臥神の思惑
第29話 見えてきた筋書き
昨晩、ロイは、母親を失ったことで両親のいなくなってしまったティナを、アバトと一緒に学舎に連れ帰った。アバトの父親には事情を話し、アバトにはしばらくの間、ティナに寄り添っていてほしいと頼んで連れ帰ってきたのである。
ロイは、アバトとティナを学舎の自室の隣の部屋に寝かせていたが、翌朝、その隣室から、騒がしい声が聞こえてきた。
「大変だよ、ロイ。すぐに来てくれよ!」
ロイは、突然のアバトの叫び声に目を覚まし、寝台から飛び起きると、何事かと思いながら隣室に向かった。
「どうしたんだい、アバト。そんなに慌てて」
「大変だよ!ティナがいなくなっちまったんだよ」
アバトの声は、何かに怯えているかのように震えていた。
「ティナがいないだって?そこにいるじゃないか」
ティナは、アバトの目の前に立っていたが、部屋の中を不思議そうな目できょろきょろと見まわしていた。
「そうだけど、そうじゃないんだよ」
「何を言っているんだい、アバト。それじゃ、まったく分からないよ。とにかく落ち着いて話してみなさい」
ロイは、アバトの両肩に手を置いて、ひとまず深呼吸をさせた。
アバトは、ゆっくりと息を吸ってから吐き出すと、ティナをもう一度確認するように見ながら言った。
「だから、ティナがいないんだよ。そこにいるのはティナじゃないんだよ」
アバトは、自分でも何を言っているのか分からないかのように、混乱しているようだった。
すると、ティナが眠そうな目をこすりながら、アバトに話しかけてきた。
しかし、ティナの口から出た言葉は、ロイにもアバトにも理解できない言葉だった。
「ほら、おいらの言った通りだろ?朝起きたら、ティナが突然変なことを言い始めたんだよ。またいつものように、ティナが昔のことを思い出して、美土奴国の話でもしているんだろうと思ったんだけれど、今日はそうじゃないんだよ。ずっと、今のようにおかしな言葉を話しているんだよ。ティナが話している言葉は、もしかすると美土奴国の言葉なんじゃないかな」
「そうかもしれないな。とにかく、私にはティナが何を言っているのかは理解できないので、すぐにエドを呼んできてくれないかい?」
エドは、昨日、アマラ神殿には行かずに子供たちの世話で学舎に残ってそのまま学舎に泊まって別室で寝ていたので、ロイはエドを起こして助けを借りることにした。
「そうか、エドなら美土奴国の言葉が話せるから、もしティナが話している言葉が美土奴国の言葉だったら、何を言っているのか分かるよね」
アバトは、急いで部屋を出て、エドが寝ている部屋へと走って行った。
ロイは、とにかく、ゆっくりとした口調でティナに話しかけてみたが、ティナは理解出来ないようだったので、身振り手振りを交えて意志の疎通を図ってみることにした。しかし、ティナは、ロイがなぜそんなことをするのか理解できず、当惑しているようだった。
もしかすると、お腹がすいているのかもしれないと思い、
ロイが、どうしたものかと思案していると、ティナは、廊下に飾ってあった泥宝に興味を示し、懐かしいものを見るような目でそれを見つめ、手で撫でまわし始めた。
「ティナがどうしたんだい?」
エドがアバトと一緒にやってくると、ロイは、泥宝を見つめながら何かを呟いたティナを見ながら言った。
「今のティナの声が聞こえたかい?ティナが、我々の理解できない言葉をしゃべっているんだよ」
「ああ、聞こえたけど、またティナが生まれる前のことを思い出して、美土奴国の何かの名前を言ったんじゃないのかい?」
エドは、
「今日は様子が違うんだよ。おいらが話しかけたって、ティナはおいらの言うことが理解できないみたいなんだ」
「どれどれ」
エドは、寝ているところを突然起こされたため、面倒くさそうにティナに話しかけた。
