命の糧

第18話 ティナの生活

 日が暮れ始め、山肌が赤く染まり始めると、霧が山の斜面を登り始めた。海から運ばれてくる湿った空気が、山の斜面を上昇するにつれて冷やされて霧となるのである。

 この霧が、高地にあるサパタの町の重要な水の供給源となっている。霧が運んでくる水分は、草木が根を下ろした山の土壌にたくわえられ、やがて川となり、サパタの田畑にも運ばれるのである。その貴重な水の供給源である霧は、サパタの町だけでなく、トラキアにとっては、とても大事なものではあったが、山道の視界を遮るやっかいなものでもあった。

 ロイは、ティナの不思議な話に惹きこまれて、時が経つのを忘れていた。辺りを見渡すと、すでに霧が学舎の近くまで登ってきていた。霧が深くなると、山に慣れた子供たちでさえ道に迷うことがあるため、ロイは、アバトにティナを起こして急いで家に帰るように言った。

 そして、放念やリディアにも、霧が深くなる前に帰宅したほうがよいことを伝え、見送りが必要かどうかを尋ねた。

 「わしなら大丈夫じゃ。美土奴国の森の霧に比べれば、このくらいは大したことはない。むしろ、わしら僧侶は、目で見るものをあまり当てにはせぬのじゃよ。目で得たものは、時として人を惑わす。わしらは、普段、目で見ずに心でものを見るのじゃよ。されば、視界の悪い山道を下ることなど、造作も無いことじゃ」

 放念は、腰を起こして、肩からずり落ちかけている袈裟を直すと、向きを変えて山道を下り始めた。

 「明日、霞寂カジャクよこすので、忘れずに居てくだされよ」

 放念は、そう言い残して行ってしまった。

 ロイは、放念の姿が霧で見えなくなるまで見つめた後、リディアに視線を移した。

 「霧の晴れた場所までお見送りしましょうか?」

 「いや、私も見送りは無用だ」

 リディアは、一言そう言うと、自分の馬の方に向かって歩いていった。

すると、体をゆだねたまま寝てしまっているティナを支えながら、アバトがリディアの方に向かって叫んだ。

 「お姉ちゃん、待ってよ。お姉ちゃんは、トラキア公家こうけの人間なんだろ?なら、トラキア城への一本道が見えるところまで、一緒に行ってやるよ」

 アバトは、ティナを起こそうと、ティナの体を揺り動かしたが、ティナは全く起きる様子はなかった。

 「起こしたらかわいそうだよ。そのまま寝かせておいてあげな」

 リディアは振り向いて、馬の手綱を引いてアバトのところまで歩いて戻って来た。

 「悪いが、やっぱり、あんたに道案内してもらうことにしたよ」

 リディアは、アバトを先に馬のくらに乗せてから、ティナをかかえ上げて、アバトにしっかりと抱きかかえるように指示した。そして、自分はその鞍の後ろにまたがり、馬を歩かせ始めた。

 「その子を落とさないように、しっかりと抱いていなよ」

 リディアは、ティナが馬から落ちないように、片手でティナを押さえながら、馬をゆっくりと歩かせた。

 「明日、またお見えになりますか?」

 ロイが、リディアを見送りながら尋ねた。

 「ああ、明朝またここに来る」

 リディアは、振り向かずにそう言うと、霧の中に消えていった。

 「エドは、どうする?」

 ロイは、エドに向き直って尋ねた。

 「そうだな。私も研究所に戻るとするよ」

 「エドも明日またここに来るかい?」

 「ああ、明日の朝、来るとするよ。霞寂カジャクという老人が臥神ガシン先生と呼ぶ人物に、私も会ってみたいしな」

 エドも、臥神という人物には興味があるようだった。

 ロイは、ゴルドバ将軍が軍師に迎えたいというほどの天下の奇才と称される臥神という人物が、どういう人物なのだろうかと考えながら、エドの姿が見えなくなるまで見送ると、学舎に戻っていった。


 リディアは、アバトと眠ったままのティナを残して一人で帰るのは忍びないと思い、アバトにティナの家まで案内してもらうことにして、アバトの案内に従って馬の歩を進めていた。

 霧が徐々に深くなるにつれて視界が悪くなり、アバトが何を目印にして道案内をしているのか分からなかったが、アバトは毎日行き来している道であれば、目をつむっていても分かるとでも言わんばかりに、正確にティナの家までリディアを案内してくれた。

