第9話


 ベルーガの砦に、メフィが戻ったのは真夜中のことだった。

 月は出ていない。暗闇で夜襲がないと踏んでいるのだろう。見張りの兵士たちは武器を枕に居眠りしている。

 そんな兵士たちを一瞥し、メフィは吐き捨てるように言う。

「警備がザル、弛みすぎですね」

 とはいえ、正面から砦に戻るのはよろしくない。

 主からは目立たぬように、と厳命されている。

 面倒だが近くにある影に潜ってから、主の元へ向かう。

 主のいる寝室は、実に素晴らしい配慮がなされていた。最高級ではないものの、革張りのソファーや精緻な意匠を凝らした家具。部屋を飾る花瓶や絵画。この砦で最も地位の高い者が使用する部屋だ。この待遇から、いかに女王から信頼が厚いかうかがえる。

――人間の王にしては見る眼がありますね。その点だけは認めましょう――

 メフィにとっていけ好かない女王だったが、評価はそれなりに高い。

 そんなことを考えていたせいで、ノックをするのを忘れた。

――隠密行動中だし、許容範囲です……よね。多分……――

 主人が寝ていることを確認し、影から姿をあらわす。

「戻ってきたか」

 寝台で横になっていたエリックが、起き上がる。

 隙の無い主にメフィは恐縮した。同時に、怒りを買ってしまったのではと不安になる。

「睡眠の邪魔をして申し訳ありません」

「かまわん。寝つけなくてな、考え事をしていた」

「さようでございますか」

「それよりも休息はとっているか? 食事は? 疲労は溜まってないか?」

「問題ありません」

「ならば良いのだが、もし体調に異変を感じるようであれば任務を放棄してもいいのだぞ」

「それには及びません。悪魔族ですから」

「そうか。ならば引き続き任務に当たれ。リンガイアには敵前逃亡だと思うよう、怪しまれぬよう少しずつ擦り減らせ。くれぐれも目立つ被害は出すな。敵兵に違和感を与える程度でいい。精神的な揺さぶりをかける」

