうと、寝台に腰をおろした。

 臥神が、リディアの背後に横たわる男に一瞬目を向けたようだったが、リディアは、そんなことよりも、臥神がこれから説明しようとしている理由についての方が気になった。

 「グレン=ドロスも、クベス王を殺害したいのだ」

 臥神のその言葉は、リディアを納得させるには十分ではなかった。

 リディアは、笑い声を上げた。

 「そんなことはあり得ぬ。グレンは、前国王のグレオンの時代から国に仕え、グランダル王国が滅亡しかけた際も国を命がけで救ったのだぞ。そして、その後、クベスが国王となり、飢えた国民を救うために周辺諸国を侵略し続けた際も、クベスのめいに従って、常に軍を指揮してきたのだ。それほど従順に国に仕えてきたグレンが、なぜクベス王の殺害などを考えるのだ」

 「グレンも、飢餓状態にある国民のことをうれえているのだ。これまでは、忠誠を誓った国王の命に背くことなく国に仕えてきたが、グレンは、飢えた国民を救うという名目で周辺諸国から食糧を奪い、王家の者や城の貴族たちだけが食糧を独占し、未だに多くの国民が食糧不足に苦しんでいる状況に疑問を感じるようになったのだ。なぜ、グレンに、そのような心境の変化が現れたのか分かるか?」

 臥神は、答えに困ったリディアを見つめていたが、彼女の返答を待たずに続けた。

 「それは、彼の妻の恵土ケイト=ドロスが原因なのだ」

 「恵土ケイトだと?私をグレンと一緒に育ててくれた彼女がどう関係しているというのだ?」

 リディアの心の中に、まさか自分の母親代わりとなってくれた恵土ケイトまでが、クベス王を殺害したい人間の一人なのだろうか、という疑念がわき起こった。

 「そなたは、恵土ケイト=ドロスが美土奴国出身であることは知っておろう。では、なぜ、グレンが、美土奴国出身の東洋人などを妻としてめとったのか分かるか?」

 リディアは、しばらく考え込んだ。

 「まさか、美土奴ミドーヌ国が仕組んだというのか」

 臥神は頷いた。

 「美土奴国は、恵土ケイトをグランダルに送り込んでグレンの妻にさせ、彼女を通じて、様々なことをグレンに吹き込んだのだ」

 「何の目的でそんなことをしたのだ?」

 「無論、クベス王を討つためだ」

 「グランダルの属国となりつつある美土奴国が、謀反むほんを起こそうというのか」

 「さよう。グランダルは、周辺諸国を侵略し続けたが、食糧不足を完全に解消することができなかったため、東洋の国の一つである隣国の美土奴国までをも侵略の対象としたのだ。そして、軍隊を持たない美土奴国は、簡単に占領下に置かれてしまうはずであったが、土を主食とする美土奴国には食糧がなかったため、グランダル軍はそこに駐留はしなかったのだ。その結果、美土奴国の媸糢奴シモーヌは、比較的自由に行動することが出来、クベス王を殺害する策略をめぐらせて実行したのだ」

 「媸糢奴だと!?媸糢奴がクベス王の殺害を計画しているというのか」

 「さよう。媸糢奴は、蠱業まじわざと呼ばれる妖術を使う、歴代最高峰の妖術師で、美土奴国では、尼意霧ニームを操ることの出来る唯一の妖術師だと言われている。その媸糢奴が、すべてを計画通りに進めているのだ」

 「尼意霧?それは何のことだ」

 「尼意霧とは、妖漿ヨウショウと呼ばれる、情報を記録できる水を媒介として伝播する情報のことである。クベスは、食糧のない美土奴国には全く魅力を感じなかったが、美土奴国の言葉に類似していると言われる古代のランドル語にも精通している媸糢奴を利用して、古代遺跡で発掘される石板の解読を行わせ、巨人族がのこしたとされる巨大な作物の種子や、軍事利用も可能と思われる古代の叡智を手に入れようと考えたのだが、媸糢奴もまた、その機会を利用してクベスに近づき、尼意霧を利用して意図的に拡散させた情報で人々の心をとらえて操ることで、クベスの殺害を狙っているのだ」