 ティナの家に着くと、リディアは、ティナの体をやさしく揺すって起こしてから、二人をゆっくりと馬から下ろした。

 「ここは、どこ?」

 ティナが、寝ぼけまなこをこすりながら、アバトの顔を見て言った。

 「ティナのうちだよ」

 アバトは、山の冷たい空気に身震いし始めたティナにそっと寄り添いながら答えた。

 「おうちに帰ってきたの?」

 ティナは、霧の中から自分の家を探すように辺りを見廻した。

 家の戸口に目をやると、ティナの母親が、心配そうな顔をして立っていた。

 彼女は、苦しそうに咳込みながらも、そこでずっとティナの帰りを待っていたようだったが、ティナを見つけると、目に涙を浮かべた。

 「ティナ!心配したよ」

 彼女は、ティナのところにすぐにでも駆け寄って抱きしめたいほど心配していた様子だったが、体調が悪く、戸口でよろめきながら、ティナが自分のところに走ってくるのを待って、ティナを抱きしめた。

 「ティナ、こんなに霧深くなる時間まで帰ってこないなんてこと今までになかったから、心配したよ。何かあったのかい?」

 アバトは、ティナの母親のところへ駆け寄り、彼女が倒れないように支えながら、ティナの代わりに答えた。

 「おばちゃん、ごめんよ。今日は色々なことがあったので、遅くなっちまったんだ」

 「何があったんだい?」

 ティナの母親は、冷たくなったティナの体をさすりながら尋ねた。

 「とうとう、グランダルの飢えた兵士がサパタの町にも現れるようになっちまったんだよ。おいらもティナも、棚田でグランダルの兵士に襲われたんだけど、あのお姉ちゃんが助けてくれたんだ」

 アバトは、ティナの母親にリディアを紹介しようとしたが、まだ名前を知らなかったので、振り向いてリディアに名前を問いかけるかのような視線を送った。

 「お姉ちゃんの名前は…ええと…」

 「リディアだ」

 リディアが短く一言答えた。

 「そう、そう、ロイが、ゴルドバ将軍に、トラキア公家の第二公女のリディア様だって紹介していたよ」

アバトは、自分には会うことすら許されないような公家の偉い人を連れてきたことを自慢するかのように言った。

 「この人は、ティナの母親のノーラ」

 リディアがティナの母親に目を向けると、ノーラは、ゆっくりと頭を下げた。

 「このたびは、娘のティナを救ってくださったそうで、ありがとうございました。私どものような貧しい農民には、何もお礼など出来ませんが、ちょうど夕餉ゆうげの支度をして娘を待っていたところでしたので、もしよろしければ、ご一緒にいかがですか?お口に合うかどうかは分かりませんが、冷えた体が温まりますよ」

 ノーラは、出来る限り丁寧な口調で感謝の気持ちを述べた。

 「おいらも、一緒にいいかい?」

 「もちろんだよ。アバトもティナを無事に連れて帰ってきてくれて、ありがとうね」

 ノーラは、優しい声でアバトにも礼を述べた。

 「今日は、何を作ったんだい?」

 家の中から食欲をそそるような夕餉ゆうげの匂いが漂ってきたので、もうお腹がすいて待ちきれないかのように、アバトはノーラに尋ねた。

 ノーラは、まだあどけないアバトの顔を見て笑みを浮かべた。

 「芋を煮込んだスープだよ」

 「やっぱり、またいつものスープか…」

 アバトは残念そうに肩を落とした。

 「ごめんよ。それくらいしかなくて。でも、今日はアバトがティナを助けてくれたそうだから、特別に魚の干物も出してあげるよ」

 「何の魚だい?」

 「アバトの好きなボアだよ」

 「私のもあるの?」

 ティナが母親の顔を見上げながら尋ねた。

 「もちろんだよ」

 ノーラがティナの頭を優しくなでながら答えると、アバトがリディアに視線を移した。

 「お姉ちゃん、早く来なよ。今日はボアだって」

 アバトは、リディアに家に入るように手招いたが、リディアはそこに立ったまま、辺りを見渡して迷っているようだった。

 「こんなに霧深くなっちまったら、知らない山道を一人で帰るのは無理だよ。腹ごしらえをしたら、おいらが送ってあげるから、一緒に食べていきなよ」

 アバトは、リディアのところに駆け寄って、彼女の腕を引っ張った。

 「お姉ちゃん、今日はご馳走よ。一緒に食べていって」

 ティナも、リディアのところに走り寄り、アバトと一緒に彼女の腕を引っ張って、家の戸口まで連れていった。

 「さあ、どうぞお入りください」

 ノーラは、リディアを家の中に招き入れると、よろめきながらもかまどまで歩いていき、木製のうつわにスープを盛り始めた。

 「狭いところですが、お好きなところにおかけください」

 ノーラがそう言うと、アバトは、テーブルから椅子を引いてリディアを座らせた。

 ティナも、リディアの隣に座った。

 リディアは、家の中を興味深そうに見廻した。

 四隅の柱に、古びた木の板を貼り合せて、壁や屋根としただけの簡素な小屋だった。かまども、いくつかの石を積み上げただけの粗雑な作りで、石の上に一本の木の棒を渡し、そこに鍋を掛けて、スープを煮込んでいた。