「御意」

「……くれぐれも無理はするなよ」

「肝に銘じておきます」

 主は、自身が下した命令よりも、部下であるメフィの身を気遣っている。

――寛大な御方だ。器の大きさが違う――

 メフィは心の中で深々と一礼してから、報告に移った。

「情報収集の件ですが。小数ではありますがリンガイアの部隊を捕えました。総数一〇〇余名の偵察隊です」

「一〇〇名ほどか、規模からすると少ないな。おそらく複数の斥候を出しているのだろう。その兵士たちはどこに?」

「サウザントノアに収容しております」

「我らの拠点に……か。で、情報は聞き出せたのか?」

「いま三兄弟が尋問にあたっています」

「拷問専門の……たしかサンチョス、ナマクラ、サブ・ローズだったか」

「はい。明日の朝には朗報を届けられるかと」

「それは重畳。話は変わるが、ジョドーに指示書を手渡したか?」

「はい、〈千変万化〉はいたく驚いていた様子。どのような指示を与えたのですか?」

「なに、つまらぬ隠蔽工作だよ。子どもでも考えつきそうな、本当につまらない策だ。いや、そもそも策と呼べるかも疑わしい。強いて言うなら悪戯だな。気になるのか?」

「少し興味を持っただけです」

「ならば説明する必要はないな。下がっていいぞ」

「はっ」

 話の成り行きで、つい返事をしてしまったが、ジョドーは自分たちと別行動なのだろうか? 多面的な攻略を仕掛けているのだろうか? 考えが読めない。

――この御方はなにを画策しているのだろう?――

 そんな疑問がメフィの脳裏によぎる。

 メフィは心のしこりを残しながら、その日は休息の眠りに就いた。


      @


 エリックが最前線に赴任して一月。

 エリックたちとは別の偵察隊が、リンガイアの前線基地を発見した。

 報告によるとベルーガの軍勢が先遣隊の砦に続々と集結しているらしい。

 ベルーガ側も、急ぎ対応にあたる。

 バラックのような砦は急ピッチで増強され、女王イリステアが到着する頃には強固な城に生まれ変わっていた。

 女王自らの親征とあって、兵士の士気は高い。

 王都からの強行軍にもかかわらず、イリステアは兵士たちに手を振って回っている。それが終わると軍議だ。

 生まれ変わった城の一室――広間にあつめられた大貴族や将軍たちは、神妙な面持ちでイリステアが来るのを待っていた。

 ベルーガの中心である女王が広間に入るなり、大貴族や将軍たちは誘蛾灯に群がる羽虫の如くあつまる。

 その光景を目の当たりにして、エリックは不快だった。

 嫌な記憶が甦る。

 上司にゴマを擦る、口先だけの馬鹿営業。そいつに幾度煮え湯を飲まされたことか……。デスマーチ進行中に大幅な仕様変更。欠員を補充することなく、納期延長の要請を却下。最後の最後で、プロジェクトのダブルブッキングをやらかしておいて、責任をとることなく退社。

 最低のクズ。

 そのクズの顔が、広間にいる連中の顔と重なる。

――権力に媚びる無能どもめ、軍議もろくにできないのか――

 エリックの不快は当然で、女王が来ることを知るや、大貴族はもとより将軍たちでさえ口をつぐんだ。軍議らしい軍議はしていない。馴れ合いだけの会話ばかり。あとは女王が采配を振るうだろう、という楽観視。

 権力を持ちながら責務を全うしないクズどもに、エリックは嫌気がさしたのだ。

 そんな連中と一緒にするな、とエリックだけが距離をとっている。

 意外なことに、女王が最初に声をかけたのはエリックだった。

「エリック殿、久しいな。変わりはないか?」

「陛下こそ、お変わりありませんでしたか」

「貴殿はどう思う?」

「まともに当たるのは得策とは思えませんね」

「余も同じ考えだ」

 軽く挨拶を済ませたところで、イリステアは広間にあつまった重鎮たちに問いかける。

「此度の戦、案がある者はいないか?」

 それなりに発言はあった、しかし内容はお粗末なものだ。

「まずは相手の出方を見るべきかと」

「敵戦力を分析する必要がありますな」

「リンガイアの総司令は誰なのでしょう?」

「地形から考えまするに、決戦を挑むような場所ではないかと」

 どいつもこいつも、案にも満たないぼんやりとしたアドバイスを投げかけるだけ。

――そういうのはもう終わってんだよ――

 エリックは心の中で毒づきながら、イリステアに書類を手渡す。メフィたちにしらべさせた情報だ。

 聡明な女王はそれを受け取るなり、さっと眼を走らせた。軽く頷き、書類を懐に仕舞う。

「気に入っていただけましたか?」

「とても魅力的な贈り物だ」

 イリステアはそれだけ言うと、貴族たちの輪へ入っていく。

 用件が済んだので、エリックは自室に戻ることにした。

 部屋の外に出て深呼吸する。草原ならではの清々しい空気に、エリックは幾分か機嫌を良くした。

 砦から城に変わったものの、エリックの待遇は以前のままだ。女王に次ぐ豪華な部屋をあてがわれている。

 貴族たちのやっかみもあったが、女王自らの配慮ということもあって面と向かってエリックに文句を言う者はいなかった。

 女王が権力を握っているのかというと、そうでもないようで。大貴族の大半はいつ国を売ろうかと算段している。そういった者たちが国政のトップなので軍部もなおざりだ。手綱を握る貴族たちにとって扱いやすい者ばかりが軍の要職に就いている。

 戦い以前の問題だ。

「〈影斬士〉いるか」

『そばに』

 優秀な部下の念話を受けると、エリックもそれに切り替えた。

『売国奴を何人か見せしめにしろ。それで臆病者たちは鳴りを潜めるはず』

『目立ちますが、かまいませんか』

『そうだな。さすがに大貴族ばかりが何人も死ぬと怪しまれてしまう。とりあえず、早急に一人始末しよう。売国の旗頭となる人物を一人。それも我々の仕業と悟られぬようにな。それで売国奴どもの動きも鈍るだろう。あとは、そうだな……。小競り合いを起こさせるので、折を見て始末しろ』

