生物研究所

第13話 不思議な幼子

 翌朝、リディアは、ロイに渡されたメモを頼りに、サパタの町にやって来た。

 サパタは、トラキアの首都とは異なり、山岳地帯の傾斜地に作られた棚田や段々畑が辺り一面に広がるだけで、それ以外は何もないような殺風景な田舎町だった。

 整備されていない斜面の道を登る際、ときおり馬が何かに蹴躓けつまづいてよろめくと、山にあまり慣れていないリディアは、馬上から棚田に落ちそうになることもあった。

 なんてへんぴなところに生物研究所とやらはあるのだろうと思ったが、眼下に広がる初夏の棚田の景色はとても美しく、馬を止めてその光景に見入ってしまうこともあった。棚田に張られた水が青く澄んだ空を映しだし、それがトラキアを囲む海の青と一体となって、山一面に青い海が広がっているようにも見えた。

 そんな美しい風景の中の棚田から少し離れたところにある段々畑の果樹の木々のそばで、二人の子供たちが、何かを捕まえるための罠のようなものを仕掛けているのが見えた。罠の大きさや仕掛けからすると、子供たちは恐らく、鳥を捕まえようとしているのだろうとリディアは思った。

 リディアも、子供の時には、グレン=ドロスから、生き物を捕まえる方法をいくつか教わったことがあった。戦士として武術に長けているだけでは、戦時下では生き残ることはできないからである。いくさの際は、どのような状況下に置かれても、自力で食糧を確保して生き残らなければならない。そのためには、敵の兵糧を奪うだけでなく、ときには獣や野鳥なども捕獲しなければならないのである。グレン=ドロスは、初めは何も教えずに、リディアに自分で考えるように促した。リディアがまだ幼かった頃は、その二人の子供たちのように、単純な罠を仕掛けて動物を捕まえようと試みたが、何度も失敗していた。すると、グレンは、どのように動物を捕獲すべきなのかを実際にやって見せて、リディアに覚え込ませていったのだった。

 リディアは、その頃の事をなつかしく思い出しながら、眼下の子供たちをしばらく眺めていた。


 「そんな鳥黐とりもちじゃあ、フリージアは捕まえられないよ」

 男の子が、幼い女の子の仕掛けた罠を見ながら言った。

 「どうせそれは、モチモドキの落穂おちぼから作った鳥黐なんだろ。そんなもので捕まえられるのは害虫くらいなもんさ」

 「あら、そんなことないわよ」

 女の子が少し機嫌を損ねたように反論すると、男の子は不満を漏らすように言った。

 「おいらたちのような貧しい農家の人間が、周りの人間から何て言われているか知っているかい?モチモチ草の濡れ落穂さ。モチモチ草、つまり、おいらたち庶民がモチモドキと呼んでいる草の落穂は何の役にも立たず、そのまま放っておいて雨に濡れると、粘々ねばねばしてすごく厄介で、扱いに困るだろ。何かの役に立つかと言えば、畑の害虫駆除に使える程度さ。おいらたち貧しい農民の子供たちも、モチモドキを栽培して鳥黐を作って売ったり、害虫駆除の仕事をしたりするようなことしか出来ない、役立たずだと思われている。唯一おいらたちがお国のために出来ることと言ったら、トラキア軍が使う狼煙のろしとなるウモールという草を栽培することくらいしかないと誰もが思っているのさ。あーあ、なんでおいらは、こんな貧しい町の農家の子供なんかに生まれたんだろうな。もし、おいらが貴族の子供として生まれていれば、今頃は、お国を護る騎士となるべく、様々な訓練を受けているだろうになあ」

 男の子は、貧しい農家の子供に生まれた運命を呪うかのように愚痴をこぼして小石を蹴ったが、すぐに開き直ってこぶしを握って言った。

 「だけどおいらは、大きくなったら絶対にトラキア軍に入隊して、みんなから尊敬される英雄になって見返してやるんだ。その英雄となるおいらのこのスリングで、フリージアなんて簡単に捕まえてやるよ」