 ノーラが三つの器にスープを盛ると、アバトがスープを受け取り、テーブルに運んだ。

 「いつも、この家で食事をするのは、ティナと私の二人だけなのですが、アバトも時々一緒に食べたりすることがあるので、食器は三つしか用意していないのですよ。私は後で食べますから、どうぞ温かいうちに召し上がってください」

 ノーラは、リディアに申し訳なさそうに言った。

 「じゃあ、おいらは先に頂くね」

 アバトは、席につくと、遠慮なくスープの中の芋を木のさじですくって食べ始めた。

 「ああ、いつもと同じスープだけど、今日みたいに肌寒い夜は、温かい食べ物がなによりだね」

 アバトが芋を頬張りながら満足そうに言った。

 「ティナもお姉ちゃんも、早く食べなよ。体が温まるよ」

 アバトは、ティナとリディアに匙を手渡して、早く食べるように促した。

 ティナも、アバトと同じように喜んで食べ始めた。

 「ボアは、今から焼くので、少しお待ちくださいね」

 ノーラがボアの干物を焼き始めると、煙が立ち込め、家の中に充満し始めた。

 アバトは、目にしみる煙を追いやろうと、左手で必死にあおぎながら、右手の匙でスープを飲み続けた。

 「ボアは、すごくおいしい魚なんだけど、これが困るんだよね。焼くと、家じゅうが煙だらけになっちまうんだ」

 手で扇いでも煙が逃げず、ティナが煙たそうに目をこすり始めたので、アバトは、家の戸口に走っていき、急いで戸を少し開けて煙を外に逃がした。

 すると、ノーラが激しく咳込みながら、よろよろと戸口まで歩いていった。

 「ごめんよ、アバト。おばさん、咳がひどくなっちまったから、ボアはアバトが焼いてくれるかい?」

 ノーラは、苦しそうに腰をかがめ、外の空気を必死で吸おうとした。

 アバトは、咳込んで苦しそうにしているノーラの背中を、慌ててさすり始めた。

 「おばちゃん、ごめんよ。そうだったね。やっぱり煙が立ち込めるボアなんて焼いてもらうべきじゃなかったよね」

 「お母さん、大丈夫?」

 ティナも心配して駆け寄った。

 「大丈夫だよ。ちょっと煙を吸っちまっただけさ」

 ノーラは、ティナの手を握り締めると、ティナに心配かけないように立ち上がり、家の中によろよろと戻ってきた。

 「少し休めばよくなるよ」

 ノーラは、わらを敷き詰めただけの粗末な寝床に横になった。

 アバトは、ボアを焼く火に急いで灰を掛けて消し、ノーラのところへ行った。

 「ごめんよ、おばちゃん。今日はやっぱりボアはやめとくよ」

 「すまないね。おばさんは少し休ませてもらうけど、スープはちゃんと食べていっておくれよ」

 ノーラはアバトに謝りながら、足元のぼろぼろになった毛布を肩のところまで引き寄せると、寝返りを打ってリディアの方に視線を移した。

 「私がこんな体で、おもてなしも出来ずに申し訳ありません。明日は朝からアマラ神殿に行かなければなりませんので、早めに横にならせて頂きますが、お時間の許す限り、ごゆっくりなさっていってください」

 ノーラは非礼を詫びると、いつものように、黙って毛布にくるまって寝てしまった。

 「あんたの母親は、どうしたんだい?病気なのかい?」

 リディアがノーラに聞こえない程の小さな声で尋ねると、ティナが頷いた。

 「もしや、デスペリアかい?」

 「いや、違うよ。なぜかは分からないけど、おいらたちの町では、デスペリアになった人は一人もいないんだ」

 ノーラを気遣い、アバトも声を抑えて答えると、ティナが悲しそうな声で言った。

 「働きすぎて、疲れて病気になっちゃたんだって」

 「おいらの父ちゃんの話では、ノーラは栄養のあるものを食べないといけないんだって。だけど、畑で作った作物は、ほとんど地主に持っていかれちまう。ノーラは病気になってから、あまり働けなくなっちまったので、おいらの父ちゃんが時々食べ物を分けてあげているんだけど、おいらたち貧しい農民が食べられるものといえば、芋を少しだけ煮たスープや、拾い集めた落穂から取った小麦で作ったパン、それから、小川で捕った魚くらいなんだ。魚だって、いつ食べられるか分からないから、干物ひもの燻製くんせい、塩漬けなどにして保存食にしておいて、本当に食べるものがなくて困ったときくらいにしか食べないんだよ。だから、ノーラの病気はなかなか治らないんだ」