『御意』

『それともうひとつ。近々リンガイア陣営で異変が起こる。ジョドーに命じた悪戯だ。しらべる必要はない。それが極めて稀なモンスターであってもな』

『畏まりました。今夜消す貴族の選定を行いますので、私はこれで』

『うむ、任せた』

 部下との念話が終わると、エリックは会議へ魔法の目を飛ばした。

 誰も彼もがイリステアのご機嫌をうかがっている。

――俺がいなくなっても、まだ茶番を続けているのか? 腐りきってるな――

 一向に進まない軍議。意味の無い茶番。方針も指針も打ち出されず、時間だけが虚しく過ぎてゆく。

 指を鳴らし、魔法の目を消滅させた。

 リンガイアの前線基地があるであろう方角へ視線を向ける。

「そろそろ頃合いか」

 遠くの空を眺めながら、エリックはほくそ笑んだ。まるですべてが思い通りに進んでいるかのように。


      @


 イリステアは自室に入るなり、大きく肩を落とした。

 着込んでいる鎧の重さにうんざりしたわけではない。無能を装う貴族たちについてだ。

 脱いだ鎧を椅子に置くと、イリステアは大きく伸びをした。

 本来ならば専属メイドが軍装を解いてくれるのだが、城に来たばかりなので、城内のことをあれこれ聞いているらしい。

 仕事熱心なのもいいが、こちらの面倒も見てほしいものだと心の中で愚痴る。

 メイドに小言のひとつも言ってやりたいが、イリステアもメイドの忙しさを知っている。ぐっと堪えることにした。

 しかし、納得がいかない。

――先に軍議を始めていたはずなのに、なにも案が出ていないとは……――

 大袈裟にため息をつく。苦労を感じさせる息遣い。疲労よりも落胆の色が濃い。

「王都から急ぎ駆けつけたはいいが、現場がこれではな……」

 眉間を指で揉むと、クッションの効いたソファーに身を投げた。

 上質な布地が、心労に苛まれるイリステアを優しく包み込む。天井を見上げれば、内装が完成していない木肌がのぞいた。

 不意に、辺境での記憶が甦る。

――恩人殿にはなんとかして報いてやりたいな――

 恩を返すべき相手に頼ることになろうとは……。

 イリステアの心境は複雑だ。

 ただ通りがかった旅人に、窮地を救ってくれただけでなく、国難のさなか危険な前線にまで赴いてくれたのだ。

 これが貴族であれば、どのような行動をとっていただろう? 恩を盾に法外な褒美を要求し、命の危険の伴う前線に向かうなど口が裂けても言わないだろう。

――あれこそ英雄の器ではないか――

 事実、尊敬すべき点は多い。人間性、カリスマ、実行力、度胸……数え挙げるときりがない。

 自分よりも王らしい仮面の男に、ときおり玉座を丸投げしたい衝動に駆られるのも事実。

 そのような逸材を傘下に収められたことに、イリステアは神の加護を信じて疑わない。

 信仰する精霊神に簡素な祈りを捧げる。

「せめてもの救いはエリック殿の存在か」

 人目の無いいま、命の恩人をおおいに褒めるべきだが、イリステアにそこまでの気力はなかった。せいぜい、数少ない心の支えを胸に刻むよう口にするだけ。

 くしゃり、と懐から書類を出す。

「一〇万を越える兵団……一戦交えるどころか、防戦すら難しいではないか」

 敵国リンガイアの兵力は一〇万。迎え撃つベルーガは四万。戦力差は二倍以上。

 密偵からの報告によると、前線基地にはいまも続々と兵があつまっているという。

「三倍……いやそれ以上と考えておいたほうがいいだろう」

 城に立て籠もり防戦という手もあるが、その間にリンガイアの別働隊が王都を陥落させる恐れがある。

 防戦は許されない。戦うのみ。

 ここは自身の治める国。地の利はベルーガにある。数の不利も、有利な地形におびき寄せれば覆すことができるかもしれない。

 しかし懸念は残る。魔獣騎兵の存在だ。

 凶暴な魔獣の戦闘力は計り知れない。数倍からなる数の不利をたやすく覆す存在は脅威だ。

 各方面からあがってくる情報から読み解くに、魔獣騎兵はそれほど多くない。とはいえ無視することは難しい。魔獣騎兵の影響がどのような形であらわれるのか……。難題は多い。

 まだチャンスはある。

 強大な力を持つ悪魔アモルファス。これに対してリンガイアも対策を練っているだろう。切り札である老悪魔を出しても、それほど大きな戦果は見込めない。

 だが今回は強い味方がいる。エリックだ。かの御仁はアモルファスをも手玉にとった辺境伯を、いとも簡単に葬り去った。アモルファスには及ばないだろうが、それでも相当の遣い手であることに変わりない。