 そう言うと、男の子は、革で作った単純な投石器を構えて、獲物に見立てた近くの木に向かって投石するそぶりを見せた。

 「あら、あの鳥黐は、単にモチモドキの落穂から作った鳥黐じゃないのよ。ツユシグレの汁を混ぜてあるの。そうすると、粘々がもっと強くなるのよ。それでねずみを捕まえたことだってあるんだから」

 「ツユシグレの汁?」

 「そうよ、知っているでしょ?あの甘い匂いで虫をおびき寄せて捕まえて食べてしまう植物よ」

 「ああ、あの粘液のことか。あれなら小動物でもいったん触れてしまうと逃げられなくなるから、運が良ければフリージアも捕まえられるかもしれないな。とにかく、フリージアは貴重な鳥だから、一羽でも捕まえられれば、かなり高く売れるぞ」

 「あら、売ったりなんてしないわ。お金は不浄なものなのよ」

 「ふじょう?ふじょうって何だい?」

 「あら、そんなことも知らないの?」

 「知らないわけじゃないよ。ただ、お前が難しい言葉を使ったから、本当に意味を知った上で使っているのか確認しただけだよ。本当に知っているのなら、意味を言ってみてよ」

 男の子は自分の無知を隠すかのように慌てながら言った。

 「ええと…」

 女の子は、ふと自分の口から出た言葉の意味を考えてみたが、自分が知らない言葉をしゃべっていたことに今になって気がついた。

 「不浄というのは、汚いという意味じゃよ」

 突然背後から声が聞こえたので、男の後が振り向くと、僧侶のような様相の老人が、優しい笑みを浮かべながら歩いてきた。

 「お爺さんは誰だい?」

 男の子は、トラキアでは見たこともない珍しい服を着た老人を不審そうに見つめた。

 「わしは、つまらぬ坊主じゃ。おまえさんたちは、自分たちが何の役にも立たない濡れ落穂だと言ったが、おまえさんたちにも頭はある。頭が何のためにあるのか知っておるかな?頭は考えるためにあるのじゃよ」

 「じゃあ、お爺さんは、フリージアを捕まえるための何か良い方法が思いつくのかい?」

 「わしは、昔フリージアを飼っていたことがあるので、フリージアのことは少しは知っておるぞ」

 「そうなの!?どうやって捕まえたの!?」

 男の子は、フリージアを飼ったことがある人がいるなんて聞いたことがなかったので、興奮しながら尋ねた。

 「頭を使えば、フリージアを捕まえるのはそれほど難しいことではない。頭を使ってよく考えてごらん」

 老人は、そう言うと、男の子の頭を優しくなでた。

 男の子は、空の方を見上げて少し考えてみた。

 「じゃあ、ヒソカズラの毒液を使うのはどう?つるの細かいとげに毒があるんだけど、それを使えばフリージアを捕まえられるんじゃないかな」

 「あら、毒なんて使ったら、フリージアが死んでしまうじゃない」

 女の子が非難するように言った。

 「大丈夫だよ。その毒は神経毒で、しばらく神経が麻痺して動けなくなるだけだから」

 「そうなの?でも、その毒をどうやって使うの?まさか、矢の先につけるわけじゃないわよね?」

 「もちろんさ。そんなことをしたら、フリージアが怪我をしてしまうだろ。そうじゃなくて、フリージアが食べる果実に含ませておくのさ」

 「あ、そうか、それはいい考えね」

 女の子は、男の子の考えに納得したが、老人は、まだ男の子に考える余地を与えた。

 「それはなかなか良い考えじゃが、それでもやはりフリージアを捕まえるのは難しいな」

 「どうしてだい?」

 「フリージアは、美土奴国からトラキアに飛来する渡り鳥じゃが、飛来するのは繁殖期の初夏なのじゃ。フリージアは、普段からとても警戒心が強く、繁殖期はもっと警戒心が強くなる。そのため、人間の姿など見えたら、すぐに逃げてしまう。そして、フリージアは、ヒソカズラの匂いを知っているので、ヒソカズラの蔓には絶対にまったりはしないんじゃよ。果実にヒソカズラの毒を混ぜておいたとしても、匂いで分かってしまうので、フリージアは絶対に食べたりはしないじゃろう」

