第8話


 偵察を終えてから、十日ほどはリンガイア帝国も静かだった。

 しかし、いつの間にか前線基地を構築し、かなりの数の兵があつまってきている。

 どうやら先遣隊の壊滅は、開戦の引き金になったようだ。

 軍国も黙って指を咥えているほど馬鹿ではない。女王自ら陣頭に立ち、親征の軍を従えている。はやくも決戦の構えだ。

 軍国の首脳陣はというと、連日、会議室で議論している。

 その割に結果が出ない。

 一致団結すべき事態を前にして、女王についてきた貴族たちは煮え切らない。いまだ決戦と講和で言い争っている。

 そうしている間にも、リンガイアは着々と戦力を増してゆき、いまでは一〇万を越える大所帯だ。それに情報にはなかった魔獣騎兵の姿もちらほら。

――動きが速いな。こちらもそろそろ手を打つか――

 戦力差は歴然。エリックが手を貸さねば軍国は衰退の一途たどる。しかし表だって力をつかっては目立ってしまう。この間のようにこっそりと始末したいところだが、ここまで事が大きくなってしまってはそれも難しい。

――であれば、奇策か……――

 これが歴史SLGなら大逆転のイベントを期待できるのだが……。

 積み重ねた記憶を基に、色々考えてはみるが、これといった打開策は思い浮かばなかった。

――どうすれば――

「どうなさるおつもりですか?」

 側に控えていたメフィが、耳元で囁く。

 耳にあたる吐息に、エリックは身震いした。形容ならざる衝動が、ぞくりと背筋を駆け上る。甘美な響き、まさに男を魅了する魔性の者。

「いかがなされました?」

 配下の女悪魔は訝しげに眉をひそめる。

 先の吐息が意図的でないとすれば、悪魔の所業だ。

「〈影斬士〉、おまえならどのように帝国を追い払う。我らの存在を知られることなく、という条件があるが」

「そうですね――」

 女悪魔は片腕を抱き、絵になるポーズで考え込む。眼鏡の位置を直すこと数回。

 優秀な部下は、素晴らしい解答を示した。

「飲み水に毒を仕込むというのはどうでしょうか?」

「毒……いい案だが、戦争のルールとしてはどうだろうか。軍国の名声を落とすようなことになれば今後の活動に支障が出る。もっとこう疑われることのない自然な……」

 そこでエリックは思いついた。病原菌をまき散らせばいい。幸い、妖怪を召喚できるライカ・フウカがいる。

 以津真天(いつまで)を召喚し、疫病を発生させれば、帝国は戦争どころではない。

 たしか、三国志でも赤壁の戦いには疫病が絡んでいたみたいな裏話があったはずだ。

――よし、それで行こう!――

 打開策を見いだし、幾分か心に余裕のできたエリックは、王者たるべき威厳を纏い直した。

「メフィ、いい策が浮かんだか?」

「いえ。火計や水計も考えましたが、地形が適していません。離間工作も考えましたが、時間がかかります。将校を何人か始末して、影に入れ替わらせるという策もありますが、かなりの影をリンガイアの帝都へ送り込んでいますので、これ以上は……」

――その手があったか! 迂闊だった。こんなことなら影を温存しておけばよかった――

 後悔するも後の祭り。撤収させる手もあるが、リンガイアの情報も必要だ。

「で、あれば疫病を流行らせる」

「疫病! それは盲点でした! ひ弱な人族であれば事は足ります。さすがはエリック様、目立つことなく、敵に大打撃を与える。私のような凡庸な悪魔には思いもつかぬ発想です」

 メフィは胸の前で指を組み、尊敬の眼差しをエリックに向ける。

 エリックは、MAXの忠誠度がさらに上がった気がした。

 悲しいかな、現代人。ここで終わらせればいいものを、社会人として染みついた保身術を発動してしまう。

「褒めてくれるのは嬉しいが、所詮は病。どこまで効果を発揮するかは運次第だがな」

「そんな、ご謙遜を」

 気のせいか、さらに忠誠度があがった気がした。

「ライカ・フウカに伝えよ。以津真天を召喚しリンガイア陣営に病を振りまけ、と」

 サウザントノアの主として恥ずかしくない一幕だったが、異様に眼を輝かせる女悪魔に、エリックは一抹の不安を覚えた。


      @


 リンガイア帝国の前線基地より風上。

 林の中に、メフィとライカ・フウカはいた。

 前髪で右目を隠していることから主人格がフウカだとわかる。髪型はよく見る二つ折り。元々長い髪なので二つに折っても肩甲骨を隠すほどの長さだ。フウカは左目にかかった髪を指で払い除ける。

