第二話 あやうく②
兎人の身体能力は普人より優れている。特に脚力の点において。
そのため、屋敷の二階の窓から飛び出したマチルダは、怪我をすることもなく鮮やかに着地した。
「うおぁっ!?」
それを見て驚愕したのは、アールクヴィスト大公国軍の大公家親衛隊長、ペンス・シェーンベルク士爵だった。報告業務のため、国軍本部から屋敷へとやって来たペンスは、いきなり目の前に降り立ったマチルダを見て声を上げる。
「な、なんだマチルダか。どうしたいきなり」
「……屋敷の窓からノエイン様の執務室に侵入したナガミミリスが、机の上に置かれていた書類を咥えて逃げました。市街地の方へ向かっています。臣民に見られるとまずい内容の書類です」
「……」
それを聞いたペンスは表情を引き締め、そのままマチルダと共に市街地へと駆け出す。
「臣民に見られるとまずい書類って、どんな内容だ?」
「……ノエイン様が、今度の結婚記念日に向けてクラーラ様に宛てた個人的な手紙です。赤裸々な内容が書かれています」
ノエインの回想録は、臣下にさえ読ませるつもりではないもの。なのでマチルダは、咄嗟に嘘をついた。
「なるほど、そりゃあ大変だな。君主の細かい心の内なんて臣民が知るべきじゃない。とっとと回収しないと……」
市街地に入った二人は、通りの人混みを縫って進む。臣民や、国外から来訪している商人と旅行者たちが、街中を爆走する二人に奇妙なものを見る目を向ける。
公都中央の広場にたどり着いた二人は、周囲を見回してナガミミリスを探す。
「ちょっと、二人ともどうしたのよ。そんなに急いで何かあったの?」
そこへ声をかけてきたのは、丁度広場を通りかかったらしい、大公国婦人会の長であるマイ・グラナート準男爵夫人だった。
「マイか。実はな――」
ペンスが素早く事情を説明すると、マイも彼と同じように表情を引き締める。
「何か咥えたナガミミリス、見たわよ。西の方に走っていったわ」
「追うぞ!」
マイも加わり、三人は広場から西の大通りに走る。
通行人を避けながら駆け、しばらく進むとペンスが声を上げる。
「いたぞ! 左!」
マチルダとマイがそちらを見ると、紙束を咥えたナガミミリスは路地の入り口、家屋の屋根の上にいた。
そのような場所にいて、まだ紙束を加えているということは、その内容はおそらくまだ誰にも見られていない。
「っ!」
マチルダがその脚力を活かし、他の二人に先行して駆ける。その気迫を感じ取ったのか、ナガミミリスはそのまま屋根を伝って路地の奥へ逃げる。
ナガミミリスのすぐ後ろまで迫ったマチルダは――家屋の壁を蹴り、その反動を利用し、蹴った家屋の隣の屋根の上に降り立つ。
そしてナガミミリスに手を伸ばすが、間一髪でその手をすり抜けたナガミミリスは地面に飛び降りた。そのままちょこまかと走り、路地の反対側の家屋の屋根に逃げてしまう。
「ペンス様!」
「できるか!」
屋根の上のナガミミリスを指差しながら叫んだマチルダに、ペンスはそう突っ込んだ。壁を蹴って一息に屋根に飛び乗るなど、普人にできる芸当ではない。兎人の脚力あってこその曲芸だ。
「普通に追うぞ! 一本隣の路地だ!」
家屋の間を抜けて走るペンスに、マイと、屋根から飛び降りたマチルダが続く。
ナガミミリスは道を右に左にと逃げ続け、三人とナガミミリスの不毛な追いかけっこが続く。
「……お?」
そして、追跡劇は意外なかたちであっさりと幕を閉じた。
三人がナガミミリス追って走った先で、ナガミミリスは足を止めていた。そこで、学校帰りの君主家嫡男――エレオスが、地面にしゃがみ込んでナガミミリスと戯れていた。
「あはは、可愛いなあ。どこから来たの?」
ぐしゃぐしゃになった紙束を抱えるナガミミリスの頭を、エレオスは穏やかな笑顔で撫でている。その後ろには、エレオスが外出する際のお目付け役であるヤコフ・グラナート準男爵家嫡男が立っている。
