第三話 エレオスの留学①

 公暦八年の夏。ノエインは屋敷の前で、十歳の嫡男エレオスと向き合っていた。


「それじゃあ、エレオス。心の準備はいいかい?」


「はい、父上。父上よりいただいたこの機会を大切にして、リヒトハーゲンで多くを学んでまいります」


 父の問いかけに、エレオスはそう答える。我が子の堂々とした姿に、ノエインは満足げに頷く。


 ノエインの隣に立っていたクラーラが、エレオスに歩み寄り、彼を抱き締める。


「たくさんお勉強していらっしゃい。そして、身体に気をつけて、元気に過ごすのよ。愛しているわ」


「ありがとうございます、母上。僕も母上を愛しています」


 少し恥ずかしそうに苦笑しながら母を抱き締め返したエレオスは、そのままマチルダとも、妹のフィリアとも抱き合う。フィリアが泣きながらエレオスを離したがらなかったので、マチルダが微苦笑して彼女を抱きかかえ、ノエインの隣に下がった。


 これからエレオスは、ロードベルク王国の王都リヒトハーゲンに留学するために出発する。この大陸南部ではおそらく最も高度な教育を受けられる場である王立高等学校に入り、数年間学ぶ。


 学校が休みとなる冬には長期休暇をとって帰宅するが、それ以外、一年の大半は家族と会えない。そんな生活がこれから数年、続くことになる。


 一国の君主の嫡男が留学するとなれば、当然一人ではない。同世代の臣下たちが従者として随行する。側近としてユーリとマイの息子であるヤコフが、他にもペンスとロゼッタの息子ニコライと、ラドレーとジーナの娘サーシャ、バートとミシェルの娘アマンダ、エドガーとアンナの息子テオドールが、エレオスに付き従いながら高等学校で共に学ぶ。


 出発の準備を終えた馬車の前では、彼らもそれぞれの両親と挨拶を交わし、別れを惜しんでいた。


 そしていよいよ、出発のときが来る。


「僕の大切なエレオス。行ってらっしゃい」


「行ってきます、父上」


 最後にノエインと抱擁を交わし、エレオスはアールクヴィスト大公家の馬車に乗り込んだ。


 随行する子供たちが続き、馬車の扉が閉まる。御者のヘンリクが手綱を振るうと、馬車はゆっくりと動き出す。


 護衛部隊に囲まれた馬車が、だんだんと遠ざかっていく。


「……行ってしまいましたね」


「エレオスたちにとっては楽しい留学になるだろうけど、親としてはやっぱり寂しいね」


 我が子としばらくの間離れて暮らすのはもちろん、他国の王都に留学するほど我が子が大きくなり、自分の手そのものを離れ始めたことも。そう思いながらノエインが言うと、クラーラは頷いて同意を示しながら、目元の涙をそっと拭った。


 ノエインたちが話す横では、同じく我が子を見送った臣下たちもそれぞれ寂しさを顔に滲ませている。


「ああ、本当に寂しくなるわぁ」


「だけど、こんなに寂しいのはきっと私たちだけですね」


 ぐすぐすと泣きながら呟くジーナに、ミシェルが涙を零しながらも苦笑して言う。


「ええ、まったく。本人たちは楽しみなばかりでしょうね」


「まったく、親の心も知らないで~」


 マイも笑いながら語り、その隣ではロゼッタが頬を膨らませながら言った。


「うちの息子はもう成人の歳だから大丈夫だろうが、お前はやっぱり心配だろう。大事な娘を異国の大都市に送るとなれば」


「へっ、どっちかというと、あいつがロードベルク王国貴族の子息あたりと喧嘩して怪我でもさせねえかの方が心配ですよ」


 ユーリの問いかけに、ラドレーが鼻を鳴らしながら答える。彼とジーナの娘サーシャは、「将来は父上の後を継いで武門の従士になる」と宣言するほど勝ち気な性格で知られている。


「本当にやばいのはバートの方です。王都まで同行するから今はまだいいですが、いよいよアマンダと離れるとなったら大泣きしますよ、あいつ」


「確かにな。何せアマンダは父親に似たあの才能だ。一番我が子を心配してるのがバートかもしれないな」


 アマンダは父バートの才能を継いで周囲から好かれやすい人柄をしており、過去には彼女を巡ってニコライをはじめ数人の男子が決闘の真似事をしたこともある。


 数年後に彼女が留学を終えて帰ってくるとき、王都から婿を連れてくるのではないかと、バートが本気で心配していたのをユーリは思い出す。


「……まあ、何かと心配ではあるが、あれでも大公国の要人の子女たちだ。オスカー陛下もアルノルド様もいらっしゃることだし、何とかなるだろう」


 いよいよ見えなくなった馬車の方を眺めながら、ユーリは呟いた。


・・・・・


「ねえねえ、王都に着いたらまず何したい? 私はやっぱり、王都でしか食べられないような美味しいものが食べたいなぁ。前にロゼッタさんから聞いたんだけど、果物いっぱいのタルトを出してくれるお店があるんだって」