 腰から吊るした紙束から、いくつか紙をちぎり取ると、ふぅっと吹き飛ばした。

「東方の闇より来たれ。我が眷属、以津真天」

 呪願を唱えると、紙は瞬く間に燃えた。

 火の粉とともに灰が舞い落ちるなか、大型の鳥のようなモンスターがあらわれる。

「……お呼びで」

「風下に、我らに仇成す輩がいる。その力、存分に発揮せよ」

「承知」

 大きく羽ばたくと、以津真天は舞い上がり、滑るように森の奥へと消えていった。その跡には、軌跡を描くように瘴気の残滓が漂っている。

 林の奥へ目をやれば、木々が根を張る大地を、うっすらと瘴気が堆積していた。

「以津真天を向かわせました。のちほど病にかかった墓所ネズミを敵陣へ向かわせます。疫病が蔓延するまで五日とかからないでしょう」

 同体姉妹の妹――フウカは勝ち誇ったかのよう説明する。

 対するメフィは、どこか不機嫌だ。同僚は手柄を取られたことに不服らしい。

『あらあら、あの女悪魔にしちゃあ珍しい。それほど私たちが手柄を立てたのが気にくわないのかねぇ』

 ライカが念話で語りかけてくる。皮肉の混じったそれに、フウカはうんざりしたように肩を竦めた。

 そんな彼女をメフィは訝しむように見つめる。

「〈疾風迅雷〉なにか気になることでも? まさかとは思いますが、エリック様の策に不備があったとか?」

「滅相もない。エリック様は、カイハツとウンエイの頂点に立つ御方、間違いなどありません。非才が気になったのは、五日で大丈夫なのか、と」

「そうですね。もしかするとエリック様はもっとはやくに疫病が蔓延することを想定しているかもしれませんね。少ないですが、私の影も出しましょう」

「かたじけない」

「きっとエリック様は二人で協力せよと意味を込めて、我々を出したのでしょう。危うく、意図を取り違えるところでした」

 うまく切り抜けたが、姉のせいでよからぬ疑念を抱かれかけた。二心同体の姉妹というのもなかなかに不便だ。

『狡猾なんだか、馬鹿なんだか。判断に悩むわね、この女悪魔』

『なにもそこまで言わなくても、彼女は仲間なのよ』

『そうは言うけどね。フウカ、あんなのがエリック様の重鎮だなんて納得できる? 魔法も戦闘も中途半端。なにが「特技は暗殺と暗躍」よ。単に逃げ足が速いだけじゃない』

『姉さん!』

『ああー、わかったわよ。仲良くすればいいんでしょう、仲良く』

『…………』

 問題だ。忠義を尽くすべき主に隠れて同僚同士で足の引っ張り合いをしている現状に、フウカは不安を覚える。

――水面下で起こっているこの闘争を、あの御方は知っているのだろうか?――

 これは主の問題なのだから、配下風情が口を挟むべきではない。思考を放棄し、与えられた命令に向き合う。

「墓所ネズミだけでは不安なので追加しましょう」

 フウカは胸の谷間に二指をつっこみ、呪符を数枚引っぱり出す。それを眼前にかざすと、

「我が求めに応じよ、夜雀。御方のため、病の風を送れ!」

 ふう、と呪符を吹き飛ばす。

 空を踊る呪符が、またたくまに雀の姿に変化した。

 雀たちは主の命令に、チチチッと短く答え、空へと羽ばたく。

 式神たちを見送ると、フウカは同僚を見やった。

「三日……いや二日もあれば問題ないでしょう」

「そうですね」

 仕事が一段落したところで、唐突に後頭部の口――ライカが口を開く。

「ところで〈影斬士〉。エリック様はどのような御方だった?」

「どのような、と聞かれても返答に困ります。別段、普段と変わったところはありませんし」

 女悪魔は言葉を濁す。

 まわりくどい女悪魔に、ライカは苛立ちをみせる。

「そういう意味じゃなくてだねぇ……。ま、いいか。エリック様は滅多にサウザントノアに姿をお見せにならない御方だから気になるのさ。強いて言うなら興味がある、ってとこかねぇ」

