冷コー譚~昔の話~

緑茶

冷コー譚~昔の話~

 この季節になるたびに思い出す、苦い記憶がある。


 大学生の頃、おれは知り合いのツテで紹介してもらったある町工場でバイトをしていた。

 そこはこの手の場所お決まりの「軽作業」という言葉で若い連中を集めて、実際の労働の実態をそいつらが知る頃には

 逃げられないようになっている、という仕組みで、おれも多分にもれずその犠牲者だった。学業と肉体労働の両立というのは存外にハードなものだ。


 しかし、そんなでもそこでバイトを続けていたのは、知り合いのメンツのためというのもあったけど、それ以上の理由が一つあった。


「おっす、お疲れさん」

 シンシンと冷えて、指先が麻痺したように冷え込むシャッター裏。

 業務開始初日、無愛想でいい加減な上司に「どこが軽だ」と心のなかで文句を言いながら、コートの襟を立てて震えるおれに声をかける人がいた。

「や、ホント冷えるね。最悪」

 ちょっとハスキーな声が、甘い声より冬空に合っているように思える。

 すすけた茶色い長い髪。ちょっとゴテゴテしたピアス。狐みたいなアイライン。

 おれのバイトの先輩で、作業所の裏側に自販機があることも知らない間抜けなおれに、缶コーヒーをおごってくれたひと。

 ひと目見て、おれは好きになった。

 だってしょうがないだろ。高校まで男子校だったんだぜ。あっ指が当たる。さすがにマニキュアはしていなかった。

「タバコいいかな」

 先輩は聞いてきた。おれはうつむきながらうなずく。こんな労働環境で、今さらそんなの気にするほうがおかしい。

 ありがと、と一言いうと、彼女はポケットからピアニッシモを出して火をつけ、慣れた動作ですぱーっと吸った。

 その動作自体が、すごくなめらかなようで、おれはそこにも惹かれていた。というか、挙動全部に釘付けになっていた。

「ん?」

 茶髪を少し前に垂らしながら小首をかしげて聞いてきたので、あわてて顔を背けて、缶コーヒーのプルタブを開けて、一口。

 ――あつっ。

「あはは、そりゃそうなるわ」

 笑われた。

 おれはなんだか恥ずかしいやら、おれの行動に反応されたのが嬉しいやらでわけがわからなくなって、ひひふ、みたいな変な声を出した。

 気を取り直してングングと飲んでいく。

 甘くて苦い液体が身体に染み込んで、感覚を取り戻させていくと、黒くて寒い空間に埋没していていなくなっていたおれ自身みたいなのが浮上して、

 しっかり二本の足で立ったような気がして。おれはそこで、余計な感情も蘇ったのが感じた。

 ――おれ。年上のねえちゃんとしゃべってる。

「あんた今日からだよね。きついっしょ」


 そう。おれがこのバイトを続けてるのは、ひとえに先輩が居るからだ。



 先輩はお決まりの時間にお決まりの場所に現れて、その時俺も隣りにいる。

 それが二日目以降、なんだか当たり前みたいになっていった。

 おれはその場に中腰になって、先輩はポールみたいな先端が丸いコンクリート柱の上に浅く腰掛ける。ピアニッシモを吹かせる。

「おっ、今日はちゃんと自分で買ったね。えらいえらい」

 そんなことを言うもんだから、おれはますますこの人によっておかしくなる。

 今度はむせなかったけど、むせたらどうなるんだろうとか思った。

 とりあえずおれは顔をうつむけてコーヒーをのんで、また自己を浮上させる。二度寝のあとの起床みたいな感覚とともに、どきどきする気持ちがやってくる。

 近くて遠い微妙な距離に先輩が居て、前のような、真上のような、中空を見つめている。

 それから、特に結果のあるわけでもない会話をする。

 あいだに沈黙があっても向こうは気にしていないようだった。しょせんは休憩時間だったし。

 でも、おれは。

 どうせ、空を見上げたって、視界の真ん中に星はひとつとないし、左右の木々のざわめきは黒くてこわいし。

 この人と色々しゃべりたいと思うようになって。

 気付けば、先輩との会話の中身に、少しずつ、相槌以外のものを混ぜていくようにしていった。



 先輩はその中で、少しずつ色んな事を教えてくれるようになった。

 専門学校に行っていて、その学費稼ぎでここでバイトをしているということ。

 親の将来設計に逆らった代償として、このきつい業務をやっているのだということ。

 弟がいて、それから……彼氏がいるということ。


 べつに、それを聞いて特にショックだとか、そこまでおめでたい思考だったわけじゃなかった。

 ただおれは、先輩が、おれに色々話してもいいと判断してくれたことが、むしょうに嬉しかった。

 その思考自体が気色悪いとはおもっていたけど、向こうがこっちの頭の中を覗けるわけではないので、おれはただ、

 取り留めもない話をしながら、コーヒーをのんで、休憩時間の最後の一分を無限に引き伸ばしていくだけだった。


 ……ずっとそのまま、少なくとも、おれの一日の中での楽しみの時間であってほしいと、そう思っていたけど。


 もしかしたら、楽しみであってほしいという願いと、普遍を願う気持ちというのは、相反するかもしれなくって。

 その矛盾を非難するかのように、ちょっとだけ、何かが変わり始めてしまった。



 ある時、いつものように先輩と距離をとりながら休憩時間を過ごしていたときだった。

 時間が来て、おれは、もっと話せばよかったと後悔しながら立ち上がって、先輩もポールから腰を浮かせて。

 その時、おれは一瞬みた。

 いや、一瞬だったのか。めちゃくちゃガン見していたのか。それとも、けっこうな長い時間だったのか。

 ……それはわからないけど。

 とにかく、おれは見た。


