第二章 二人目の居候
第9話 雨の下北沢での拾い物
亮太はアキラにビニール傘を一本手渡した。
雨はパラパラと軽く降っている程度だが、空はどんよりと重たい雲が敷き詰められている。そう簡単にはどいてくれなさそうな、そんな雨雲に見えた。
「蕎麦がいいのか?」
「別に蕎麦じゃなくてもいいけど、さっぱりしたのがいい」
さっぱりした物。下北沢はやたらとラーメンとカレーはあるが、あまりランチで和食なイメージはない。どちらかというと夜に焼き鳥、和風居酒屋、そんな感じだ。
であれば定食屋だろう。それなら安い所がいっぱいある。
ミスドの先のあそこか、更に先に行ってから右に折れた所のあそこか。
亮太が考えながら歩いていると、後ろで傘がボンボン当たる音が聞こえてきた。亮太が後ろを振り返ると、アキラが傘を差しつつ大通りを抜けるのに苦労していた。
忘れていた。こいつは人なんざろくにいない山奥から来た奴だった。
「アキラ、こっちの傘に入れ」
亮太が半ば呆れ顔で往来の真ん中に立つと、そこそこでかいからか人が避けていく。人相のせいではないと思いたかった。
アキラはその場で急いでビニール傘を閉じると、小走りで亮太の右脇まで来た。亮太が手を出す。アキラが不思議そうな顔をして見返した。
意味が分からなかったらしい。ああ、もう。
「傘を貸せ。持ってやるから」
「おお、亮太、出来る男」
「違えよ」
人混みで傘を持つことに慣れていない奴に傘を持たせてみろ、まあ十中八九傘を揺らして人にぶつけたり後ろにぶん回しながら歩いたりする。都会での立ち振る舞い方、こればかりは慣れだ、ゆっくりと身体に叩き込んでいくしかない。そう亮太は思っていた。
「人混みで傘を持つ時は、腕にこう」
自分の腕に傘の柄をかけて見せつつ、歩き始める。
「でもそれだと自分の服が濡れるけど」
「人に傘をぶつけるのとどっちがマシだ?」
「……都会は面倒くさい」
「嫌なら帰れ」
「断る」
亮太と相合い傘をするアキラの背はまだ小さく、150センチあるかどうか。本当にまだ子供なのだ。
茶沢通りから南口駅前に抜ける細い道路を歩き、突き当たりを左に折れた。珈琲豆を販売している店の隣が定食屋チェーンになっている。亮太は先に階段を上り始めた。
「この店知ってるか?」
「知らない」
「だよな」
先払いシステムなので、入ってすぐのカウンターで注文をした。亮太は焼き鯖定食、アキラは唐揚げ定食を頼んだ。これのどこがさっぱりした物なんだろうか。
そして、毎度毎度アキラの食べっぷりは見事の一言に尽きる。食事が来た途端、亮太の分が来るのも待たずに食べ始め、一瞬で食べ切った。
そして後から来た亮太の焼き鯖定食を、じっと物欲しそうに眺めている。食べにくいことこの上なかった。
亮太は念の為言った。
「やらねえぞ」
すると、またアキラがチッと舌打ちをした。こいつ、やはり時折腹が立つ。
「分かった分かった、なるべく早く食うから待ってろ」
若い頃はちっとも気にせず食べていたのに、ここのところかっこむと消化不良で胃もたれがしばらく続いてしまう。寄る年波には勝てない、とふと思ってしまい、いやまだまだ老いとは向き合いたくない、と否定したくなる狭間の年齢。それが今の亮太だった。
でも仕方ない。それにこんなにじっと見られてのんびり食べることが出来る程、亮太の神経は図太くはなかった。
味わうとかっこむのギリギリのラインで焼き鯖定食を平らげ、お
「行くか」
「ん」
食事が届いて十分も経たない内に完食。今日は晩飯は大人しめにしよう、そう思い心の中で溜息をつく亮太であった。
◇
本屋で何か仕入れよう、そう思い立ち、南口のヴィレッジに行くか北口のスーパーの上の本屋に行くか悩んだ末、漫画が充実しているヴィレッジに行くことにした。
恐らくだが、こんな店多分アキラは見たことも想像したこともないだろう。きっと驚くに違いない。
