第26話 木登りなんて何十年ぶり過ぎて腕が震える

 亮太は目の前の桜の木を見上げ、唾をごくりと呑み込んだ。

 

 木の幹はそこそこ太い。きっと亮太が登った位では折れたりはしないだろう。枝も所々に太い物が生えているので、きっと始めさえ登ってしまえば後は問題なくスルスルと登れる筈だ。昔通りに身体が動くのであれば。


 気付けば最後に島根で吸って以降タバコは一切吸っていない。亮太は胸の前にぶら下がる緑色の勾玉ネックレスをぎゅっと握りしめた。こいつのお陰かどうかは知らないが、体調もすこぶるいい。ただ、筋力に関してはここのところ忙しすぎて筋トレが出来ていなかった。果たしてこれにそこまでの効果があるかどうか。


 一番の問題は、上で待ち受ける蛇だ。考えるだけで気持ちが悪いが、一体どうやって持って降りればいいんだ。出来ることなら触りたくない、というかきっと触れない。まあでも小さいと言われたから、Tシャツの胸ポケットにでも突っ込んでいけば大丈夫、きっと大丈夫。亮太は自分にそう言い聞かせた。


 オカルトが苦手だったのに、オカルトを経験してもまあ何とかなったのだ、きっと何でも実物は想像よりもマシだ、きっとそうに違いない。


 だがその前に確認だ。


「レン、そいつは何色をしてるんだ」

「白蛇です。目立ちますからすぐに分かりますよ」


 白い蛇。本当は見つかって欲しくなどない。勿論触りたくない。というか姿も見たくなかった。


「さ、ラーメンが待ってますよ亮太」


 蓮が木と亮太を見比べた。早く登れ、そういうことだろう。亮太は恨めしそうな目をして蓮をちらりと見た。仮にも家主に対して随分な扱いじゃないだろうか。


 亮太は深く息を吐いた。もう仕方がなかった。どうせこいつらは勘弁などしてはくれないだろう。


「レン、上にあがるから手を組んでくれ。んで、俺の足を乗っけるから持ち上げろ」

「畏まりました」


 蓮が手のひらで足一つ分の空間を作ったので、亮太は遠慮なく、腹いせに少し強めに右足をそこに乗せ、左足で地面を一気に蹴り上げ木の枝を右手で掴んだ。身体半分が上がるが、そこから先がなかなか上がらない。これはどう考えても筋力不足である。腕がプルプルと震えた。


「レン……! 足をもっと上げてくれ」

「亮太はもう少し鍛えた方が良さそうですね」

「うっせえな」


 誰の為にやってると思ってるんだ。どうひっくり返ったって亮太はただの部外者だ、無関係だ。それをこいつは当然の様に人を顎で使いやがる。


「俺は……家主だぞおおお!」


 はたから聞いたら随分と情けなく聞こえるであろう主張を掛け声にして、亮太は力を込めて更に上の枝に手を伸ばし、足を太い枝の上にかけた。ようやく登れた。


 木の中で上空を見上げる。葉はそこまで密集している訳ではないので多少先は見通すことが出来た。後は毛虫が居ないことを祈るばかりだ。あの毛虫の毛は肌に触れると被れる。数日痒みと腫れが引かなくなるので、出来ればこちらも出会いたくはなかった。


「おーいみずち、居たら返事しろー」


 恐る恐る声を掛けると、下から蓮の冷たい声が聞こえてきた。


みずちは無口なんです」

「犬も本当は喋れないんじゃなかったか」


 嫌味を言ったが果たしてそれが蓮に伝わったかどうか。こうなったら目視で探すしかなかった。


みずちー、迎えに来たぞー」


 見知らぬおっさんに迎えに来たと言われて出てくるかどうかは微妙だったが、蛇神というだけあって言葉は分かるらしい。外へと伸びる枝の奥の葉の隙間から、チロリと赤い細い舌が見えた。


「……お前、みずちか?」


 亮太が枝に腕を乗せた状態で顔を向け、聞いた。白い顔が葉の塊の奥から出てきて亮太を見た。


 小さい。想像していたよりも大分小さく、亮太は心底ホッとした。どんな蛇っぽいものが出てくるのかと思ったら、亮太の指程度の太さ。顔も小さく、つぶらな瞳は赤い。白蛇というので真っ白を想像していたが、これはほんのりピンク色をしていた。サーモンピンクに牛乳を足したような、綺麗な色。これは俗に言うアルビノというやつかもしれなかった。