 「なんだ、そうなんだ…」

 男の子は、残念そうに言った。

 「じゃあ、フリージアの卵を見つけて孵化させて、雛を育てたらどう?」

 女の子も知恵を絞って、自分の考えを言った。

 「そうじゃな。それも良い考えじゃが、フリージアは警戒心が強い臆病な鳥なので、人間が雛の口に直接餌を与えても、絶対に食べないのじゃよ」

 「じゃあ、お爺さんはどうやってフリージアを育てたの?さっき、飼っていたことがあるって言っていたけど」

 男の子は、フリージアを飼っていたことがあると言った老人が、フリージアは人間から与えられる餌は食べないというので、矛盾を感じて尋ねた。

 「そうさな。実を言うとわしにも分からぬのじゃ。わしの国には、生き物のことを良く知っておる人たちがおってな。どんな動物でも飼いならすことができるんじゃよ。わしがまだ幼かったときに、ある人からフリージアの捕まえ方を教わり、フリージアを飼ってみたのじゃが、子供だったせいか、うまく飼うことが出来ず、残念だが結局死なせてしまったんじゃ」

 「なんだ、そうなんだ…」

 老人が、フリージアを捕まえる方法を聞くことができずに少し残念な表情を見せた男の子の肩を軽くたたいて別れの挨拶をし、どこかへ立ち去ろうとすると、男の子は、最後に一つだけ聞こうと、老人を引きとめた。

 「ねえ、お爺さん。お爺さんは、どこの国から来たの?」

 老人は、振り向かずに歩き続けながら言った。

 「罠になにか掛ったようじゃぞ」

 男の子と女の子が、仕掛けた罠の方に目を向けると、鳩が一羽、罠のかごの中の餌をついばんでいた。女の子は、急いで罠の籠の支柱に結び付けていた紐を引っ張った。支柱が倒れ、鳩は驚いて逃げようとしたが、籠の縁が羽にぶつかり、羽をばたつかせてもがいていると、男の子が走っていって、両手で鳩を押さえこんで捕まえた。

 「やったぞ!フリージアじゃなかったけど、鳩を捕まえた!」

 男の子は、捕まえた鳩を、罠を仕掛けた女の子に手渡すと、その鳩を老人に見せようと振り向いたが、老人の姿はすでに見えなくなっていた。


 リディアは、棚田の上から子供たちの様子を眺め、その光景になぜか懐かしさのようなものを感じ、その長閑のどかな風景に見入ってしまっていた。グランダルの砂漠地帯で育ったリディアは、こんなに美しい風景を一度も見たことがなかった。これまで、母のかたきを討つことだけを考え、幼い頃からグレン=ドロスに武術や兵法を学び、辛く苦しい鍛練にひたすら励む日々を送ってきた。しかし、クベス王の暗殺に失敗し、トラキアにやって来たリディアは、眼下に広がる美しい光景を目にして、今までに感じたことのない心の安らぎを感じている自分がいることに気が付いた。

 このままここで、のんびりと暮すのも悪くはないなと、目を閉じて想像したりもしてみたが、そんな心の安らぎも束の間のことでしかなかった。

 突然、女の子の悲鳴が聞こえてきたのである。

 声の聞こえた方向に目を向けると、畦道あぜみちを二人の子供が何かから逃げるようにして必死に走っていた。なにやら異様な容貌の男が、子供たちを追いかけ回している。その男は、頬の肉がげ落ち、眼窩がんかが不気味に落ち込んだ、やせ細ったグランダルの兵士であった。男は、幼い女の子が持っている鳩を奪おうとしているようだった。