「気にはなりますが、臣下として主のプライベートに触れるのはどうかと」

「誰がプライベートって言ったんだい。もしかして、エリック様のプライベートに興味があるとか? あんたも好きだねぇ」

「し、失敬な。なんでそういう話になるんですかッ!」

 姉の暴走に嫌気が差したものの、フウカは事の成り行きが気になって仕方がない。女悪魔の口から、主のどのような情報が飛び出てくるのか。

 うまいやり方ではないが、姉の暴走を黙認することにした。

「おや? じゃあエリック様のプライベートにまったく、これっぽっちも興味がないと? こりゃまた淡白だねぇ」

「そりゃ、まあ、私も女ですから。まったく興味がないわけではありません。ですが君臣のけじめは――」

「そうやって自分に嘘をつくのはよくないねぇ。ああ、実によくない。健康にも美貌にも」

「からかうのはやめてください。いまは任務の最中ですよ」

「そうだったね。でも、いいのかい?」

「な、なにがですか?」

「生意気な小娘――スルシャナもエリック様を狙ってるよ」

「…………」

「スゥは子どもだからライバルにはならないだろうけど。あの小娘はどうだろうね。エリック様との位置も近そうだし」

「そ、そのようなことは」

「そうかねぇ。エリック様が言うには、リャニャンシーは淫夢と吸血鬼のハーフみたいな存在だって。幻術や魅了の魔法も得意だし、もしかしたらが起こりうるかもしれないよ」

「だとしても、エリック様のプライベートとどう関係があるのですか」

「大ありさ。恋は戦争。情報は多い方が有利に事を進められる。これだけ言えば、察しがつくだろう」

「……わかります。ですが、我々臣下がそのようなことしても良いのでしょうか」

「駄目な理由があるっていうのかい?」

「…………」

「いいのかい、あんな小娘に先を越されても」

「待ってください。情報の共有化、というのであればやぶさかではありません」

「だったら、私らで情報共有をしよう。先に言っておくけど、裏切りは無しだからね」

 悪魔よりも狡猾な姉のおかげで、姉妹の知らぬエリックの一面を垣間見る。

 端的に言うと、謎だ。

 ミストニアの外がどうなっているかわからない状態で、自ら調査に赴くという軽率な行為。しかし、たった数日で天狼族と友誼を結び、軍国のしかも女王と信頼関係を築いた。

 運が良かった。その一言で済ませるには、あまりにも不自然だ。

――すべてを予想していた? いや、まさか――

 ありえない。

 駒の入り乱れる盤面を見ずして、将棋を指すようなものだ。まさに鬼才、神算鬼謀の策士。そのような御方が、フウカたちのいまの行動を予測していないと断言できるだろうか? 否、おそらく見通しているのだろう。そのうえで黙っているのだ。

 だとしたら、なぜ不仲な臣下たちに手を取り合うよう命令を下さないのだろうか?

――もしかして試されているのでは――

 とたんにフウカの背筋に冷たいものが走った。

『姉さん、あまりエリック様の気を煩わすようなことはしないほうがいいんじゃない……かな』

『……そうね。アタシもそう考えていたところよ』

『もしかしてだけど、私たちエリック様に……』

『しっ、それ以上は考えては駄目。おそらく……いや、間違いなく、私たちが気づくことまで予想されていたんじゃないかしら。だとしたら、こそこそ嗅ぎ回るのは得策じゃないわ』

『そうね。ここは静観しましょう』

 フウカはほっと胸をなで下ろす。思慮深い姉で良かった、と。

「情報共有も終わったようですし、そろそろ移動しませんか?」

 フウカは、話を断ち切るように口を挟んだ。

 メフィも、いつもの冷徹怜悧な眼に戻っている。つけいる隙のない悪魔の眼だ。

 任務に意識を向けているのだろう。うまくはぐらかせてほっとする。

 欲を言うと、もっとエリック様の情報をあつめたかったが、当分は自粛しよう。裏切り行為と受け取られかねない。本末転倒な愚行だ。

 そんなことに精を出すよりも、有能である証明――実績を示さねば。そうすればいずれ機会も巡ってくるはず。焦れったいが手堅く行こう。

 フウカたちは任務に戻った。

 リンガイアが放っている偵察隊の動向を探る。

 メフィは影の情報をもとに、有益な情報を持っていそうな士官を選別している。

「いくつか貴族の子弟らしい者が組み込まれている隊を発見しました。捕まえるのはどれにしましょう?」

 女悪魔は神妙な面持ちで、人さし指を躍らせている。

「単純に考えるのならば、より上の階級に属する貴族の子弟ですけど。情報を持っているかどうか……」

「そうですね。であれば敵本陣に赴いて司令官を攫いますか?」

「それは目立ちすぎるんじゃないでしょうか。エリック様の計画に狂いが生じるかもしれません。やめておきましょう」

「では、それらしき貴族の子弟を攫いましょう。ついでに余った人間もモンスターたちへの土産に持ち帰りましょう。男ばかりで繁殖はできないでしょうが足しにはなるでしょう」