 アバトは、父親から聞いたことを、リディアにそのまま話した。

 「明日、神殿に行くと言っていたが、あんな体でも行かなければならない何か重要なことでもあるのかい?」

 「明日は、トラキアが建国された日なんだ。実際の建国記念日とは違う日だけど、神話の中では、その日に、農業の神様のトラーク神が、他の神様と一緒にトラキアを建国したとされていて、その神様をおまつりする感謝祭の日なんだよ。空中都市と言われるような山岳地帯のトラキアでも、たくさん作物が作れるのは、トラーク神のおかげなんだって。それで、ノーラのような信心深い農民たちは、毎年アマラ神殿を訪れて、トラーク神にお供えをして感謝の祈りを捧げるんだ。でも、トラーク神は巨人族と同じくらい大きいから、お供えも沢山必要なんだ。だから、明日は、サパタの町長が荷馬車を出してくれて、それで農民たちが去年収穫した作物をアマラ神殿まで運ぶんだ。ノーラはあんな体だから、町長が荷馬車でアマラ神殿に連れて行ってくれるそうだよ」

 「去年収穫した作物を供物くもつにしてしまうのかい?あんたたちは、ろくに食べるものもない毎日を過ごしているんだろ?せっかく作った作物のほとんどは地主に持っていかれてしまうというのに、残ったわずかな作物から、さらに供物として、居もしない神なんかにやっちまうのかい?」

 「おいらも最初はそう思ったさ。どうせ食べもしない神様なんかに、せっかく汗水たらして作った作物をあげちまうなんて、もったいないとね。でも、ノーラの話じゃ、昔、食べる物に困って、トラーク神へのお供えをやめたことがあったらしいんだけど、その年はなぜか海から山にのぼってくる霧が発生しなくなり、旱魃かんばつに苦しめられたそうなんだ。それで作物は実らず、さらに食べる物に困るようになってしまったので、それ以来、ノーラは、毎年必ずアマラ神殿を訪れて、トラーク神に感謝の祈りを捧げるようになったんだ」

 アバトは、匙を使わずに、器を直接口まで持っていき、残りのスープを飲み干した。

 「こんなものでも、おいらたちが何とか食べていけるのは、トラーク神のおかげなんだって」

 アバトは器を置くと、ティナを見ながら言った。

 「ほら、ティナ。そんなにのんびり食べていると、スープが冷めちまうぞ」

 「分かっているわ。でも、私はアバトみたいに食いしん坊じゃないから、ゆっくりと味わって食べているのよ」

 「こんなものが味わって食べるものかい?」

 アバトは、冗談気に言い返すと、そっと後ろを振り返って、ノーラに聞こえていないかを確かめた。

 「あんたたちは毎日こういう食事をしているのかい?」

 「ああ。この町の農民はみんな同じようなものを食べているよ。おいらのうちは父ちゃんがいるから、魚も三日に一度くらいは食べられるけどね。でも、ちょっとしかないから、おいら、すぐに腹がへっちまうんだよね」

 リディアは、アバトがリディアのスープに目を向けていることに気が付いた。そして、隣でティナが満足気にスープを飲んでいるのを見ると、おもむろに席を立った。

 「どうしたんだい?帰るのかい?」

 「ああ。そのスープは二人で飲みな」

 リディアは、きしむ音を立てないように家の扉を静かに開けて外へ出ていき、馬にまたがって歩を進めた。

 アバトも追いかけるように急いで外へ出ると、ノーラの眠りを妨げないように気を付けて、声を抑えながら言った。

 「こんな霧だから、気を付けて帰ってくれよ。その道をまっすぐ行けば、おいらたちが出会った棚田に着く。そこで道が二手ふたてに分かれるから、左の道をまっすぐに行けば、トラキア城のある町に出られるよ」

 アバトは、リディアの姿が霧の中に消えて見えなくなるまで見送ると、再び家の中に戻り、リディアのスープをティナと分け、それを飲み干してから、ティナに別れを告げて帰途についた。

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