 男は女の子を捕まえると、鳩を無理やり取り上げたが、男の子がその男の背後から飛びかかった。男の子は必死に鳩を奪い返そうとしたが、男はその男の子を払い落した。しかし、男の子はあきらめずに男に向かっていき、男の脚に噛みついた。すると、痛みに耐えかねた男は、男の子を殴り倒した。そして、怒りに我を忘れた男は、なおも起き上がって向かってくる男の子を蹴り倒した。

 そのまま放っておけば、男の子の命が危ないと感じたリディアは、急いで馬を走らせて畦道を下った。男は、馬に乗った何者かが突然自分めがけて走って来るのに気付いて逃げようとしたが、リディアは、投剣の届く距離まで近づくやいなや、男めがけて投剣を投げた。

 投剣は、見事に男の左脚に刺さった。男は、ひるんで地面に膝を落としたが、すぐにリディアを睨みつけ、そばで泣いていた女の子の首に腕をまわした。リディアが近づけば、女の子を絞め殺すぞと無言で脅しているのは明らかだったが、リディアはかまわず馬を走らせ、男の頭上を飛び越えて威嚇し、すぐさま振り向きざまに、二つ目の投剣を投げた。投剣は、女の子を締め上げようとしている男の右腕の上腕に刺さり、男は短いうめき声を上げた。その瞬間、男の腕が女の子から離れた。リディアはすぐさま馬を反転させて、馬に男の背中を踏みつけさせた。男は、畦道あぜみちの泥に顔をうずめられ、もがきながら必死に顔を上げると、命乞いを始めた。

 リディアは、馬を下りると、腰の剣を抜いて男に向けた。

 「飢えたけだものよ、さっさとここから立ち去れ」

 リディアが馬に軽く触れて合図をすると、馬は男から一歩下がり、男はよろめきながらも立ちあがって、足を引きずりながら逃げていった。

 「すげえ…」

 男の子は、驚嘆きょうたんの声をもらし、今目にした光景に驚きながら、しばらく茫然としていた。

 リディアは、男が強く握りしめたために死んで地面に落ちた鳩を拾い上げると、そばで泣き崩れている女の子に黙って渡した。

 リディアが女の子の肩に軽く手をかけると、女の子は顔を上げて涙を手で拭き、リディアから鳩を受け取った。

 リディアは、周りを見渡して、他にグランダル兵がいないことを確認すると、馬のあぶみに足をかけて馬にまたがった。

 「あの」男の子は我に返ってリディアに言葉をかけた。「助けてくれてありがとう」

 男の子は、男に殴られた顔に手を当てて痛みをこらえながら、無理に笑顔を作ったが、リディアは表情を変えず、何も言わなかった。

 「この鳩はもう死んじまったけど、おいらたちは助かったよ」

 男の子は、手の中の鳩を憐れむような目で見つめている女の子を胸に抱きよせた。

 「おいらはアバト。この子はティナ。あんたは、なんて名だい?」

 アバトは、リディアの無愛想な態度を怪訝けげんに思いながらも尋ねた。

 しかし、リディアはそれには答えずに、アバトを馬上から見下ろしながら、逆にアバトに尋ねた。

 「この辺りに生物研究所というものがあるそうなのだが、お前たちは知っているかい?」

 「生物研究所?知っているさ。この畦道あぜみちの向こうに見える尾根を越えた後、しばらく歩いて山を少し下ったところにあるんだ。おいらとティナは、そのすぐ近くにある学舎でいつも学んでいるので、生物研究所のことはよく知っているよ」

 アバトは、馬上のリディアを見上げながら、彼女に周りを見るように促した。

 「ほら、見てよ。すごくきれいだろ。この辺りの棚田は、その研究所のムーロン博士が東洋の国から学んで作らせたものなんだ。棚田から収穫出来る米もうまいけど、この景色が何とも言えないんだよなあ。こんなきれいな景色と、うまい米を作れるようにしてしまうんだから、ムーロン博士はすごいよ。でも、その博士の助手で、エドっていう学者がいるんだけど、エドは研究所で変な研究ばかり行っているんだ。あんたは、そこへ行くのかい?」