「それは名案ですね」

 ミストニアでも人間種はポップする。定期的にポップするのか、条件を満たせばポップするのか、現在のところ不明である。

 ポップしたならず者や野盗を確保しているが、恒久的にモンスターへ供給できる目処はたっていない。そんなわけで、人間種を糧とするモンスターにとって早急に解決すべき問題になりつつある。

 メフィは、ポンと手を叩き、名案が浮かんだとばかりに胸を張る。シャツに押しつけられているとはいえ、女のそれは盛大に踊った。

 同じ女性として、ライバル視せざるを得ない実り。男装で目立たないものの、溢れる女性の魅力にフウカは嫉妬した。

 考えがまとまったのだろう。女悪魔は嬉しそうに、

「どうせ戦うのであれば、リンガイアの村や集落を滅ぼしておきましょう。番をあつめれば飼育も可能になります」

「名案ですが、それはエリック様の指示にない行動では? 命令違反と受け取られるのではないでしょうか?」

「ほんのわずかな時間です。支障は出ません」

「もし、エリック様が我々の動向を見てたら?」

「…………」

 メフィは、すっと眼を細めた。

「……その可能性もありますね。私としたことが、のぼせ上がっていたようです」

 言いながら、同僚の女悪魔は不機嫌そうに唇を波打たせた。

 フウカの言葉に気を悪くしたのではない。明らかに主の心象を気にしている。

 危うく任務から外れた行動をとられるところだった。そんなことになれば同行したフウカも咎められる可能性が出てくる、同僚のつまらぬ虚栄心のために巻き添えを食らうのはごめんだ。

 フウカは安堵のため息をつくと、先を行く同僚のあとに続いた。


      @


 ジョン・ラックランド・タジネットは下級貴族の次男坊だった。

 それがいまや帝国士官として、一隊を預かっている。

 傷ひとつ無い鎧を纏った騎兵。訓練の行き届いた兵たちは、号令一つで素早く動く。精兵だ。

 これほどの兵を率いているのだから、さぞかし立派な隊長だと誰もが思うだろう。しかし現実は残酷だ。

「幸運の風は俺に吹いている。馬鹿な兄貴たちみたいに田舎の貴族で終わる気はない。成り上がってみせるぞ。大貴族になって、権力を握って、そして誰もが羨む美女を娶る」

 ジョンは、願望を胸の裡に秘めるような人間ではない。誰憚ること無く洩らす欲望は愚者のそれに酷似している。

 優れた兵の上に立つのは経験も教養も才能も無い、蒙昧無知な小物。貴族社会では、次男は跡継ぎの予備として、最低限の教養と作法を教え込む。しかし、ジョンはそれらを一切受け付けず、兄の死を望んでやまない。

 そのせいで、三男坊の末弟に跡継ぎの予備の座を奪われた。

 本来であれば、兄の率いる領民のまとめ役がせいぜいだ。いや、それすらも難しい。それが、どうしてこのような地位に就けたのか……。


 三ヶ月ほど時を遡る。


 タジネット家に、皇帝の使者が訪問した。

 次期領主の審査をすべくあらわれたのだ。

 帝国において領主襲名は各家で執り行われる神聖な行事だった。それが二代前の皇帝の出したお触れ――富国政策で嫡男世襲の風潮は消えた。実力主義、兄弟の上下にかかわらず優秀な者を当主に据えることになっている。これ以外にも政策をいくつか打ち出したが、この富国政策が帝国の版図を広めた要因と言われている。