「おいおい、遊びに行くんじゃないんだぞ! これは留学なんだ。ロードベルク王国の高等学校の勉強内容を、俺たちが大公国に持ち帰らないといけないんだぞ!」


 にこやかに言うアマンダに、そんな説教をするのはニコライだった。


「えー? でも、ペンスさんとロゼッタさんが一緒に王都を散策したときの、思い出のお店らしいわよ? あなたのお父様とお母様が結ばれたきっかけのお店じゃない。そんなお店に私と一緒に行くっていうのはどう?」


 少女らしからぬ艶やかな表情でアマンダが言うと、ニコライは一瞬たじろいで、しかし意地を張るように彼女から視線を逸らした。


「ふんっ! 俺がお前を好きだったのなんて何年前の話だと思ってんだよ! 調子に乗るなよな!」


「そっかぁ~残念。それじゃあ誰か、ロードベルク王国貴族の子弟の殿方と行っちゃおうかなぁ」


 ニコライはアマンダのその言葉にも無関心を決め込もうとしたが、肩が動揺で揺れたのは隠しようもなかった。


「……エレオス様は、リヒトハーゲンで何をしたいですか? お勉強以外では」


 静かに尋ねたのは、大人しい性格のテオドールだった。彼の問いかけに、エレオスはしばし考えて口を開く。


「リヒトハーゲンにはおおっきい王立図書館があるらしいんだ。そこで色んな本を読んでみたいなぁ。もしかしたら、父上も読んだことのないような珍しい本があるかもしれない」


「リヒトハーゲンに行っても本が読みたいんですか? エレオス様って本っ当に本の虫ね!」


 腕を組んで鼻を鳴らしながら言ったのはサーシャだった。普段このような仕草をすると母のジーナから「お父さんの真似は止めなさい」と言われるが、今はその心配もない。


「本の虫なんて、公世子殿下にそんな言い方だめだよぉ」


「はっきりものを言うのも臣下の務めでしょ! そんなこと言ってたら、あんたエレオス様に頼られる臣下になれないわよ!」


 おろおろと言うテオドールに、サーシャは腕を組んだまま威勢よく言い返す。


「そういうサーシャは何をしたいの?」


「鍛錬よ! 人の多いリヒトハーゲンの高等学校なら、王国貴族の子弟とかで、強い奴もいっぱいいるはずでしょ! 武芸の授業もあるって言うじゃない! 強い奴らと戦って鍛えて、帰ったら父上を驚かせてやるんだから!」


「それは俺も同感だな! 将来の親衛隊長として、ふさわしい強さを身につけるんだ!」


 アマンダの問いかけにサーシャが答えると、ニコライもそれに同調する。


「……おーい、皆」


 そのとき。開いている窓から、ヤコフが子供たちに声をかける。今年で成人となり、既に大公国軍の訓練にも参加しているヤコフは、今回は騎乗して護衛の側に加わっている。


「どうしたの、ヤコフ?」


「ああ、エレオス様。馬車の中がとても賑やかだったので、あまり騒いで疲れすぎないようにと伝えるようシェーンベルク閣下から頼まれまして。まだまだ先は長いですし、馬車の旅も意外と体力を消耗するので、この調子では後がきついだろうと」


「ふうん、そっかぁ……それじゃあ皆、そういうことだから、もう少し大人しくお話ししよう」


「はい、エレオス様!」


「了解っす!」


「はぁい。気をつけまぁす」


「ご、ごめんなさい……」


 エレオスが呼びかけると、サーシャ、ニコライ、アマンダ、テオドールがそれぞれ答えた。


 それを確認したヤコフは、護衛の隊列に戻る。


「どうだった?」


「エレオス様が呼びかけたので、皆素直に返事をしてましたよ。しばらくは大人しいでしょう」


「ははは、そうか。ご苦労だった」


 ヤコフの報告に笑いながら頷くと、ペンスは前に向き直った。


 二人の後方では、外務大臣として同行しているバートが、王都での娘との別れを今から想像して憂鬱そうなため息を吐いていた。



★★★★★★★


※来週にもこの番外編の続きを更新する予定です


お知らせです。

『ひねくれ領主の幸福譚』書籍4巻、およびコミカライズ1巻が2023年7月25日に発売となりました。

書籍4巻は大戦編を大幅加筆の大ボリュームで描いています。今回も高嶋しょあ先生に素敵なイラストを手がけていただきました。

コミカライズ1巻では、藤屋いずこ先生によってノエインたちの開拓の幕開けが描かれています。漫画ならではの表現やポップで可愛らしい世界観に注目です…!


また、私の別作品『ルチルクォーツの戴冠』の書籍1巻が8月9日にDREノベルス様より発売されます。

平民から小国の次期国王になってしまった青年を描く内政戦記ファンタジーです。既に書影も公開され、予約なども始まっているので、こちらも是非チェックしていただけると嬉しいです。


引き続き、エノキスルメの作品を何卒よろしくお願いいたします。

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