 アバトは、無愛想なリディアの態度には気後きおくれせずに、親しげに話しかけた。

 「悪いが、そこへ連れて行ってくれぬか?」

 「そんなのおやすいご用さ。助けてくれたお礼に、案内してあげるよ」

 そう言うと、アバトはティナを立たせ、汚れた服を叩いて土を落としてからティナの手を引いて、リディアの馬の前を歩き出した。

 リディアは、馬から下りずに、黙ったまま子供たちの後について行った。アバトとティナも、リディアが何も話さないので、そのまま黙って歩き続けた。ティナは、途中で立ち止まって、鳩を土に埋めてあげると、走ってアバトを追いかけた。

 しばらく歩き続けると、山の尾根までたどり着いた。そこから見下ろす北東側の山の斜面は、今までの棚田の風景とはまた違ったものだった。一面が草や低木に覆われ、様々な色の花も咲いていた。そして、山を下ったあたりには、森が広がっていた。その森が、ロイが話していた、エドが動植物の観察や研究のために通うという森のようだった。

 「もうすぐだよ。ここを下ってしばらく歩けば、エドの研究所があるよ。ほら、分かりにくいかもしれないけど、あそこに小さく見える建物が、おいらとティナがいつも通っている学舎なんだ。そして、その近くに見えるあの建物がエドの研究所さ」

 アバトがようやく口を開いて、遠くに見える研究所を指さした。

 リディアは、アバトの示す方向に目を向けて、研究所の位置を確認したが、何も言わずに黙ったまま馬の歩みを進めた。

 「なあ、なんで黙っているんだい?」

 アバトは、立ち止まってリディアに尋ねたが、リディアはアバトを見ることもせず、沈黙を続けた。

 「さっきから気になっていたんだけど、その首から下がる胸の首飾りは、もしかしてアマラ・アムレットじゃないかい?」

 アバトは、リディアの胸に光る翠玉すいぎょく色の宝石が埋め込まれた首飾りを見ながら尋ねた。

 「おいらが通う学舎に時々来てくれる宝石細工見習いのハルトから聞いたことがあるんだ。トラキア公家こうけの人たちは、クラーグ・ストーンという石で出来た、鮮やかな緑色をした透明な宝石が埋め込まれた首飾りをしているって」

 アバトがそう言うと、ティナも振り返って、リディアの首飾りを眺めた。

 「わあ、綺麗ね」

 ティナは、光り輝く宝石を見つめながら、目を輝かせた。

 「私も、昔はあんな綺麗な宝石をたくさん持っていたのよ」

 ティナが、突然不思議なことを話し始めた。

 「おい、ティナ、お前が宝石なんて持っているわけないだろ」

 アバトは、ティナのいつもの癖が始まったと思い、あきれた顔で言った。

 「それは昔のことよ。昔、美土奴国で暮らしていたときは、綺麗な宮殿に住んでいて、たくさんの宝石を持っていたのよ」

 「美土奴国で暮らしていただって?おい、おいらは、お前が生まれた時からずっと、お前の家の近くで暮らしていて、お前の事をよく知っているけど、お前がトラキア以外の国に行ったことがあるなんて聞いたことがないぞ」