 二代に渡って治世が続いたおかげで、国庫は唸るほどの財が積まれ、穀物は倉に収まりきらいないほどだ。

 富国政策と相まって治世が続いたおかげで、貴族たちの間に信仰めいた行事として定着した。そのため審査の使者には優秀であることを示さねばならない習慣が根付いていた。

「タジネット家の党首候補は三名でしたね」

 淡々とした事務的口調で、使者が尋ねた。タジネット家の現当主ヘンリーは首肯し、兄弟を上から順に紹介する。

「こちらが長子のアーサー、次にジョン、最後にジェフリー」

「よろしい、それでは審査をはじめます。私の質問にお答えください」

 こうして審査がはじまり、当たり障りのない質問が続いた。

 兄と弟は帝室発行図書にかかれている模範解答を口にしたが、ジョンだけが間違いばかりを解答した。

「不作のあった年はどうするか?」という問いかけに「税率を上げる」。「近隣領主が野盗に襲われた際には」という問いかけに「野盗に紛れて作物を奪う」など、およそ常識を持ち合わせていないことが丸わかりの解答。

 兄と弟は失笑を堪えるのに必死だった。父にいたっては、度し難い馬鹿発言に眼を覆っている。

 使者は、最後に重要な質問だと前置きして、

「君たちにこの国を担う覚悟はあるか? 戦で他国の民を躊躇うことなく殺せるか? 仮に血族が敵国に寝返ったとして、それを殺す覚悟はあるか? 行動をもって示してくれ」

 使者は、テーブルの上に紙とペンと滑らす。

 紙には、先ほど使者が口にした内容が記されていた。長男のアーサーがペンをとり、サインを書こうとした瞬間、それは起こった。

「がっ! ……な、に……を」

 どこに隠し持っていたのか、ジョンが短剣で兄を刺したのだ。ジョンはいたって普通といった感じで、兄の首筋に突き立てた短剣を引き抜く。

「ジョン、おまえなんてことしてくれたんだッ! 使者殿の前だぞ!」

「兄さん、なんてことをッ!」

 激怒する父、驚き狼狽える弟。

 ジョンは悪びれることなく、弟も刺した。

「な、んで…………」

「馬鹿な兄貴と弟だ。使者殿は行動をもって示せと言ったんだぞ。サインしろなんて一言も言ってない」

「この大馬鹿者ッ! 行動とはサインのことだ。そんなこともわからんのかッ!」

 父が血走った眼で怒鳴り散らす。

 肝心の使者はというと、テーブルに座ったままで固く組んだ指を口元に当てている。険しい表情だ。しかし凶行を止めようとはしない。それどころか、

「まだ父親が残っているぞ」

 と焚きつける。

 ジョンは答える代わりに、短剣を父めがけて投げつけた。ジョンは馬鹿ではあるが軟弱者ではない。人より秀でた膂力から放たれた短剣は、父の胸板を貫いた。

「ぐおぉぉッ! なんたる……ことだ。ワシの代で……タジネット家が絶えるとは」

「父上、タジネット家は絶えません。それどころか栄光の時代を迎えるでしょう。俺が導いてみせます」

 そう言うと、ジョンは暖炉に立てかけてある火かき棒を手にとった。

 大きく振りかぶる。

「だから安心して逝ってください」

 こうしてジョンは領主になった。

 ちなみに使者はいたってまともで、現皇帝のお気に入りの官僚でもある。そう皇帝が変わり者だったのだ。それも常軌を逸した……。

 辺鄙な田舎――下級貴族であるタジネット家に、変わり者の皇帝の噂は届いていなかった。

 それがタジネット家の明暗をわけた。

 二代に渡る名君の治世。そんな順風満帆な帝国にも変化が起こった。現皇帝リンガイア七世の即位だ。

 帝位に就くまでは、三代に渡る名君の出現と世間を大きく賑わせた。

 しかし帝位に就くや、凶暴な本性をあらわす。

 その凶悪な本性とは戦争狂。

 そう、かの皇帝は血を見るのが好きなのだ。それも一人や二人でなく、おびただしい数の。

 当時の宰相○○を筆頭に、大臣諸侯はこの危険な君主を玉座から引きずり下ろそうと試みた。しかし狂っているとはいえ、名君の器と評された英才。名君の時代が続いたせいもあって、陰謀に長けた臣下はごく一握り。とはいえ、富国政策で国政を司る官僚たちはどれも優秀。