 それに第三勢力の介入――援軍もいる。

 辺境とはいえ、まだ手つかずの魔石鉱山を割譲しただけあって、援軍の規模は大きいと聞く。

 上手くいけば、攻勢に出ることも可能だ。

「援軍が間に合えば良いが」

 一縷の望み――カムラン連邦の援軍に未来を託す。

 しかし、それでさえリンガイアの侵攻を食い止めたことにならない。第二、第三の侵攻が予想される。それらをすべて退けて、やっと平安が得られる。

 果たして、それまで国が持つのだろうか? もしリンガイアが内部勢力の切り崩しにかかったら……。

 軍国は一枚岩では無い。それどころか、いつ瓦解してもおかしくない状況だ。

 かろうじて、国難という追い詰められた現状で力を合わせているだけであって、自領に被害が出ない貴族たちは消極的だ。それどころか国を裏切る動きさえ見える。

 イリステアの悩みは尽きない。

 頼みの綱のアモルファスも、政治の話となると、とたんに口数が少なくなる。

「知恵者でもあるエリック殿ならば、余よりも良い策を思いつくだろう。いっそのことエリック殿を婿に迎えるか? 難しいな、あれほどの美人を二人も従えているのだ、生半な相手では見向きもしないだろう。それに、余の婿というのも煙たがられるかもしれんな。であれば王族の一員はどうだろう? 年下の叔母もいるし、年頃の遠戚も何人かいたはず」

 そこまで口にしておいて、イリステアは踏ん切りがつかなかった。

 迷いがあるのだ。

 欲を言えば婿に迎えたい。国政の手伝いや、心の支えになってもらうわけではない。ただ、一緒にいたいのだ。

「かの御仁のことを考えるだけで、心が騒ぐ。なんと例えればいいのだろう。子どもの頃に体験した胸の高鳴りのような。あれに近しい、心安らぐ不思議な感覚」

 それが恋という感情であることを、彼女は知らない。


        @


 城の者が寝静まった頃。

 エリックは夜空に浮かぶ月を眺めていた。

 革張りのソファーに身を沈め、度数の高い酒を嗜んでいる。

「死ぬにはいい夜だ。そうは思わないかメフィ、ライカ・フウカ」

「ご冗談を!」

「戯れでも、そのようなことは口にしないでください」

 エリックの投げかけた言葉に、部下二人は血相を変えて反論した。そして、エリックを思いとどまらせるかのように、足に抱きつく。

「はやまってはいけません」

「そうです。そのために私たちがいるのですから」

「待て待て、二人とも、なにか勘違いしていないか」

「いかにこの世界の人間どもが、愚かで卑しい存在であっても、それがエリック様にどんな関わりがあるのでしょうか?」

「そうです。エリック様が心を痛めることはありません。このような国は捨て置いて、サウザントノアに帰りましょう」

「やはり勘違いしているな……」

――そういえばAIに、文学的な表現に関しての情報は落とし込んでなかったな――

「いまのは詩的な例えだ。俺は帝国の連中が『死ぬには良い夜だ』と言いたかったのだ」

「へっ」

「なんだ、そうだったんですか。それならそうと言ってくればよろしかったのに」

 間の抜けた顔をするメフィ、安堵するフウカ。

 ちなみに動揺しなかったライカはというと、

「もしエリック様になにかあったら、妹ごと後を追う覚悟でした」

 真面目な口調で、とんでもないことをさらりと言った。

 異常な忠誠心。

――忠誠度を爆上げするんじゃなかった――

 いまさらながらに、エリックは〈編集〉の能力で〈裏切り〉を改竄したことを後悔した。それが己の猜疑心、心細さから来た行為なのでなおさらだ。

「おまえたちを試すようなことをしてすまなかった。俺の落ち度だ、謝る。不快な思いをさせてすまなかった」

「な、なにを仰るのですか、お顔をおあげください」

「そ、そそ、そうです。部下の忠誠心を試すのは主として当然のこと。私たちはこれっぽっちも不快だなんて」

「そうか、それはすまなかった。だが、おまえたちの主であるという自覚が足りなかったのは事実。謝罪は撤回しないぞ。それと、そろそろ放してくれないか。足に抱きつかれていては身動きがとれん」