 アバトは、ティナの言っていることが分からず、混乱しているようだった。

 「今はトラキアで暮らしているけど、昔は美土奴国に住んでいたのよ」

 ティナは何かを思い出そうとしているかのように、遠くを見つめながら話した。ティナが嘘を言っているようには見えなかったが、アバトには、訳が分からなかった。

 「じゃあ、それはいつのことだい?美土奴国のなんていう町で暮らしていたんだい?」

 アバトは、ティナがいつものように空想で話しているのだろうと思ったが、馬鹿にするようなことはしなかった。

 「ええと…」ティナは、空を見上げながら少し考えた。

 「忘れちゃった」

 やっぱり、とアバトは思った。

 ティナは、時々良く分からない事を口にすることがあった。アバトやティナが通う学舎の生徒たちも、ティナの不思議な言動に困惑することがあったが、ティナの単なる空想だろうと思って、ティナが不思議なことを口にするときは、みんな気にせずに無視することがあった。アバトだけは、ティナの幼馴染おさななじみということもあって、ティナがおかしなことを口にしても、いつもティナを無視することはせずに、ティナの言うことには耳を傾けて、しばらくはティナの言うことを聞いてあげるようにしていた。

 「こいつは時々よく分からない事を口にするんだけど、気にしないでくれよな」

 アバトがリディアの方に向き直ってそう言うと、リディアがようやく口を開いた。

 「お嬢ちゃんは、美土奴国にいたことがあるのかい?」

 「そうよ。私は昔そこで暮らしていたの。そして、その馬のような立派な馬にも乗っていたのよ。その馬は、貴族が乗る馬でしょ?お姉ちゃんは、もしかしてトラキア公家こうけの人なの?」

 ティナは、リディアの乗る馬が、豪華な馬具に身を包まれていたため、そう思ったようだった。

 「まあ、そんなところだ」

 リディアは、短く答えた。

 トラキアの城に乗り込んで、トラキア公家の第二公女だと宣言はしたものの、まだ城のすべての重臣たちに認められたわけではなかったため、彼女が今乗っている馬は、実は城からくすねてきたものであったが、そんなことは話す必要はなかった。

 「お嬢ちゃんも、貴族の人間だったのかい?」

 リディアは、質問を続けた。

 「そうよ。私は、美璃碧ミリアという名前だったの。素敵な名前でしょ?ティナなんていう名前よりずっと好きだわ」

 ティナは、少し自慢げな笑みを浮かべた。

 「その宮殿では、どんな食べ物を食べていたんだい?」

 リディアは、美土奴国で妖術師に助けられた時のことを思い出しながら、彼女が美土奴国で食べさせられたものを、その女の子が知っているかどうか確かめようとして尋ねた。

 「あの国には、饅坥マンショという食べ物しかないのよ。子供の頃は、おいしくなくて嫌いだったけど、毎日そればかり食べていたから、大人になったら慣れてしまったわ」

 ティナは、あたかも自分の実際の経験を話しているような口調だった。

 アバトはあきれた顔をしてティナの話を聞いていたが、リディアには、ティナが嘘や空想を話しているようには思えなかった。なぜなら、トラキアでずっと暮らしている幼い子供が、謎に包まれた美土奴国でしょくされている饅坥マンショという食べ物の名前を口にしたからである。そして、まだ幼い子供なのにもかかわらず、大人であったときのことまで話したからであった。

 これは、グランダルで密かにリディアを育ててくれた、グレン=ドロスの妻の恵土ケイト=ドロスから聞いたことのある輪廻と呼ばれるものなのだろうかとリディアは考え始めた。

 恵土ケイト=ドロスは、美土奴国の人間であったが、グランダル国に移住し、グレン=ドロスにとついだ女である。その恵土ケイトから、リディアは時々異国の話を聞いたことがあったが、まだ幼かったときに聞いたことだったため、彼女から聞いたことはほとんど忘れてしまっていた。しかし、ティナの話を聞いているうちに、そのことを思い出したのであった。

 リディアは、ティナにもっと話を聞きたいと思ったが、ティナが、お腹がすいて疲れたと言い始めた。空を見上げると、太陽が真上近くに来ていた。もう昼時のようだった。急がなければ、エドという男が研究所を出て、森に出掛けてしまうかもしれないとリディアは思い、アバトに急がなければならなくなった事を伝えると、そこで子供たちと別れ、エドの研究所へと馬を走らせた。

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