 一瞬、この人は作業服の下に地肌があるんだな、なんてことを考えて、

 次には、女の素肌、ということで心臓がバクバクして。

 次には……それが急激に冷やされた。


 というのも、おれが見たのは、手首から下にある、傷だらけの腕だったからだ。

 掻き傷、には見えなかった。

 何かで切り裂かれたような。もしくは、やけどか。

 とにかくそれは、ただの怪我ではなかった。

 言うなれば。

 誰かによって、そうなったかのような。


 ……おれは、見てはいけないものを見たようなきもちになって。目を背けた。

 それで終わり、そのはずだった。


 でも、その直後ほど、先輩を恨んだことはない。

 なぜなら、先輩はこう言ったのだ。


「ああ、ごめん、嫌なもん見せちゃったね」

「リスカじゃないよ」

「ただ、彼氏とちょっとね」


 週末しか自慰をしないのだが、なんでか、その日はどうしようもなかった。

 てっぺんの瞬間、先輩のことが頭に浮かんでしょうがなかった。

 我に返ってから動画内の女優を見たら、黒髪だし、目がくりくりしてるし、全然似ていなかった。



 それからというもの、おれと先輩の休憩時間は、おれにとっては意味合いが変わってしまった。

 それはいうなれば、まずい成績のテスト結果を親に見せないままごまかし続けている、というべきか。

 とにかく、おれが抱かなくていいはずの罪悪感を抱いたまま、何日も過ぎていく。

 先輩から傷についての話は一切でなくて、いつもどおりで。

 おれもそれにならって、つとめていつもどおりでいようとした。

 でも、あの、肌の上に、まるで蛭のようにのたうっていた赤い赤い傷が頭に浮かんで消えなくって。

 それから、それから。

 ……とにかく。突然おれは、その考えが頭に浮かんだ。

 前後の脈絡がまるでなかった。でもなぜか、それを考えた瞬間、おれはびっくりするぐらい全身に力が入ったような気がした。

 休憩時間が終わって、空き缶をギュッと握りながら、おれは決めた。


 ――休憩時間が終わる時に、コーヒーの中身が少しだけ残っていて、それがすっかり冷え切っていたら。

 そうなったら、その時おれは。

 先輩に、傷のことを聞いてみよう。



 そこからの日々は、なんだかふわふわとした感覚のまま過ぎていった。

 何か、互いに変化があるわけではなかったけど、おれの態度の裏側には、常に、この間決めたことがあって。

 自然に訪れるのを待ちながら、時間だけが経っていった。



「今日はいつになく寒いね」


 そう言っていた。おれはうなずいて、これまでと同じように、コーヒーを飲む。

 先輩と取り留めもない話をする。繁忙期の話。上司の愚痴。仲のいい正社員の人の話。

 流行りのドラマの話。なんでもない時間、これまで楽しくって仕方なかった、時間。

 おれはこの日も、いつしか祈りに過ぎなくなっていたあの時の決め事が自然に流れるのを待つだけだと思っていた。


 でも、だけど。

 理由なら、なんでもよかった。

 待つなんてのは嘘だ。

 いつもより、多く会話をしたから、というのもそうだし。

 おれがちょっと作業をミスって、先輩がフォローしてくれたっていうのもそうだし。

 先輩が、タバコの痰を地面に吐いた、ってのも、もしかしたら、そうだし。


 とにかくおれは。

 最後の一瞬が、またもやものすごく引き伸ばされるのを感じながら。

 どうしてか全身がかあああっと真っ赤になって、心臓がドキドキしながら、異様な高揚感をかんじながら。

 その行動自体に、奇妙な満足をおぼえながら。

 腕の傷のことを聞いた。

 聞いたのだ。

 

 ――できることはないか、と。



「ああ……ありがとう。でも、やめときなよ、そういうの。同じゼミの子とかには、よくないよ」



 先輩は、休憩時間が終わって、先に戻った。

 身体が固まって、口がパクパクして。

 なにか必死に、取り繕う言葉を探した。ちがうんですせんぱい、ちがうんです、おれはそんなつもりでいったんじゃないんです。

 だけど、伸ばした腕は届かなくって。

 おれは身体が冷え切って、痛くて痛くて。

 その時になって、決定的な断絶が、自分の目の前に出来たことを知った。

 その時になって、おれがどうして、先輩から傷のことを聞いた晩、ひどく自慰が捗ったのかを知った。


 その時になって、先輩の口調がもう、これまでとは別種の、他人行儀の優しさで覆われたものになったのかを知った。


 それから、それから。

 少しだけ残ったコーヒーはすっかり冷めていたけど。

 それは、このためにわざとそうしていたのだった。

 作業のミスも、全部、何もかも。

 最初から計画通りの遅延だった。


 さいご、先輩から放たれた言葉以外は、ぜんぶ。



 おれと先輩、どちらが先にバイトをやめたのかは覚えていない。

 次の日以降も同じような時間は続いたけど、もはやおれにとっては意味合いが変わってしまい、なんの実りももたらさなくなっていた。

 先輩は、透明になっていき、いつしか消えていった。

 おれを見限って消えていった。先輩がどう思ってたかは知らないけど、きっとそうだとおれは思うことにした。


 とにかくおれは、その時を思い出すたび、死ぬほどの自己嫌悪に襲われる。

 そうしてその時には、おれの存在が、どれだけコーヒーを飲んだとしても、あの果てのない寒さと漆黒の中に塗り込められてしまうような、そんな感じをおぼえるのだ。

 

 あれ以来、あの女優は見ていない。

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