滝淵のヤマメ

@fulidom

滝淵のヤマメ

 脇に置いた布カゴを開けて、仕切りがわりのクズの葉をどけてる。目についたトンボ、ハグロトンボを取り出す。翅は、すでに三分の二ほど切り落としてある。その胸から腹にかけて釣り針を通す。クマザサとシノブの葉の隙間から釣り竿の先を小さな滝淵へ向ける。押しだすように、そっと釣り針を投げる。トンボが羽ばたきながら水面に落ちる。

 ここの淵の水面の動きはわかっている。小さな滝から淵から溢れ出る流れが、ゆるやかなふたつの渦をつくっている。淵底でどれほど複雑な水流があっても、その水面は簡明だ。滝に飲みこまれないよう、溢れ出る水に流されないよう、釣り竿で釣り糸の動く範囲を操作する。飛び上がろうとするハグロトンボが、ゆっくりと滝淵の水面を回ってゆく。

 滝淵の水面は、銀色の光と木々の緑と空の青をまだらに反射させている。その隙間から網目のように水中が透けて見える。いくつかの魚の影が淵底を泳いでいるが、岩陰に入ったり出たりしているだけで、水面へ上がってくる様子はない。水面でもがくハグロトンボの動きがだんだんと緩慢になってゆく。いくつかの魚の影が滝の泡の中へと入ってしまい、見えなくなる。

「ダメかなあ」

 つぶやいて、後ろの竹カゴを眺める。クマザサの細く小さなタケノコが数十本ほど入っている。足元の水に沈めてある竹カゴの方は見たくない。

 釣り竿を引いて、糸をつかむ。先端の釣り針からハグロトンボを外す。もう、わずかにピクピクと動いている程度だ。そのハグロトンボを淵へと投げ捨てた。

 パシャンッと水音がした。水底へと泳いでいくヤマメの後ろ姿、水面に落ちたはずのハグロトンボはいない。間違いなく食べに来たのだ。

 布カゴからヨツボシトンボを取り出し、釣り針にかける。釣り竿を滝淵へ押し出して静かに釣り針を投げる。ヨツボシトンボは一瞬だけ飛んで、ぽとりと落ちる。弱く小さな波紋は、おだやかな水面の流れにさえ飲み込まれてゆく。きらめく水面の下の魚の影は、岩陰から出たり入ったりしている。

 木の影で水面が反射していない辺りを何尾かのヤマメが泳いでいくのが見える。それらは滝の白い泡の中へと消えてゆく。やがて、パシャンッとヤマメが跳ねた。クマザサの近くを飛んでいたニホンカワトンボを食べたのだ。釣り針のついたヨツボシトンボはまだ水面でもがいている。

 ほとんどヨツボシトンボが動かなくなって、釣り竿を引いた。釣り針からヨツボシトンボを外し、淵へと投げる。パシャンッとヤマメが跳ねた。ヨツボシトンボを食べたのだ。

「何だよ、何がいけないんだよ、何が違うんだよ」

 布カゴからハグロトンボを取り出し、釣り針にかける。釣り竿を押し出して釣り針を淵へと投げる。ハグロトンボは水面でもがいている。その近くに、布カゴから取り出した別のハグロトンボを投げる。釣り針のついたハグロトンボとついていないハグロトンボは、並んで淵の水面をゆっくりと回る。

 岩陰から大きな魚の影が出てきた。今まで最も大きい。ゆっくりと泳いでいたが、急に水面へと向かってくる。パシャンッと、釣り針のついていないハグロトンボを食べた。皮肌の美しい大きなヤマメだった。

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