第28話 リディアとロイの帰還

 臥神と霞寂がトラキア軍の陣地を去ってから間もなく、リディアが、重そうな足取りでゆっくりと馬を歩かせながら、一人で戻ってきた。

 「お姉ちゃんだ!」

 アバトが、リディアに駆け寄ると、リディアの表情は暗かった。

 「お姉ちゃん、ノーラはどうしたの?一緒じゃないの?」

 アバトが不思議そうに尋ねたが、リディアは何も答えなかった。

 入り口を警備していた兵士が、リディアを迎え入れると、アバトは、顔を膝にうずめたままうずくまっているティナを立たせて、リディアについて行った。

 ティナは、リディアが一人で戻ったことの意味を理解したようで、アバトにしがみついて、顔を落として黙ったまま、とぼとぼと歩いていった。


 その頃、アマラ神殿から何とか脱出したクロードは、ロイを馬に乗せたまま、トラキア軍の陣地に向かって馬を走らせていた。

 ロイは、矢を抜き取った後の左腕の出血がひどくなり、やむなく、手綱をクロードに預けたのだった。それは、クロードの言った『神殿内にいた農民たちは、もはや助かりません。神殿から避難できた人々は、トラキア軍の兵士たちが安全な場所に誘導するので、彼らに任せて、左腕の傷の治療に向かいましょう』という提言を、ロイが受け入れたからであった。

 あれだけの大規模な神殿の崩壊の後で、内部にいた人間は、助かりはしないだろうとロイも考えたのである。仮に命を落とさずに内部に閉じ込められていたとしても、ロイ一人が残ったところで、どうすることも出来ないのである。巨人族の建造した神殿の崩壊後の瓦礫の一つ一つが巨大すぎて、人間には動かすことも出来ないため、農民たちを見殺しにはしたくはなかったが、苦渋の選択をするしかないと、ロイは自分を説得するように、心の中で呟いた。

 ロイは、時々振り返って、崩壊したアマラ神殿を見つめながら、リディアはノーラを救出して無事に神殿から脱出できただろうかと考えていた。


 ロイたちが、トラキア軍の陣地に戻ると、リディアがゴルドバ将軍と天幕の中で話をしているのが見えた。リディアは、やはり無事に脱出していたのである。彼女がグレン=ドロスに育てられた屈強の戦士だというのは、本当だったのかもしれない、とロイは思った。

 「おお、ロイではないか。無事であったか」

 ゴルドバ将軍は、歓喜の声を上げてロイを迎え入れた。

 「将軍閣下、師団長殿は、怪我をされておいでです。至急、怪我の治療を」

 クロードは、ゴルドバ将軍に、急いで軍医に手当をしてもらうように進言した。

 「師団長殿だと?もしや、お主は元近衛兵なのか?」

 「はい。かつて、ロイ師団長の下で、今は亡きライーザ公妃の護衛の任務についておりました」

 クロードは、昔の自分が近衛師団の一員だったことを誇りに思いながら答えた。

 「おお、そうであったか」

 ゴルドバ将軍は、クロードが元上官を救出したことを褒めたたえ、すぐに衛生兵を呼んだ。

 駆けつけた衛生兵の一人が、ロイを座らせて、すぐに簡単な応急処置を施して傷口を止血し、軍医のところに連れて行こうとすると、ロイは少し待ってくれと衛生兵に伝え、リディアに気になっていたことを尋ねた。

 「ノーラは無事ですか?」

 リディアは、何も答えなかった。ロイとは目を合わさずに、黙ったまま下を向いていた。

 「残念だが、ノーラというその女性を見つけることは出来たものの、あの神殿の崩壊の中から救出することは出来なかったそうだ」

 ゴルドバ将軍が代わりに答えると、ロイは肩を落として落胆した。

 あれだけの崩壊が起こったのである。無理もないと、ロイは思った。

 「ティナは?ティナはどうしているのですか?」

 急にティナのことを思い出し、ロイは不安になって尋ねた。

 「一人で泣き崩れておる」

 ゴルドバ将軍が、哀れむように答えた。

 「どこにいるのですか?」

 ゴルドバ将軍は、天幕の外の脇でうずくまっているティナの方に視線を向けた。

 ティナのそばには、寄り添うようにアバトが座っていた。

 「今はそっとしておいたほうがよかろう」

 「そうですね…。肉親の死というのは、私が戦場で部下を失ったときの悲しみとは比べものにならないでしょうし、まして、あんなに幼い子供が母親を失ってしまったのですから…」

 アバトにしばらくティナを任せて、そっとしておこうと思ったロイだったが、ロイに気付いたアバトは、ティナの肩に手をそっと置いて、ロイが戻ったことを小声で伝えると、ティナをその場に残して、ロイのところにやってきた。