しかし、ティナは、ロイのときと同じように、エドの言ったことが理解出来ず、ロイやアバトには理解できない言葉でエドに向かって何かを言った。
「ティナが今話した言葉は美土奴国の言葉なのかい?」
ロイが不思議そうに尋ねた。
「ああ…」
エドも、ティナの話した言葉を聞いて驚いた様子だった。
「なあ、ティナは何て言ったんだよ!」
アバトは、エドが一瞬言葉を失って、茫然としている様子に
「ティナは、今、美土奴国の言葉で、『そなたは誰だ?』って言ったんだよ」
「本当かい?」
ロイとアバトは驚いた。
エドが、試しに美土奴国の言葉で自分が誰なのかを伝えると、ティナは、ようやく話の通じる者に出会えたのを喜ぶかのように、エドに何かを話し始めた。
エドは、しばらくティナと会話をした後、会話の内容を通訳して伝えた。
「ティナは、今こう言ったんだよ。『エド?あなたはエドという者なのですか?お名前や顔立ちからすると、美土奴国の者ではありませんね。ここは、どこなのですか?朝、目が覚めると、自分が見たこともない知らない部屋で寝ているのに気が付いたのですが、私は一体ここで何をしているのですか?』ってね」
「それで、何て答えたんだい?」
「『ここは、トラキア公国のサパタという町にある学舎の一室です』と答えて、『あなたは、誰なのですか?』と聞いたところ、『私は、美土奴国の
「美璃碧だって?美土奴国の
ロイは、状況がまだよく理解できず、信じられないという顔で尋ねた。
「ああ。先日、放念という僧侶が、美璃碧姫の転生者を探しているって言っていただろ?あの美璃碧姫のことだよ。ティナが今話した話し方も、どこか気品のある上流階級の人の話し方のように感じたよ」
「まさか、そんなことが…。エドは、信じるのかい?」
「いや、私もそんなことはとても信じられないが、実際、目の前のティナが、自分は美璃碧だと言ったんだよ」
「でも、それは以前もティナが言っていたことだろ?」
「確かにそうだが、以前ティナが、自分が美璃碧姫だったって言ったときは、トラキアの言葉で話していただろ?でも、今は、美土奴国の言葉で話したんだよ」
「なぜティナが突然、美土奴国の言葉を話し始めたんだい?」
「それは私にも分からない」
「じゃあ、ティナはどこへ行っちまったんだい?目の前にいるのは、どう見てもティナじゃないか」
アバトも、状況が
そこで、エドは、ティナに再び美土奴国の言葉で尋ねてみた。
アバトは、ティナが答えるのを待ってから、ティナが何と答えたのかをエドに尋ねた。
「ティナなどという名前の人物は知らないってさ」
「そんな…」
アバトは、幼い頃からずっと一緒に暮らしてきた妹のような
ロイも、ティナに何が起こったのか全く理解できずに当惑し、エドに救いを求めた。
「ティナが美璃碧姫の転生者だなどとは、とても信じられないのだが、この状況を、科学的な見地から説明できないのかい?もしそれができれば、ティナの心をティナの体に呼び戻すことが出来るかもしれないだろう?」
「そうだな…」
エドは、腕を組んで考え始めた。
「まず、美璃碧姫がティナに転生したなどという輪廻という現象については、生物学的にはあり得ない。そこで、それ以外の方法で説明するとなると、もしかしたら、ムーロン博士から聞いたことのあるアレンの話で説明できるかもしれないな」
「アレンの話?それはどういう話だい?」
エドは、ムーロン博士から聞いたことを思い出しながら、説明を始めた。
「ティナが、美土奴国の話をしたり、自分が昔、
「だとしても、ティナが突然、美土奴国の言葉を話し始めたのは、どういうことなんだい?今言った仮説では、知るはずのない言葉を話し始めたことについては、説明できないだろう」
「そうだな。そこが問題だな…」
エドは、頭を抱え込んでしまった。
すると、ティナの体に現れた美璃碧の人格が再びエドに話しかけた。