 「それで、媸糢奴がクベスに協力し、グランダルに災いをもたらすと預言された私の居場所を、私の母に吐かせるために、妖しい妖術で作った自白剤を飲ませようとしたのか…」

リディアは、これまで、なぜ美土奴国の妖術師が、グランダルのクベスに協力などするのか分からなかったが、これで納得できたように感じた。

 「だが、媸糢奴が、クベスに強要されて協力したのだとしても、まだ分からぬことがある。なぜ、媸糢奴は、クベスに近づくことに成功したにもかかわらず、クベスを殺害しないのだ?」

 「クベスは、用意周到な男で、身内や自分の世話役、そして自分を警護する者以外は、自分に近づくことさえ許さず、そして、めったなことでは城の外には出ないのだ。さらに、それらの者への監視役を秘密裏に二重、三重にも置き、彼らが自分の命を狙おうとしたりせぬように常に監視していると言われている。食事の際も、毒を盛られていないことを確認するために、必ず出された食事は、食事を運んだ者に先に食べさせるらしい。そのため、媸糢奴も簡単には手が出せなかったのだ」

 「クベスが用意周到な男だということは私も知っているが、媸糢奴が妖術師なのであれば、なぜ妖術を使って、クベスを殺さないのだ?呪術などを使えば、簡単にクベスを呪い殺せるではないか」

 「媸糢奴がクベスを簡単に殺害出来ないのは、妖術や呪術がまやかしに過ぎないからなのだ」

 「まやかしだと?」

 「さよう。妖術によって引き起こされていると思われている現象は、すべてからくりがあるのだ。そのようなまやかしの妖術や呪術などでは、クベスを殺害することなど出来ぬのだ」

臥神のその言葉を聞いて、リディアは、ランドルの森で体験した恐ろしい現象を、エドが科学的に説明し、魔物や妖術は迷信にすぎないと言っていたことを思い出した。

 「では、どうやって媸糢奴は、クベスを殺害しようとしているのだ?」

 「先程も言ったように、媸糢奴は、尼意霧ニームを利用したクベスの殺害計画を立てたのだ」

 「尼意霧とは、情報のことだと言っていたが、そんなもので、どうやってクベスを殺害できるというのだ?」

 リディアは、臥神の言葉に再び混乱し始めた。

 「まだ分からぬか?妖術師は、蟲や動物を操るだけでなく、人間までをも操るのだ。妖術師の操る尼意霧ニームは、妖術の一つとして恐れられることもあるが、実際は、尼意霧は妖術などではなく、意図的に人々の間に伝播させた情報なのだが、その情報によって人々の心に根拠のない不安や恐怖心を植え付けて、妖術師の意のままに人々を動かすのである」

臥神の説明は、まだリディアが理解するには十分ではなかった。

 「つまり、どういうことだ?」

 「つまり、グランダルの古代遺跡で発見された、預言の書かれた石板は、媸糢奴が密かに用意させたものだということだ」

 「石板を媸糢奴が用意させただと?」

 臥神は、まだリディアが理解できていない様子を見て、説明を続けた。

 「石板に書かれていた預言、つまり、刻印を持って生まれた二人の嬰児みどりごの一人が対立国を飲みこむであろうという預言は、実は媸糢奴がでっちあげたものなのだ」

 「何だと!?」

 リディアは、ようやく臥神の言っていることが分かり始めた。しかし、それにより、今度は媸糢奴の恐ろしさを改めて感じ始めた。

 「まさか、私が媸糢奴に操られているというのか?」

 「その通りだ。クベスが、預言に書かれている刻印を持って生まれた嬰児みどりごの一人であるそなたを殺害しようとしたこと、その嬰児を救おうと、母であるライーザが、そなたをグレン=ドロスに託した後に死んでしまったこと、そなたが、グレン=ドロスに戦士として育てられ、母親の敵討ちとして、クベスの暗殺を試みたこと、その暗殺に失敗はしたが、そなたがトラキア公国に逃げ延びて、トラキア軍を利用して再びクベスを殺害しようとしていること。それらすべてが、媸糢奴によって仕向けられたことなのだ」

 「まさか、そんなことが…」

 リディアは、臥神の言ったことを全く否定することが出来ず、自分が知らぬ間に、媸糢奴の謀略に従って動いていたことに恐怖感を覚えた。

 「よいか。そなたは、媸糢奴に操られる傀儡かいらいとなって、トラキア軍を率いてグランダルと戦い、クベスを倒す一役を担っているのだ」

 臥神の言ったことはすべてが恐ろしいものに思えたが、リディアには、それでもまだ、信じたくないという思いがあった。

 「媸糢奴が私を操って、トラキアのような小国の軍を率いてグランダルと戦わせようとしたところで、グランダルのような大国の圧倒的な軍事力に立ち向かえるわけがないではないか」