 「戻ったんだね、ロイ。心配したよ。あんなに大きな神殿が、一気に崩れ落ちたもんだから、もしかしたら、もう駄目なんじゃないかと思ったよ」

 「ああ。私も危うく神殿内で命を落とすところだったが、かつての私の部下が命を救ってくれたんだよ」

 「その腕はどうしたの?怪我をしているの?」

 アバトは、ロイの腕に巻かれた止血帯が血に染まっているのを見て、震えるような声で尋ねた。

 「ああ。だけど、心配いらないよ。大した傷ではないから」

 ロイは、アバトを安心させるように優しい口調で言った。

 「ところで、将軍、臥神という人物が、アマラ神殿へのグランダル軍の侵攻を食い止めるために、神殿に向かったと、霞寂殿から聞いたのですが」

 ロイは、思い出したように、ゴルドバ将軍に尋ねた。

 「ああ。臥神殿は、すでにここに来られたのだが、先程、霞寂殿の馬車で帰ってしまわれた」

 「ここに来られたのですか?」

 「そうだよ!おいらびっくりしちまったよ!」

 アバトが突然大きな声を上げた。

 「ティアンだよ!臥神という男は、ティアンだったんだよ!」

 「ティアン?あの劉天リュウ・ティアンのことかい?」

 「ああ、そうだよ。あのティアンが、アマラ神殿を壊しちまったんだよ!」

 ロイは、アバトが何を言っているのかよく分からなかったが、ゴルドバ将軍が、何があったのかをロイに説明した。

 「そうでしたか。まさか、私の教え子のティアンがそれほどまでに凄い人物だったなんて、思いもよりませんでした」

 「臥神というのはあざなだそうだが、劉天リュウ・ティアンというのは実名なのか?」

 「分かりません。もしかすると、偽名なのかもしれません。私は、彼がどこの国から来たのか、どこに住んでいるのかなど、彼のことについては、ほとんど何も知りませんでしたが、彼が様々なものを発明してお金を稼ぎ、自立していったのを見て、喜んでいたのです。他の子供たちも、彼のように自発的に学び、成功してほしいと願っていました。しかし、彼が私の学舎から入館許可証を借りて、トラキアの公立図書館に通い詰めていたのは、今考えると、トラキアの考古学者たちによる古代遺跡の調査や研究をまとめた報告書に目を通すためだったのかもしれませんね」

 「それだけではないようだ。彼は、トラキアの軍事記録にも密かに目を通していたと、噂だが聞いたことがある」

 ゴルドバ将軍が付け加えるように言った。

 「彼は一体何を企んでいるのでしょうか」

 「分からぬ。だが、わしは、臥神殿無くしては、トラキアをグランダル軍から救うことは出来ないと確信したのだ。それで、わしは、臥神殿を試すことにしたのだ」

 「どういうことですか?」

 ゴルドバ将軍が、再びロイに説明をすると、ロイとゴルドバ将軍の会話をそばで黙って聞いていたリディアが口を開いた。

 「もう行かねばならぬ」

 リディアは、天幕の外に出ると、うずくまって泣いているティナに目を向け、心の中でティナに詫びるかのように、しばらくティナを見つめていた。

 「明日は、闘技試合の初日ですが、まだ出場されるおつもりですか?」

 ロイは、思い出したようにリディアに尋ねた。

 「ああ。試合に勝って、トラキア軍の指揮権を手に入れるつもりだ」

 「闘技試合では、使用できる武器はすべて木製で、相手の命を故意に奪ってはならない決まりになっていますが、くれぐれも気を付けてください。初日の対戦相手は、軍曹のグスタルと、少将のアシュベルです。二人とも、とても手強てごわい相手です。下手へたをすれば、命を落とすことにもなりかねませんので」

 「心配は無用だ。勝つ自信がなければ、闘技試合に出場などはせぬ」

 リディアは、揺らがぬ自信に満ちているようだった。

 「ですが、この闘技試合は、あなたとグスタルが一番不利なのです。アシュベルは二回、ゴルドバ将軍は一回の試合なのに対して、あなたとグスタルは三回の試合を勝ち進まなければ優勝できない仕組みになっています。しかも、対戦相手が試合の続行が不可能と判断されるまで、あるいは、棄権するまで戦わなければならないので、最も体力が要求される不利な条件の下で優勝を目指さなければならないのです。仮に初日に順調に勝ち進んだとしても、翌日は、ゴルドバ将軍との決勝戦になります。三人もの強者つわものと、二日間対戦しなければならないのですから、どうぞお気をつけください」

 「おお、そうであったな。順調に勝ち進めば、最後はわしと対戦することになるのであったな。御手柔らかに頼みますぞ」

 ゴルドバ将軍が笑いながら言ったが、リディアは表情一つ変えずに、なんの反応も示さなかった。

 「あの子のことは頼んだぞ」

 リディアは、ロイに一言そう言い残して、自分の馬に乗って走り去っていった。

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