 亮太が手をそっと差し出すと、警戒するように、だが少しずつ白蛇のみずちがこちらに向かって進んできた。本当に小さい。長さは30センチもないのではないか。


 これなら怖くなかった。一番気持ち悪いと思う蛇柄の模様も、身体が小さすぎて判別出来ない。


「狗神が下で待ってるから、おいで」


 狗神と聞いて、みずちが鎌首をもたげた。でも小さすぎて迫力は全くない。なんだ、普通に可愛いじゃないか。


 亮太は胸ポケットを開いてみせた。


「ここに入ってくれたら、下に降ろしてやるぞ。草薙剣くさなぎのつるぎはお前が持ってるのか?」


 まだ上にありますとかいう場合はまだ降りれない。もう一回木に登れと言われても筋力的に二度目は無理そうだった。


 みずちは亮太をじっと見つめると、ゆっくりと頷いた。物理の法則がどうなってるのかはよく分からないが、こいつが持っているならそれでいい。


 みずちがゆっくりと枝を伝わって亮太に近付いてきた。時折チロリと出る舌だけは正直ちょっと苦手だが、苦手だと思われていることが伝わるとちょっと可哀想だと思ったので亮太は極力いい人に見える様な笑顔をつくり続けることにした。


 みずちが亮太の手の上を這い始めた。ヒヤリとした物が腕を伝って登ってくるのはあまり気持ちのいいものではないが、我慢だ、我慢。亮太がぐっと堪えて笑顔をつくり続けていると、みずちが胸ポケットにスルリと入り込んだ。


 捕獲完了だ。


 亮太はふう、と息を吐くと、下から亮太を見上げている蓮に声をかけた。


「今から降りるから少し離れてろ」


 亮太は枝を掴んでいた手をパッと離すと、足元の枝を掴み直し、そのまま足を下に降ろした。ぶら下がった形になり、振り子の様に戻ってきたタイミングで地面に降りた。着地完了。多少足がジン、としたものの問題はない。筋力は正直落ちてはいるが、運動神経は少しマシになっているかもしれなかった。


 亮太が胸ポケットを指で少し開けると、みずちが顔を出した。


「狗神の方に行くか?」


 亮太が声をかけると、みずちは亮太を見上げた後、プイ、とポケットの中に潜って行ってしまった。なんだなんだ。


みずちは私のことが気に入らないのです」


 来た道を戻りつつ、相変わらずの淡々とした口調で蓮が話し始めた。犬と猿の仲が悪いのは分かるが、犬と蛇も仲が悪いのだろうか。亮太が首を捻っていると、蓮が薄く笑った。


みずちの主人は、天津神あまつかみと呼ばれる神々の内のお一人なんです」

「なんだ天津神あまつかみって」


 どんどん知らない言葉が出てくる。つくづく日本の神話は奥深い。


「亮太は、高天原たかまがはらはご存知ですか」

「天国のことだろ?」

「まあ、そんな理解でいいです」


 違うなら違うと言ってほしいが、蓮は話を進めることにした様だった。


天津神あまつかみ高天原たかまがはらにおられる神々のことを差します」

「ほお」

「私も元々は天津神あまつかみのお一人につかえておりました」

「うん」

「アキラ様は国津神くにつかみと呼ばれる葦原中津国あしはらのなかつくにの神のお一人です」

「ちょっと待った、なんだその葦原中津国あしはらのなかつくにって」


 すでに話についていけなくなってきた。すると、珍しくアキラが助け舟を出してきた。


「簡単に言うと、天の国の神様が天津神あまつかみっていって、葦原中津国あしはらのなかつくに、つまり地上にいる神様が国津神くにつかみって呼ばれてて、立場は天の国の方が上」

「成程」


 すると、元々偉い筈の天津神あまつかみに仕えていた神使である狗神が、立場として下の国津神くにつかみに乗り換えたのが同じ神使として気に食わないということだろうか。


 蓮が溜息をついた。


須佐之男命スサノオノミコト天津神あまつかみなんですよ。まあ追放されましたけどね」


 まさか。亮太は蓮を思わず振り向いた。


「まさか、お前の元の主人って須佐之男命スサノオノミコトなのか?」

「……はい」


 言いたくなかったのか、蓮は不貞腐れたような表情をしていた。まあ先日も須佐之男命スサノオノミコトのことについてはボロクソ言っていたことを考えると、元々仲は良くなかったのかもしれない。


「あの人はあまりにも滅茶苦茶なのです。それも荒神こうじんと言われる所以ですが」


 吐き捨てる様に言った蓮は、その後は口をつぐんでしまった。


 亮太は。


 今度こそ話についていけなくなり、口をぽかんと開けて蓮を無言で見つめ返した。

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