リディアは、臥神の言葉を否定するために、以前アレンに言われたことと同じことを、あえて主張した。

 「いくさに勝つ者というのは、知能でまさる者のことを言い、軍事力の差によって戦の勝敗が決まるのではないことは、そなたも知っておろう。さればこそ、そなたは、トラキア軍の指揮権を手に入れて、策略をもって、グランダル軍と戦おうとしていたのではないのか?」

 臥神の言葉は、子供とは思えない威厳に満ちたものだった。

 「私は、グランダル軍と戦おうなどとは、そもそも思ってなどいない。私は、ただ、グランダルが全軍を挙げてトラキアに攻め入ろうとしている間に手薄となる本国に、トラキアの小隊を率いて乗り込み、クベスを殺して、母のかたきを取ろうとしているだけなのだ。媸糢奴に操られて、グランダル軍と戦おうとしているわけでもない。そもそも、お前が媸糢奴の謀略を、今、こうして私に明かしてしまった以上、私が媸糢奴の思惑おもわく通りに動くはずはないではないか」

 「そこが尼意霧ニームの恐ろしさなのだ。尼意霧は、操られている本人がその事実を知ったとしても、なお操られていることに気づかせることはないのだ」

 「では、媸糢奴の謀略を知ってしまった私が、今後もその謀略通りに動くとでも言うのか?」

 「さよう。そなたは、生まれた時から媸糢奴の傀儡かいらいであり、媸糢奴のめぐらせたはかりごと完遂かんすいするまで傀儡かいらいを演じ続けるのだ」

 「何を馬鹿な!」

 リディアは、臥神の言ったことは信じられなかった。自分には自分の意思があり、自分の行動は自分が決めているという自信があったからである。

 「では、一つ良いことを教えてやろう。そなたの左腕にあるあざだが、それは痣などではない」

 「痣ではない?どういうことだ?」

 「それは、刺青しせいなのだ」

 「刺青だと!?」

 リディアは、再び臥神の言ったことに恐怖を感じ始めた。

 「そなたが生まれたときに、媸糢奴が密かに密使に命じて、赤子であったそなたの左腕に刺青を彫らせたのだ」

 リディアは、とっさに自分の左腕の痣を確認した。

 「これが刺青だというのか?何のためにそんなことをしたのだ?」

 「そなたも、もう分かっておろうが、無論、そなたを石板の預言に書かれていた刻印を持った嬰児みどりごの一人に仕立てるためだ」

 リディアは、唖然とした。まさか、そこまではかられていたとは思いもよらなかったからである。

 「では、ティナという女の子に、」そう言いかけて、リディアは補足を加えてから続けた。「ティナというのは、お前も闘技場の対戦場から遠目で見たと思うが、お前が操っていた黒い妖鴉ヨーアを指笛で呼び寄せた、美土奴国のかつての姫である美璃碧ミリアという人格が突然現れた女の子のことだが、そのティナの体にも、私のものと同じ形の痣があったのは、どういうことなのだ?まさか、本当は、その子が預言に書かれていた刻印を持った嬰児だというのか?」

 「先程も言ったが、その預言は、媸糢奴が作り上げた偽物に過ぎぬ」

 「では、ティナに痣があったのは、なぜなのだ?」

 「その子に痣があったのは、美土奴国で信じられている輪廻と関係がある。美土奴国では、人は死んでも、再びこの世に生を受けて戻ってくると考えられているが、美土奴の皇族の者が転生すると、転生者だということが分かる何らかの証拠を持って生まれてくるとも考えられているのだ」

 「しかし、ティナの体に、私のものと同じ形の痣があったのは、なぜなのだ?それが偶然だとはとても思えぬが」

 「同じ形だったというのは、そのように見えたというだけであろう。あの子の痣は、実は、すでに美土奴の僧侶たちによって、あの子がもっと幼かったときに確認済みなのだが、その形は、そのような形に見える程度のものでしかなかったはずだ」

 確かに、臥神の言う通りだった。今振り返って考えてみると、リディアが見たティナの痣は、鮮明ではなく、単に自分の痣と同じ形のように見える程度でしかなかった。リディアが単に、同じだと思い込んでしまっただけだったのである。

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