 宰相は檄文を各地に送り、反皇帝の造反に乗り出す。

 選りすぐりの宰相勢力が優勢だと思われたが、キリルはその上を行っていた。

 帝位に就く前から、臣下の造反を予期していたのだ。宰相たちが事に及ぶ前に、見事にそれを鎮圧した。

 のちに狂帝と呼ばれるキリルの圧勝で幕を閉じたのである。

 そんな狂帝の時代、求められるのは優秀な臣下ではなく、従順な臣下だ。失っても惜しくなく、かつ操りやすい手駒。ジョンのような愚者は願ってもない。

 だが、それだけで領主の地位を継げるかというと、そうでもない。

 ある明確な基準があった。

 争いに積極的か、そうでないかの違いが。

 その点については、ジョンは実に狂帝好みだった。だからこそ、下級貴族の二男坊に一隊が与えられたのだ。


 話はに戻る。

 狂帝の戯れで、ジョンは偵察隊の隊長になった。

 野望に塗れた愚か者は、初の任務に大張り切りだ。

「ここは敵国だ。ベルーガの犬がいたら捕まえろ」

「……ジョン隊長、我々の任務は偵察では?」

「馬鹿者め、だから捕まえるのだ。情報を吐かせるなり、魔獣騎兵の餌にするなり、使い道があるだろう」

「そのような指示は出ていません」

「臆病者めッ!」

 部下を叱責するなりジョンは腰に差した短剣を抜いた。躊躇うことなく部下へ飛びかかる。兄を殺したように首筋に短剣を突き立てた。

「ぐあぁッ!」

「臆病者は帝国に要らん。陛下が望んでいるのは俺のような勇敢な忠臣だ。わかったな」

 一瞬のことなので、兵士の同僚はジョンを制止することができなかった。

「はっ」

 まばらに兵士の声が響く。木々のざわめきのようなそれにジョンは顔をしかめた。上官の凶行に驚いている兵士が、ジョンには弛んでいるようにしか映らない。

「チッ」

 貴族らしからぬ下品な舌打ちをすると、行軍を再開させた。

 しばらく進むと、また兵士が報告にやってきた。

「今度はなんだ」

「冒険者らしき者が二名、隊長に話があると」

「俺は捕えろと命令したはずだが……」

「どちらも女です。顔立ちからすると貴族だと思われます。おそらく亡命者でしょう、自分のような者が判断するよりも、隊長のような貴族のお方にうかがうべきかと思いまして、はい」

 上官の性格を知っているようで、兵士は揉み手でおだてる。

「若いのか?」

「どちらも二十代だと思われます。かなりの美人です」

 美人と聞いて、ジョンの鼻の下が伸びる。

「そうだな、俺が直々に取り調べよう。案内しろ」

「はっ」

 下心丸出しの弛んだ顔で、ジョンは馬を進めた。

 偵察隊の隊長にしては軽率な行動だ。こういう場合はまず部下に呼ばせるのだが、そういった教育を受けていないジョンは自ら出向いていった。

 鼻先にニンジンをぶら下げられた馬のように、マヌケ面で馬に鞭打つ。

 まるで真っ昼間から娼館へ通う恥知らずの女好きのようだ。もっとも娼館へ通うような財力を持つ貴族であれば、多少は世間体を気にするのだが、下級貴族のジョンにそこまで考える思慮深さはない。

 そんな上官に部下たちは辟易しているようで、批判代わりに唾を吐いている。

 馬鹿にされているとは知らないジョンは、首を突き出し、先行く部下を追う。

 ほどなくして女性二人を待たせている場所に到着した。

「ほほう」

 二人を見たジョンは、まるでこの世の楽園を間のあたりにしたように呆けた顔をした。

 二人を囲む兵士たちも、ジョンまでとはいかないものの訓練で見せたことのないだらしない顔を晒している。

 無理もない。冒険者とおぼしき女二人組は、かなりの上玉だ。

 一人は執事服のような出で立ちで丸眼鏡をかけた、理知的な面立ちの女だ。男装しているようだが、高めの位置で結ったポニーテールと隠しようのない胸の膨らみで、たやすく女だと見抜ける。

 もう一人は、異国風の服装をしたサムライに化けている。長すぎる髪を二つに折って、強引にマゲに仕立て上げている。女であることを隠そうとしているのか、前髪で右目を隠している。胸の膨らみにいたってはお粗末な隠蔽だ。わずかに開いた胸元から谷間が丸見え。