 言われて気がついたのか、メフィとフウカが、エリックの足から飛ぶように離れた。

「失礼をお許しください」

「ご無礼の段、平にお許しを」

「かまわん。些末なことで腹を立てるほど狭量ではない。しかしながら、部下からそう思われているとは。嘆かわしいことだ。今後はおまえたちの主にふさわしい態度で臨むとしよう。ただし、厳罰を用いない絶対者としてな」

「愚かな部下をお許しください」

「エリック様の心意を汲めぬ非才をお許しください」

 人の言葉をちゃんと聞いているのか、二人はあらためて頭を垂れた。

――こいつら……まあいい、徐々に慣らしていこう――

 エリックは、頭の固い部下にこれ以上の説明は意味がないと知り、話を打ち切った。

 どうせ後に着いてくるだろうと、部屋の隅に移動する。

 予想通り、RPGゲームのキャラよろしく、二人の部下が続く。

 所持しているアイテムをたしかめながら、エリックは部屋の外を覗いた。

 決戦の日が近づき、緊張が張り詰めたベルーガ陣営に不抜けた見張りは一人もいない。当初の先遣隊のような弛んだ気配はなく、殺気混じりの危険な空気が漂っている。

「羊たちが狼の顔になったな。とはいえ、顔つきだけでどうにかなる相手でもあるまい」

 心意気は認める。しかし、それでどうになかるほど世界は甘くはない。それは平和な現代社会にもあてはまる、ただひとつの真理。

――そういえば現実世界にもいたな、こういう顔をしていた人が――

 エリックは、ふと自分のいた世界を思い出した。

 世界的に大流行した病原菌ウィルスのせいで、理想の職に就けなかった同窓の友人はかなり苦労したと聞いている。

 窓の外に見える兵士たちの眼差しは、そのときの友人のそれと似ている。

 苦労し、悩み、耐え忍び、妥協を余儀なくされた人生。

 兵士たちは、いま人生の分岐点に立っているのだ。

 わずかなチャンスを手にするか、泥沼のような絶望に身を沈めるか。

 たとえチャンスを手にしたとしても、それが未来永劫のものとは限らない。死ぬまで足掻き続ける可能性もそれなりにある。茨の道だ。

 イリステアも、それくらいわかっているだろう。

 現状、とてつもない逆境に立たされているのに、挨拶を交わしてきた彼女の顔にはこれっぽちも不幸の色は滲んでいなかった。それどころか希望の光を眼に宿していた。

 国難に直面しても諦めない強い心。揺るぎない信念。それらは眩いばかりの光を放っている。

 エリックにとって羨望に値する資質だ。

 たまたま部下に恵まれていたから良かったものの、立場が逆ならばとうの昔にサウザントノアを見限っていただろう。

 そんな自分の矮小な性格を自覚しているだけに、エリックにはイリステアが眩しく映った。

 庇護すべき宝。

 誰にも話していないが、彼にとって世界に二つと無い存在になりつつある。

「それでは行くとするか」

「どこへ、でございますか?」

「ジョドーの元へだよ」

「?」

「件の悪戯をしに、な。程よく毒を撒いたので下準備は十分。あとは今夜の仕上げだけ……」

 エリックはあえて悪戯の件に触れなかった。ライカ・フウカは納得しているようだが、メフィは物言いたげだ。

 好奇心よりも忠誠心が勝ったようで、訝しげな目をしただけ。

「であれば身代わりを置いていきましょう〈―影映し《シャドーコピー》〉で、我らの身代わりを召喚いたします」

「待て、あれは戦闘において意味を成すモンスターだ。〈―真似るシェイプシフター〉を召喚する」

「お言葉ですが〈真似る者〉では、記憶まで真似ることはできません。エリック様が偽物だとバレてしまうのでは?」

 エリックは、つい『ミストニア』での癖で消費MPの少ない〈真似る者〉を選んでしまった。それというのも、〈真似る者〉の上位種〈―もう一人の自分ドッペルゲンガー〉はプレイスタイルまでもオリジナルを真似るからだ。