エドは、美璃碧と美土奴国の言葉で会話を行い、それをトラキアの言葉に通訳した。
「私は、美土奴国に帰りたいのですが、どうやって帰国したらよいのか教えて頂けませんか」
「そうですね、ここから美土奴国へは、子供の足ではとても行くことは出来ませんので、馬車を用意する必要がありますね」
「子供ですって?私は、もう立派な大人です。
「ですが、今のご自身のお体をご覧になってください」
美璃碧は、エドがなぜそのようなことを言うのか分からずに、不思議そうに自分の体に目を向けると、一瞬言葉を失って立ち尽くした。そして、再び確認するかのように自分の体を見廻した。
「どういうことなのですか、これは!?」
美璃碧は、自分の体の小ささに驚いて、部屋の中を何かを探すように見廻した。
「鏡はないのですか?」
「鏡ですか?そんな高価なものは、ここにはありませんよ」
美璃碧は、仕方なく、自分の腕や脚、顔などを手で触りながら確認し、特に顔をゆっくりと念入りに触って確認すると、ようやく、自分が美璃碧の体ではないことを認識し、驚きのあまりに気絶して倒れ込んでしまった。
まさか気絶してしまうとは思っていなかったエドは驚いたが、美璃碧が床に頭を打たないように慌てて抱き抱え、とにかく彼女を寝台へと運ぶことにした。
「ティナは、どうしちまったんだい?また元のティナに戻れるのかい?」
アバトが、心配そうに尋ねた。
「今は何も分からないな…」
エドは、リディアという娘が突如、生物研究所にやって来た日から、これまでの平凡な研究生活とは異なる様々な出来事が次々に起こり、一体何が起こっているのだろうと頭を悩ませていた。霞寂が言ったように、本当に、エドやロイを含めた周辺の人々が、臥神という人物の計画の中で、与えられた役割を演じるように
「ともかく、今はそのまま寝かせておいて、しばらくは様子を見るしかないな」
ロイは、不安そうなアバトの肩を叩きながら、
「こんな時に勉強なんて出来やしないよ」
その言葉は、アバトがいつものように勉強を嫌がって言っているものではなく、
アバトは、ロイやエドと同様に、何が起こっているのか分からずに当惑しているようだったが、学舎に他の子供たちがやってくると、ロイに幼い子供たちの面倒を見るように言われて、渋々自分よりも年下の子供たちを学習室へと連れて行った。
「ところで、ロイ」戻ってきたエドが、何かを考えながら言った。「昨日、
ロイは、昨日のアマラ神殿で起きたことや、臥神が
エドも当然のように、まさか、と驚いたが、これまでに様々なことが身の回りで起きていることを考えると、それもあり得ることなのかもしれないなと思った。
「そうか。これでようやく、それぞれの点が線で結ばれたような気がするよ」
エドは、ロイの話を聞いて、何かに得心したようだった。
「どういうことだい?」
「臥神こと
「それは、どういうことだい?」
「つまりだ。
ロイは、エドの説明を聞いて驚いた。まさにエドの言った通りだと思えたからである。
「だとすると、リディアも同じように、美土奴国と
ロイも、エドのように推考して、自分の考えを話し始めた。
「放念という僧侶が、リディアに、臥神が会いたがっていると言っていただろ?トラキア公家の紋章の形をした痣を持ったリディアが、石板に預言された刻印を持った
「そうかもしれない。昨日の霞寂の話では、妖術師は、蟲や動物だけでなく、人間までも己の意のままに操ることが出来るそうなのだが、そのことを考えると、これまでに起きたすべての出来事が、美土奴国の描いた筋書き通りに起きているのかもしれないな」
エドとロイは、美土奴国という東洋の小国の恐ろしさを改めて感じ始めていた。
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