第3話 はせる想いの限界は

 空気が重く感じる朝。瞼にかかる異常な重力に逆らいながら、椅子に座り目の前のトーストを手に取る。上にのったイチゴジャムの甘さが口の中に広がるのを感じながら、目をテレビに向け放送されているニュースを耳に入れる。


 昨日の午後四時三十分頃。羽殿町はねとのまち三丁目の交差点で交通事故が発生しました。付近の羽殿小学校に通う生徒、飯田加奈いいだかなちゃん十歳が乗用車と接触し重体となっています。近隣の目撃情報から加奈ちゃんが赤信号の横断歩道に踏み入り、乗用車と接触してしまったとのことです。正確な状況判断のために今後も調査が続くそうです。


「羽殿町ってすぐそこじゃない。危ないわねえ。二人とも気を付けるのよ。信号ちゃんと見るのよ」


 母親が食後のコーヒーを飲みながら目はテレビに向けたまま僕と妹のあきに注意を促す。


「私もう中三だよ?大丈夫だって」

「そういう油断していると足元すくわれるのよ。いつだって気を付けていないと、自分に過失が無かったとしても危険は迫ってくるものよ」


 信頼されなかったことが不服だったのか、少しだけしかめっ面をした秋が食べ終わった食器を片付け始める。


「兄ちゃんいつまで食べてるの。いつもそんなにのんびりしてるから遅刻するんだよ」


 朝の不満をそのまま僕にぶつけてくる。ついさっきまで秋も食べていたじゃないか。


「秋に心配されなくても、なんとかなっているから大丈夫なの」

「心配なんかしてませんー。兄ちゃんが私よりもゆっくりしてるのが許せないの」

「ただの我儘じゃないか」


 理不尽な文句を言われながら、僕も食べ終わった食器を台所に運ぶ。秋の通う中学校よりも口平高校の方が距離が近いため、本当ならもう少しゆっくりする時間はある。しかし、ぶつぶつ文句を垂れる妹がいるせいで、いつもより早めに制服に着替え、学校へ行く準備を始めた。


「行ってーきまーすー」


 支度を終えた妹が僕より一足早く玄関を出る。僕自身もすでに学校に行ける状態にあったが、今出るといつもより早くついてしまうために、制服のまま椅子に座る。父親はすでに会社に出ており、母親は専業主婦で家にいるが放任主義。妹はもう家を出たことから、僕に圧をかけてくる人はいない。消えていたはずの瞼への重力が再びのしかかってくる。閉じると確実に遅刻だ。分かっているもののそれを押しのけられるほど僕の意思は強くなかった。




 ガーガーッ。うるさい。夢うつつの状態で薄目を開ける。掃除機をかける母親の姿が目に飛び込んでくる。それと同時に眠たさも掃除機に吸い込まれていったようだった。テレビの上にかけてある時計に目を向ける。十一時すぎ。


「うわっ!母さん!声かけてよ!」


 自分が悪いことを理解しつつも、責任の転嫁を行おうとする。


「だって夏が気持ちよさそうにしてたから、起こすのも悪いかなって」


 相変わらずのマイペースな様子で答えが返ってくる。八つ当たりをしたい気分にも駆られたが、そんな暇がもうないことを実感する。大慌てでカバンを引っ掴み玄関を出る。


「行ってきます!」

「はい、行ってらっしゃーい」




「なんで今日遅刻したんだ?寝坊か?」


 箸を器用に使い、弁当箱から取り出したウィンナーを口へと運びながら、貴田が問いかけてくる。


「ちゃんと起きたんだけどさ、椅子に座ったら二度寝しちゃってた」

「ははは。いろっち抜けてるー!」


 その言葉を北西から頂く日が来るとは……。反論したい気持ちを抑え、今日の所は反省をしておく。


「それよりさ、ニュース見た?羽殿町の事故。かなり近いよね」


 遅刻の話題がこれ以上続くのは、どうも居心地が悪い。いち早く脱出するために、朝見たばかりのニュースを口に出す。


「見た見た!怖いよね!横断歩道わたるときに手挙げないとね!」

「気を付けるに越したことはないけど、そこまでしないだろ」

「貴田っちぃ~。小学校で習わなかったの?横断歩道をわたるときは、右見て左見てもう一度右を見て手を挙げてわたるんだよ」

「そういうことじゃねぇよ」


 狙い通りに話の内容が遅刻から離れていく。それにしても。高校生にもなって横断歩道を手を挙げてわたる人は北西くらいじゃなかろうか。登校する小学生と一緒になって手を挙げている北西を想像しても違和感がないところが悲しい。


 そうこうしている内に、早くも昼休みが終わりにさしかかる。授業時間の五十分はひどく長く感じるくせに、どうしてこうも昼休みの四十五分はこんなにも短いのか。誰か時計の針を動かしているんじゃないのか。そんなしょうもないことを考えながら、弁当の残りを急いで口の中に放り込み食事を終えた。


 いつも通り、教室には三人しか残らなかった。これだけ人が少ないと、声が反響する。誰もいないはずだが、それでも誰かに話が聞かれているような少しだけ妙な気分になる。


「ウォシュレット気持ち悪いじゃん!なんかこう、気持ち悪いじゃん!」

「まぁ分かんなくはないけどさ。実際、洗った方が清潔じゃん?要は慣れだよ慣れ」


 なんて下品な会話だろうか。男性だけならこんな会話もあるだろうが、驚くことなかれ。この中には女性も混ざっている。知り合って最初の頃は、北西がいた時はこのような会話は無かったような気もするが、要は慣れというものなのだろうか。


 二人の会話を耳に入れながら、片肘をつき窓の外を眺める。窓の外は小さな中庭を挟んで三年生の校舎が見える。何を見るでもなく全体を視界に入れる。するとその視界の端、上の方に何かが入り込んだ。目線を向ける。校舎の屋上の淵に人が立っているのが見えた。


 ドクン。


 急に動悸が早くなる。全身に送られる血の量が増加する。頭の中でヤバイという言葉が反響し始めた。


「ちょ、ちょっと。あれ、まずくないか……」


 目線を屋上から外さないままで二人に語りかける。一瞬の間が空く。二人もこの光景を目に映し言葉を失っているのだろう。しかしすぐに貴田が声を上げた。


「あいつ飛び降りるぞ!!」


 貴田がすぐに立ち上がり教室から飛び出す。追いかけるように北西と僕も走り出した。渡り廊下を通り、校舎を移動する。


「俺と思色は下行くぞ!!北西は屋上行け!」


 貴田が指示したとおりに階段で二手に分かれる。


 それにしても、この口平高校において屋上は立ち入り禁止になっているはずだ。どうやってあの人は屋上に入ったのか。鍵は職員室で管理されているはずだが。


「貴田!下に行って飛び降りをキャッチできるものか!?」


 階段を駆け下りながら、疑問を呈する。


「キャッチできなくても衝撃を減らせる可能性あるだろ!それに、下に人がいると飛び降りを躊躇するんじゃないか!?そっちの方が狙いだ!」


 なるほど。死にたいとするなら直接地面にぶつかる方が良いだろう。それに、飛び降りる人の心境は想像するしかないが、気持ち的に他の人が下にいれば飛び降りにくい気もする。


 中庭に到着する。他に人はいない。天気は良く、木々の葉が風に吹かれて擦れる音を出している。それ以外に音は無く、平和な空気が漂っている。

 しかし、上を見上げるとその空気は気のせいであったことに気づかされる。先ほどの光景は見間違いではなかった。制服を見にまとった女生徒が屋上に立っている。


「ど、どうしようか。声をかけるべきか?」

「いや、飛び降りに気を付けてじっと待っとけ。下からは上手く会話できるか分からん。逆効果の場合もある。それに、人の気持ちは北西の方が察するのがうまい」


 僕と同じくこんな状況は初めてであろう。それなのに動揺を押し隠し、正確な判断を下せるのは尊敬に値するところだ。


 屋上の端に立っていた女性が後ろを振り返るのが見える。恐らく北西が屋上についたのだろう。下に降りた僕たちはカバーしかできない。うまく懐柔するのを祈るしかない。


 緊張した状態が続く。そんなに長い時間は立っていなかったであろう。しかし体感としては永遠に続くのかと疑いたくなるほどの長さで、女生徒が下からは見えなくなったと同時に緊張がほぐれ、体感した長さ分の疲れが押し寄せてきた。


「ひとまずは、大丈夫そう……だな」


 僕と同じように疲れが来たのであろう。貴田が座り込む。


「とりあず……屋上行こうか。北西も待っているだろうし。貴田、立てる?」

「おー。もう少しだけしたら立つ」





 僕と貴田が屋上のドアを開けると、北西が女生徒と手をつなぎしゃがみこんでいた。


「北西お疲れさん。腰でも抜けたか?」


 軽く馬鹿にしたような声色を発しているが、僕の記憶では数分前までこいつもしゃがみこんでいたはずだ。


「次から次へと人が湧いて出てくるわね。何か私に用事でもあるの?」


 女生徒の口からイラつきの混じった言葉が漏れ出してくる。僕や貴田には及ばないものの身長は高め、ツリ目であることから多少の威圧感を感じてしまう。


「お前さ、今飛び降りようとしてただろ。止めにきてやったんだよわざわざ」

「それはわざわざご苦労様。有難迷惑だからもう帰ってくれる?」


 敵対心むき出し。貴田の顔に、感じた分の不快感が現れている。


「まぁ二人とも少し落ち着こう。僕は二年の思色っていう者ですけど、隣のこいつは貴田。そこの右手で繋がっているのは北西。あなたは何ていうんですか?」

「……一年の宮内」


 年下か。落ち着いた大人っぽい雰囲気を纏っているために三年生だと勝手に思っていた。


「それで、宮内。なんで飛び降りなんてしようとしてんだよ」


 貴田の問いには答える気はないのか、宮内の目線はどこかよそを向いて黙っている。


「無視ね……。まぁいいや。ほら、とりあえず降りるぞ」


 宮内に背を向けて貴田は屋上入口へと歩みを進める。


「なんで私も降りるのよ。勝手に決め」

「みやっち!降りるよ。行こ!」


 眉間に皺を寄せて刃向う宮内の言葉は、北西によって上書きされる。気を削がれるというのは、なかなかに人に影響を与えるものだ。先ほどまでの、僕たちには従わないという確固たるような様子は和らぎ、渋々ながらも北西に連れられ、宮内も屋上のドアへと向かう。




 二年三組。僕たちの教室に戻ってくる。自分の席から見える隣の校舎に目を向ける。つい先ほどまで、あそこから飛び降りを画策していた人がいた。とりあえずのところは未遂に終わったわけであるが、夢であったかのような非現実的な気分になる。


「それで。何で飛び降りなんてしようとしたんだよ」

「そんなことしようとしてない。屋上で眺めてただけ」

「お前さっき有難迷惑って言ってただろ。それもう認めてるじゃねーか。というか先輩だぞ。敬語どこいった」

「……」


 沈黙が流れる。宮内が飛び降りようとしていたのは確実だ。しかしその理由を話す気は今のところ無いらしい。ただ、それを置いておいたとしてもまだ一つ疑問が残る。

 この学校の屋上の扉は鍵がかかっているはずだ。鍵は職員室にある。先生が常にいる部屋から、屋上の鍵を盗み出すことはかなり難易度が高いはずだ。その疑問を僕は口にした。


「宮内はどうやって屋上の鍵を手に入れたの?」

「……言えません」

「なんで思色には敬語なんだよ」


 言えない……か。重要なことは何も話す気はないようだ。本人が理由も方法も話さないとなると、解決策を生むのはかなりの困難を極める。まぁ、解決してやる義理もないわけだが、同じ学校の生徒が、しかも少なからず関わりを持ってしまった生徒が、飛び降り事件を起こしてしまうのは目覚めが悪い。


「……私、もう帰ります」


 宮内が席を立つ。何も解決しないまま。すっきりしない。納得はいかないが、当の本人が話さないとなると何も進展しないのは目に見えている。北西が止めようと何度も試みていたが、宮内は丁寧な敬語で何度もそれを断り、教室から出て行ってしまった。





 教室には、僕たち三人だけが残った。しかし漂う空気はいつも通りではなく、重い。


「あいつさ、このままだと多分、また繰り返すよな?」

「駄目だよ!そんなの!なんとかしないと!」


 そう、なんとかしないと。このまま何もしなければ、また、宮内は死のうとするだろう。


「ただ、原因が分からないからなあ。死にたくなるなんて相当なことだよね」

「パッと思いつくのはイジメだな。でもあんな気の強い女がイジメ?どっちかといえばする方だろ」


 イジメをしていることは無いとして、イジメられる側ではないというのは貴田と同意見だ。一度会っただけであるが、年上にたいしてもあの毅然とした態度を貫ける人をイジメようなんて考えはまず浮かばない気がする。

 となると、原因は学校以外の可能性か……。家庭の問題……とか?いや、これはもう考えても仕方がない気がする。宮内の口からはっきりと原因を聞くまではどうしようもない。それよりも気になるのが……。


「どうやって宮内は屋上に入ったんだろう?」

「分からんけど、それそんなに重要か?」

「いや、まあ、気になるだけといえばそれまでだけど。でも原因を考えたところで、宮内の口からちゃんと聞くまではどうしようもないだろう?」


 屋上に入る方法といえば鍵を使う他、一つ下の教室の窓から上るといった方法も考えられなくもない。だが、飛び降りが目的であるなら、最上階の教室に入った時点でそこから屋上に上る必要性がない。

 それになにより、宮内は、どうやって屋上の鍵を手に入れたかの質問に、言えない。と答えている。つまり鍵を手に入れたことは明白だろう。しかし、鍵は職員室。職員室には先生がいる。先生の目を盗んで鍵を盗れることがはたして可能か。職員室に生徒が居ると違和感が生まれる。その違和感を消し去る方法があるとは思えない。となると……。


「言えないって宮内は答えていたよね」


 考えが纏まったわけではないが、感じた違和感を口に出してみる。


「鍵をどうやって手に入れたかって話の時か?ちゃんと覚えてないな。けどまぁ言ってたんじゃね?鍵は職員室だろ?盗んだならそりゃ言えないわな」


 そう。単純に考えればそれだけの話だ。ただ、生徒一人が職員室から鍵を盗む難易度がどれほどのものか。仮に宮内が鍵を盗んでいないとするなら。言えないという言葉は自分を擁護するものでなく、他の人のための言葉になる。

 つまり、鍵を宮内に代わって手に入れた人のため。それは宮内と同じ生徒であれば、同様の理由で盗み出すのは厳しいはずだ。他に考えられるのは。


「先生が加担しているとか……?」

「え?」


 目を点にしている二人に、先ほどまでの自分の考えを話してみる。


「……なるほどな。筋は通ってるように見えるが。推測が多すぎて、予想の域を出ない感があるな。北西はどうよこれ聞いて。」


 理解はしつつも諸手をあげて賛同できない様子の貴田は、北西に意見を求める。僕の意見を聞いて、珍しく考え込んでいる北西の目線はどこを見ているのか分からない。


「みやっち……言えないって時、自分っていうより誰かを庇ってる感じだった」

「なんで分かるんだよ」

「……え。んーと、なんとなく」


 北西の言葉は歯切れが悪い。しかし、今まで付き合ってきたから何となく分かる。もちろん正確ではないが、北西がそう感じたなら、そうである可能性は高い。


「んー。まぁ可能性的にはもちろんあるし。でも先生って言っても人数いるぞ。誰だろな」


 貴田も同じ考えなのであろう。納得はしていなさそうであるが、その仮定を元に話を進める。


「いや、ある程度は絞れると思う。まず思いつくのは担任。他の可能性は、宮内のクラスを授業かなにかで持っている人じゃないかな。関わりがない先生ってことは無いと思うけれど」

「担任ねぇ。あ、あいつのクラスどこだ?」


 僕たち三人とも宮内との関わりはなく今日が初対面であったため、はたして宮内が一年何組なのか知る者はいなかった。こればかりは考えても仕方がないと判断し、とりあえず、僕たちの担任である里崎先生に聞いてみるため、職員室に向かった。




「先生―!先生先生先生!みやっちってどのクラス!?」

「うるせー北西!誰だみやっちって!あだ名で分かるか!」


 ここは職員室……のはずであるが、あたかもこの空間に僕たち三人と里崎先生しかいないようなテンションを北西が続ける。他の先生の目線が集まっているのが分かる。ただでさえ職員室とは生徒にとって緊張するものであるのに、こんなにも注目されると用件は済んでいないが早く出たくなる。


「一年生に宮内って人がいるだろ?何組か分かるか?」

「あのな。細かいこと言わない性格だから怒る気はないけどさ、敬語使う相手だってことちゃんと覚えとけよお前らは」


 苦い表情の里崎先生から宮内は一年一組で、その担任は山本先生であることを教えてもらった。どうやら今は職員室におらず、弓道部の顧問であるため、部活に出ているらしい。さっそく話を聞きに行こうと職員室を出るところで、さらに里崎先生に声をかけられた。


「お前ら何しようとしてんの?」


 僕たちは軽く顔を見合わせる。飛び降りの件を言うべきか言わざるべきか微妙なところだが、あまり関係のない人に話して事を大きくするべきではない気がした。貴田と北西があまり進まない顔をしていたのも、そう思った要因の一つであろう。


「いや、何でもないですよ。ちょっと今日偶然知り合って、気になることがあったものですから」


 パッと思いつかなかったために、少し雑な言い訳になってしまった。その違和感に気づいたのか、里崎先生は軽く眉間に皺を寄せ、考えている様子で僕たちを止めた。


「そうか。じゃあ、悪いがそれ後回しにしてくれ。お前らに話すことがあるの忘れてたわ。外行くからちょっと付き合え」

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