 戦闘経験の浅いエリックは、残念なことに戦闘での駆け引きが下手だ。だから自動で戦ってくれる〈真似る者〉を良くつかっていた。

 その癖が出たのだ。

「では〈―もう一人の自分ドッペルゲンガー〉を召喚しよう。これならば記憶から癖まで引き継いでいるので、身代わりだとバレる必要はないだろう。それに俺が不在の間の記憶も転写できる」

「さすがはエリック様。〈もう一人の自分〉がそこまで優秀だとは知りませんでした」

「世辞は良い。それよりも出るぞ、ジョドーが待っている」

「それでどちらに?」

「リンガイアの前線基地へ向かう。そうだな、少し離れた場所まで送ってくれ。魔法で転移するのもいいが、探知されては困る。〈影渡り〉を頼む」

「御意」

 そう言うと、女悪魔は自身の影を広げた。

 影が足下まで広がると、エリックは沈むように影へと落ちていった。

 視界が闇に覆われたのはほんの一瞬。闇が晴れたと思うと、そこは火の粉の舞う森の中だった。

 焦げ臭い匂いとともに、リンガイアの兵の絶叫が響き渡る。

「敵襲だぁー」

「空だ、空から攻めてきてるぞ!」

「敵じゃない、あれは龍だ。あんな巨大な龍、見たことないぞ!」

「邪龍だ! 伝説の邪龍ティアマトだ!」

 朱に染まる前線基地。リンガイアの兵たちは碌に武器も持たず軽装で右往左往している。

 その上空には、漆黒の天蓋があった。

 龍だ。それもとてつもなく大きな。

「狼狽えるなッ、魔導士たちと叩き起こせ、なんでもいい空を飛べるモンスターを召喚させろ、龍の気をそっちへ向ける」

 リンガイアの将官たちは優秀だった。周辺勢力を平らげ、なお版図を広げんと遠征を繰り返している。無能の率いる軍ではない。場数を踏んだ強兵の軍だ。その根幹を支える将官であればなおのこと。

 夜襲、しかも空からの攻撃に即座に対応してみせた。

 その光景にエリックは、感嘆と敬意を払う。

「ほう、総崩れになると思っていたが意外だな。やるじゃないか」

 しかし相手が悪すぎた。

 強大な敵に、リンガイア軍は一方的に圧されている。

「あれがエリック様の思いついた悪戯……」

 女悪魔と二口女の姉妹が、空を見上げている。

「そうだ。実に楽しい悪戯だろう?」

「疫病に夜襲。それも巨大な龍の夜襲。人間どもはさぞかし度肝を抜かれたことでしょう」

混沌龍カオスドラゴン。サウザントノアのモンスターを出したのですか?」

 冷静に分析する女悪魔と、二口女の同体姉妹。

「混沌龍ではない。混沌龍に化けたジョドーだ。アレに化けた狙いは呪いのブレス。物理防御無効の攻撃は建物の中であろうと焼き尽くす」

 未実装のモンスターゆえのバグだ。エリックはそれを利用して、敵を炙り出すつもりなのだ。

「さすがにジョドーでも一〇万の軍勢は荷が重いだろう。ここは援軍を出すとしよう。我が呼びかけに応じよ、ジャバウォック。〈召喚サモン〉」

 数多の魔方陣があたりを埋め尽くす。

――んんッ! 一度の召喚でここまで出せたっけ? たしか召喚数の上限は一〇くらいだったはず……――

 驚くエリックを無視して、魔方陣はなおも増え続ける。

 その数一〇〇。

――嘘だろう、おい!――

 齧歯類のような前歯を持つ龍たちが、エリックを見つめている。命令を待っているようだ。

「森へ逃げ込む者を皆殺しにしろ」

 召喚されたジャバウォックたちは聞いたことのない鳴き声で叫ぶと、するすると滑るように暗闇へと散っていった。

「伏兵ですか。目障りな連中を一網打尽にするのですね」

「少しちがうな。投降兵、非戦闘員は無傷で捕虜にしろ。それと指揮官とおぼしき者たちを数名、こちらは生きていればいい。それ以外は殲滅だ。一人も生きて帰すな」

「御意」

「承知」

 短い返事を口にするなり、部下二人の姿が掻き消えた。

 やや遅れて、部下が召喚したであろう眷属たちの気配が辺りに満ちる。

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