 どちらも下手な男装。兵士が貴族の令嬢だと報告したのは当然に思えた。

――どちらも上玉だな。帝都ですらこれほどの美人はいないぞ――

 ジョンは生唾を飲んだ。

 どちらも自分のモノにしたい。二人の美人を妻に迎えた未来を思い描く。欲望が加速し、妄想が肥大する。

「如何しましょう?」

 部下の一言で、夢のような世界から一瞬で現実に引き戻される。

 不快の感情が、ジョンの顔にへばりつく。

 部下は一瞬、しまったと眼を逸らした。一拍にも満たぬ間をおいて、早口で切り出す。

「総司令への報告です。入手した情報はすべてあげるように厳命されていますので……」

「おまえたちが報告するのか?」

「いえ、ジョン隊長です。報告書はのちほどですが、伝令を出すかどうかの判断を仰ぎたく……。もちろん、隊長がそれほどのことではないと仰るのであれば、事後報告でよろしいかと」

「……報告か」

 ジョンはどのようにして上官の眼を眩ますか思案した。

 部下の言うように報告は厳命されている。疎かにしていた馬鹿貴族が斬刑に処せられたのは記憶に新しい。

 女二人を隠すことも考えたが、これほどの美人だと隠し通すのは至難の業。それに、嫉妬した部下が、美女ほしさに密告するかも知れない。その可能性はおおいにある。

 勿体ない気もするが、ここは総司令に片方を献上し残りをいただくことにしよう。そうすれば総司令の覚えも良いはず。それに献上した女の価値に見合う、見返りも期待できる。

――となれば品定めだな。本音を言えば味見をしたいところだが、傷物は価値が下がる――

 そう割り切ると、ジョンは馬を下りて女たちへと近づいた。

「リンガイア帝国、三〇一偵察隊を預かっているジョンだ。戦時ゆえ、身元を改めさせてもらう」

「あなたがこの隊を指揮しているのですか?」

 サムライ風の女が口を開いた。

「そうだ。総勢一〇〇名の中隊だ」

「それにしては数がすくないですね」

「偵察の任務を帯びているので、そちらに人員を割いている」

「さようでございますか」

 サムライ女は、ほっとしたように胸元に手をやる。

――俺が来ただけでこの怯えよう。部下の言うとおり貴族の娘だな。それも世間知らずの。ツイているぞ! 俺が一番乗りだ!――

「見たところ女性二人の旅の様子。ここはもうじき戦場になる。我らの保護下に入られては如何かな?」

「有り難い申し出ですが、それはできません」

「ほう、ご自身の置かれている立場を理解していないと見受ける。おまえたちこの者たちを連行――」

 連行しろと言い切る前に、女が動いた。

 サムライ女が腰を落としたかと思うと、次の瞬間、姿が掻き消えた。

 ほぼ同時に、ジョンの周囲から悲鳴が湧く。

「うおっ」

「ぐっ」

「ぐわっ」

 振り返れば、訓練を受けた兵士たちが倒れている。それも数十人。不思議と血は流れていない。

――こいつらなんで倒れてるんだ?――

 突然のことに、ジョンは混乱した。

 サムライ女の姿を探す。

 女は遥か遠くを走っており、通ったとおぼしき跡には兵士たちが地に伏せていた。ここにきて、ジョンはやっと気がついた。サムライ女が兵を倒したのだと。

――ありえない。英雄? 悪魔? それとも伝承に出てくる神の御遣い?――

 さらなる混乱。立ち尽くすジョン。

 しかし、時間は待ってくれない。

 連れの執事服の女が、悠然とジョンに歩み寄ってくる。

「フウカ、殺さないように注意してください」

「承知!」

 ジョンはどちらへ眼を向けるべきか、迷った。

 本能が執事服の女へ注意を向けるよう促す。腰に差した立派な剣よりも、使い慣れた短剣を抜く。

「ち、近づくな! それ以上、近づいたら容赦しないぞ」

「なにを、どう、容赦しないのですか」

 執事服の女は、妖艶に微笑む。

 このような状況におかれても、ジョンは妄想に囚われていた。

――この女、そそるな。総司令に献上するのはあのサムライ女にしよう――

「打開策が浮かばないようですね。では、そろそろ幕を下ろしましょう」

 執事女が、くいっと指を上げる。

 それと同時に、地面から闇が噴きだした。

「悪いようにはしない。俺の女に――」

 すべてを言い切る前に、ジョンの視界は黒く塗りつぶされた。


 こうしてジョン率いる偵察隊は地上から消えた。

 さして期待されていなかったジョンは、偵察隊の死体が発見されないことから敵前逃亡と処理された。

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