知らない内に、あまり笑わないアキラを喜ばせよう、そんな気になってしまっている自分に気付く。おいおい。
雨の日の駅前の通りは歩きにくい。亮太は一本茶沢通り寄りの道から向かうことにした。こっちの通りの方がまだマシだった。
亮太と同じ傘の中にいるアキラは、下北沢の雑多とした雰囲気に気圧されているのか、視線がキョロキョロと忙しない。
そんなアキラの頭皮を見下ろしながら、亮太は何の因果でこんな子供の面倒を見ることになってしまったのか、改めて自分の判断の軽率さに呆れ返った。まじでこの後どうなっていくんだ。
何一つ先のことが想像出来なかった。
井の頭線の高架下を潜る。壁にはペンキできちんと描いた絵の上に更に落書きがされており、寂れた雰囲気を醸し出している。
人通りはそれなりある。
その片隅に、一匹の薄汚れた茶色の毛の中型犬が座り込んでこちらを見ていた。亮太と目が合い、思わず亮太の足が止まった。
普通、犬はずっと視線を逸らさずに見ていられないと聞くが、この犬は全く視線を逸らさない。
まるで亮太を値踏みしている様な、そんな目線。
「おいお前、ご主人様はどこだ?」
さすがに都内で野良犬などもう見かけることはない。首輪らしきものはしていないが、室内犬だと普段は首輪もしていない場合も多かろう。
迷子にでもなったのか。犬の前脚を見ると、昨日のアキラの靴下の様な灰色の泥がこびりつき、更によく見ると薄っすらと血が滲んでいる。
急に憐れになった。
「お前迷子か?」
亮太は犬の前にしゃがみ込み、少し距離を取りつつ聞いた。勿論犬が返事などする訳もないのだが。
アキラは亮太の後ろに突っ立ったままだ。
犬の鼻がクンクンと動き、スッと立ち上がると亮太の匂いを嗅ぎ始めた。亮太はそのまま手を出すことなく犬に匂いを嗅がせるままにする。
亮太は合格だったのだろうか。亮太の目の前に来て座ると、小さくクウン、と鳴いた。
亮太はゆっくりと手を犬の顎の下に出すと、犬がスリ、と手に寄ってきた。可愛い。汚くても可愛いじゃないか。そして亮太は動物は好きだ。特に犬はその従順さが実に亮太好みである。
背後で突っ立ったままのアキラを振り返る。感情の読めない無表情だったが、小さく頷いた様に見えた。
勿論亮太の家ではペットは飼えない。そんなの分かっているが、まあ一時的に保護する分にはきっと大丈夫に違いない。
「ご主人様が見つかるまでうちに来るか? ん?」
亮太が犬の頬を撫でながら聞くと、声が答えた。
「もう見つかりましたよ」
それは、若い男の声だった。亮太は一瞬何が起きたか把握出来ず固まり、辺りを見回した。雨の高架下には、亮太とアキラと犬しかいない。
そして、アキラの顔の不機嫌そうなこと。
「……今の、アキラか?」
「そんな訳ないでしょ」
「だよな」
亮太の手の上に顎を乗せている犬を見た。
「まさかなあ」
犬の口が動いた。
「何がまさかなんですか」
アキラを再度振り返ると、額に手を当てていた。亮太はまた犬を見る。
「犬って喋れるっけ?」
「ただの犬ではないですから」
やはり喋っているのはこの目の前の犬の様だった。そんな話聞いたこともないし、そもそも声帯が違うから話せないと聞いたことがある。
「じ、実験動物?」
「失敬な」
犬が立ち上がった。
「ここまで来るの、大変だったんですよ。足が痛いので家まで抱いて連れて行って下さい」
そう言うと前脚を片方亮太に見せた。確かに血だらけだ。相当な距離を歩いたのだろうが、しかし随分と上から来る犬だ。いや、犬だぞ。嘘だろう。
背後からは、深い深い溜息が聞こえてきた。
亮太はピンときた。
「お前の主人てのは、アキラのことか?」
犬に聞くなんて阿呆くさいとは思ったが、一応犬に直接尋ねてみた。
「勿論です。私はアキラ様に呼ばれてここまで来たんですから」
犬が偉そうに出来るだけふんぞり返りながら、そう言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます