第2話

 鏡を抜けると、森だった。森の樹々の根本は水に沈んでいる。池と呼ぶような感じではない。澄んだ水が広く続いている。湖というほどは深くない。水に沈んだ落ち葉の揺れ方と水面の穏やかな波打ち方から、あちこちから水が湧いているのがわかる。泉だ。振り向いても、俺が通ってきた穴はない。『神々の夜明け』の仕様通りだ。

 しかし、転生の間を抜けた先は、この場所は、仕様と異なる。仕様通りなら、ハバーサブの神殿に出るはずだ。

 ハバーサブの神殿は、薄暗い巨大な石の神殿だ。新規プレイヤーを含め、新しいボディになったばかりのプレイヤーのために用意されている。そのハバーサブの神殿で、チュートリアルを選んだり、ソロプレイかパーティープレイかを選んだり、パーティープレイならパーティー申請したり承認したり、マップを選んだりクエストを選んだり、それから改めてマップ移動することになる。

 しかし、ここはそうではない。薄暗い巨大な石の神殿ではななく、根元が水に沈んだ森だ。似ているのはイナシミの水の森だが、イナシミの水の森は中級プレイヤー以上が推奨されるマップで、ボディメイキング直後では選ぶこともできない。

「というより、どうしてマップの呼び出しができているんだろう」

「えっ、声?」

 幼く涼しげで、それでいて少し震えて不安げな声。顔を向けると、濃く暗い紫色のふんわりとした長い髪が、木の陰に。病的に白い肌とハッキリした目鼻立ちの少女だ。背中にはコウモリのような黒く薄い翼がある。全体的に見知った姿に近い。

「アミちゃん? それがアミちゃんのメイキング直後の姿かな?」

「えっ? もしかして、ゆーちゃん?」

「ああ、やっぱりアミちゃんか。さっきまでの姿を幼くしただけだから、わかりやすかったよ」

 俺が喋ると、しわがれた声と甲高い声が同時に喉の奥で震える。黒い羽の少女、アミちゃんの目に涙がにじんだ。それから、パシャパシャと水を蹴って駆けて来る。そのまま俺の首に抱きついた。

「ゆーちゃん! ゆーちゃん! ゆーちゃん!」

「はいはい、ひとりで寂しかったのね、わかったわかった」

 この姿の鱗は痛いだろうに、アミちゃんはかなり強く抱きしめてくる。

 アミちゃんは「ユアミィ」というキャラクター名だが、呼びにくいから俺は「アミちゃん」と呼んでいる。一方アミちゃんは、俺のことを「ゆーちゃん」と呼んでいる。というか、ちゃんと「ユーグレナ」というキャラクター名で呼んでくれるヤツが少ない。

 俺は抱きしめられたまま、辺りを見渡す。やけにリアルだ。それは今までの「VRなのに映像が美しい」とか「熱中して忘れていられるほど身体感覚の違和感が少ない」とかではない。そういう違和感すらないことに違和感を抱く。

「はいはい、そろそろ泣きやもうな。また泣き虫って言われるぞ」

 俺の耳障りな声色に、アミちゃんは飛び跳ねるように後ずさる。そのまま、ふわりと飛んで木の枝に腰掛ける。

「みんなも、ここに来るの?」

「わからない。わからないけど、俺もアミちゃんもここに来たんだから、可能性は高いよね」

 アミちゃんは「そっか」とつぶやいて、少し顔をゆるませた。

 俺は、アミちゃんの座る枝の先を、長指で折るように引きちぎる。繊維が白く毛羽立つような断面だ。それに、枝の表面の緑色がまとわりついている。

「うう、ゆーちゃん、わたしが泣いてたこと、みんなにはナイショだからね」

「言わないよ。どうせみんなも、アミちゃんが寂しくて泣いてたことぐらい、言わなくてもわかってるだろうし」

 アミちゃんの「もうっ」という声が聞こえる。きっと頬を膨らませていることだろう。あざといあざとい。

 俺はまた枝を引きちぎる。今回も繊維が白く毛羽立つような断面だが、さっきの断面と明らかに形状が違う。緑色の繊維も、ちぎれ方が違う。また引きちぎる。また毛羽立つような断面だが、今までより粗く、ささくれ立ったような形状で、木の色もはっきりしていて、茶色い枝肌の傷ついたところの下に薄緑色の繊維が見える。

「で、ゆーちゃんは何してるの?」

「いやあ、あまりに世界がリアルだなあ、って」

「どういうこと?」

「最初は、イナシミの水の森っぽいと思ったんだよ」

「違うの?」

「わからない。わからないけど、あまりに世界がリアルで、違和感がないことが逆に不自然で、どういうことかな、と」

 アミちゃんが「なるほどね」と言いながら俺の前まで飛んできた。

「ゆーちゃんは、どんな状況だと思ってるの?」

 アミちゃんの問いかけに答える前に、アミちゃんの後ろで、何もない空中から光とともに少年が現れた。炎のように朱く輝く髪と白い鳥の翼が目立つ。少年は俺とアミちゃんを眺める。

「そっちの子竜がユーグレナさん、そっちの少女がユアミィさん、間違いないですね?」

 少年の確認に、俺は「クゥアア」と鳴く。それから、改めて言葉で答える。

「正解、にゃっさん。さすがだねえ」

「おお、にーやんか!」

「あなたたちは私が誰かの確認をしないのですか」

「いやいやいや。今のやりとりが確認でしょ、にーさん」

「そうだよ、オニーチャン」

 少年は顔を背けて、小さく鼻を鳴らした。彼は「仁山」だ。俺は普段「にゃっさん」と呼び、アミちゃんは「にーやん」と呼んでいる。アミちゃんがふざけるときに「オニーチャン」と呼んでいたので、便乗して俺もふざけるときは「にーさん」と呼ぶようになった。もちろん三人とも血縁関係はない。『神々の夜明け』の中で会っただけだ。アミちゃんはリアルの顔合わせを嫌がり、にゃっさんは忙しく、オフ会などで会ったことはない。

 にゃっさんが俺の方を向いた。

「ユーグレナさんのことですから、こちらのマップに移動してからも既にいろいろと試したんですよね。何を試してどんな結果が出たのか、どのような仮説を立てているのか、話してください」

 にゃっさんが早口で質問してきている間に、ゲームメニューやシステムメニューに意識を向ける。やはり、コンソールは出てこない。

「転生の間でも、ここでも、コンソールが出てこない」

「やはり、ユーグレナさんもそうですか。確認ですが、『神々の夜明け』のコンソールも、『神酒』のコンソールも、両方ですよね? 私は両方とも開くことができませんでした」

「もちろん、両方とも。それから、世界がリアルすぎるから木の枝を何回か折ってみた。にゃっさん、ここは自動生成されたマップとか、アップデートされた既存のマップとか、そういうレベルの話じゃないかもしれない」

 にゃっさんは首を傾げて「と言いますと?」と先を促してくる。

「まだ試行回数が少ないから断言はできないけど、何度やっても同じ断面にはならない。恐らく、テクスチャの適用ではない」

 俺の返事を聞きながら、にゃっさんは次々に枝を折り取って断面を見比べていく。にゃっさんは「確かに」とつぶやく。それから、また顔を俺に向ける。

「要するに、わからないことがわかった、という状況ですね」

「そうなるね」

「それは何と言うか、困りましたね。会社にタスクとノルマがあるんですよ」

 アミちゃんが「うわっ、社畜キモい」と言いながら、足でにゃっさんに水をかける。それから、少し高く太い木の枝まで飛んで、腰掛ける。

「ねえねえ、にーやん、ゆーちゃん。もしかすると、ここは『神々の夜明け』の中じゃないかも。それどころか『神酒』の中ですらないかもよ」

「どういうことよ、アミちゃん」

「ユアミィさん、説明してください」

「えっと、例えば、死後の世界とか?」

「それは困りますね。引継ぎ業務もしてこなければなりません」

 俺とアミちゃんの「社畜キモい」の声がハモった。

「つまりアミちゃん、俺たちはサーバー停止処理に伴うバグで死んだってこと? そして死後に転生したってこと? ああ、そう考えるとメイキング直後の姿になっているのも納得できるな」

「いえいえ、私は納得できませんよ。何の根拠もありませんよね」

 にゃっさんの言う通り、何の根拠もない。だが、現状では確かめるすべもない。

「ゲーム内だとしても、待つ以外にすることがあるか? ないよな?」

「うんうん、ゆーちゃんのゆーとーり。どちらかわかんなくて、どちらでもすることが同じなら、気にしなくていいのよ」

 にゃっさんが不満げに眉を寄せる。しかし美少年の顔でそれをやられても、可愛さアピールにしかならない。

 にゃっさんの頭の上の空間が輝いて、俺と同じくらいの大きさの蜘蛛がにゃっさんの頭に落ちた。その蜘蛛は毛深く、ふさふさした足でにゃっさんの頭にしがみついている。それはよく知っている姿だ。

「やっとピヨさんが来たか」

「よう、ユーグレナ。お前も懐かしい姿になってるな」

 にゃっさんが頭の上から毛深い蜘蛛を引き剥がす。その蜘蛛を、横から飛んできたアミちゃんが奪い取って抱きしめる。

「ピヨちゃんだぁ!」

「ミィちゃんも元気そうだな」

「今! 元気になったの! だってさっきまで、おねーちゃんがいなかったんだよぉ」

「はいはい、ミィちゃんは甘えん坊だねえ」

 その毛深い蜘蛛は「ピヨピヨひよこまめ」というキャラクター名だ。しかし、まともに呼んでいるヤツはいない。俺は「ピヨさん」だとか「あねさん」だとか呼び、アミちゃんは「ピヨちゃん」とか「おねーちゃん」と呼んでいる。そもそも「ピヨピヨひよこまめ」という名前が長い。にゃっさんは丁寧に「ひよこまめさん」と呼ぶ。それでも前半は省略している。逆にピヨさんは、アミちゃん以外は呼び捨てだ。アミちゃんのことは「ミィちゃん」と呼んで、かなり可愛がっている。

 俺は「クケェェ」と鳴く。全員が俺の方を向いたので、俺は顔を真上に向ける。

「飛行能力が最も高いのは、この姿でも俺だろうし、上から辺りを眺めてみるよ」

「では、私はもう少しテクスチャのことを調べてみます」

 ピヨさんはアミちゃんの腕から抜け出て、隣の木の幹に跳びついた。

「おい、仁山。テクスチャのことって何だよ。オレにも教えろ」

「説明しながら調べますので、近くにいてください」

「じゃあ、わたしもー! わたしもピヨちゃんの近くがいい!」

 アミちゃんがまたピヨさんを抱きしめた。


 俺は「クェェ」と鳴いて、翼の周囲に力を込める。そして真上へ飛ぶ。木の葉や木の枝を突き抜ける。眩しくて真っ青な空が広がって、その眩しい青へ青へと飛ぶ。視界の端の端まで真っ青になって、俺はやっと飛ぶ速度を緩める。そのまま真上に上昇しながら、辺りを見回す。

 ああ、やっぱりそうだ。ここはイナシミの水の森じゃない。明らかに違う。こんな風景、見たことがない。『神話の夜明け』のマップにはなかった。少なくとも、今までに公開されたマップにはない。

 ゆっくりと右回りでぐるりを見渡す。

 真下の森に隣接する山脈、その右手には砂浜と青い空と海、さらに右手には深く森が広がってから草原が広がり、その草原の先には地平線近くにいくつかの山々、さらに右手には岩場と崖があって海、崖の向こうの空のやや右側に太陽があって、その右手が一周回って最初に見た山脈になっている。

 マップとマップの繋ぎ目や背景画像とテクスチャの繋ぎ目の歪みも見当たらなかった。『神話の夜明け』には、そういうアラが残っていた。気にしなければ気にならない程度だが、探せばすぐに見つかるアラだ。それが見つからない。

 なかば冗談でアミちゃんの考えに乗ったが、あながち的を得た話かもしれない。心構えぐらいはしておいた方がいいだろう。少なくとも、ここは『神話の夜明け』の中じゃないはずだ。


 俺が森に降りると、にゃっさんが水面を滑るように飛んできた。その後ろを追うように、丸くぼんやりとした光も飛んできて、俺の周りをぐるりと飛ぶ。同時に頭の中で声が響く。

「ユーさんも元気そうだね。よかった、僕、心配してたんだ」

「遅かったねえ、ロッさん」

 俺は光の球体に返事をして、「クァアアアッ」と鳴く。この丸い光は「ゼロ」という名だ。俺はロッさんと呼んでいる。

「明らかに不具合があるのに、みんな躊躇いがなさすぎるんだよ」

 ロッさんのボヤキが頭に響いて、俺は「クククッ」と笑う。

「そういうロッさんだって来たじゃないか」

 ロッさんは「そう言われても」とぼやく。そのロッさんの丸い体をアミちゃんが両手でつかんで、真上に投げた。

「ゆーちゃん、ゆーちゃん! 上から見たらどうだった?」

 楽しそうなアミちゃんを見て、俺は後ろ足で翼のつけ根を掻いた。



天土に五つ柱の見えたまふときこそときの起こりなりける


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