ヤコフの方が、息を切らしたペンスとマイと、息を切らしていないマチルダに気づく。
「あれ? 母上。それにシェーンベルク閣下とマチルダ様まで。どうなさったのですか?」
ヤコフの言葉を聞いて、エレオスも顔を上げる。
「マチルダ」
「エレオス様……どうやってナガミミリスを捕まえられたのですか?」
「別に捕まえたわけじゃないよ。この子が路地を走ってたから、手招きしたら寄ってきたんだよ。可愛いよねぇ」
そう言って、エレオスはナガミミリスを抱きかかえる。ナガミミリスは抵抗することもなく抱かれる。
ナガミミリスの掴んでいた紙束を、マチルダはさりげなく取る。もう執着していないのか、ナガミミリスはあっさり紙束を離した。
「マチルダ、その紙は?」
「このナガミミリスが、ノエイン様の執務室からこの書類を盗んで逃げ去ったのです。ペンス様とマイにも協力してもらい、ここまで追ってきました」
「ふうん」
二人の会話を聞いたヤコフが、思わずといった様子で苦笑する。
「……道理で、母上もシェーンベルク閣下も疲れていらっしゃるのですね」
「そういうことだ。ったく、ナガミミリスごときにここまで手を煩わされるなんてな」
「こんなに全速力で走ったのなんて、いつ以来かしらね」
膝に手をついて荒い息をしながらペンスが言い、地面にぺたりと座り込んでマイが笑った。
「でも、その書類? を無事に回収できてよかったね……それじゃあ、帰ろっか。君もうちに帰るといいよ」
エレオスが降ろしてやると、ナガミミリスはちょろちょろと西の方角――森の奥の方へと走る。
そして、一度足を止めてこちらを振り返る。
「きゅうん」
「あはは、ばいばい」
エレオスに見送られ、ナガミミリスは今度こそ森に帰っていった。
ある意味ではノエインにとって最大の危機となったこの珍騒動は、こうして無事に収束した。
・・・・・
「――そうか。エレオスがナガミミリスを止めてくれたのか。ありがとうエレオス。お手柄だったね」
「僕は特に何かを頑張ったわけじゃないですけど……でも、父上のお役に立ててよかったです」
マチルダと共に帰宅したエレオスは、ノエインに頭を撫でられて満更でもない様子だった。
「……ちなみにエレオス。紙束の中に何が書かれているか見た?」
「いえ、見てません。ナガミミリスがぐしゃぐしゃにして握ってたので、最初はどこかから拾ってきたゴミか何かかと思いました。特に気に留めてませんでした」
「そう、それならいいよ……」
心の底から安堵を覚え、ノエインは言った。
回顧録はエレオスに遺し、読ませるつもりであるが、それはもっとずっと先の話。幼い我が子にこれを読まれるのは恥ずかしすぎる。今はまだ、この紙に何が書かれているのかをエレオスは知らなくていい。
「そうだ、エレオス。ロゼッタがおやつにクッキーを焼いてくれたらしいよ。食べておいで」
「っ! クッキー! 行ってきます」
ソファから立ち上がって食堂へと駆けて行ったエレオスを見送り、ノエインはマチルダを顔を見合わせ、微苦笑を交わした。
「とりあえず、ここに書いた分は別の綺麗な紙に書き写さないとね……それと、今度から回顧録を書くときは、執務室の窓を閉めるようにするよ。またあのナガミミリスが来るかもしれないし、マチルダにこんな面倒は何度もかけられないからね」
この教訓を活かし、ノエインは回顧録の原稿をより慎重に扱うようになった。
以降、回顧録の内容が外部に漏れる危機は起こらず、完成した回顧録はアールクヴィスト大公家最大の秘密事項として、何百年も丁寧に扱われるようになっていく。
★★★★★★★
書籍版『ひねくれ領主の幸福譚』3巻、2023年2月25日に発売となりました。
今回はいよいよクラーラが登場し、二人のヒロインが出そろいました。
大幅加筆で送る新展開、是非お手にとっていただけますと幸いです。
何卒よろしくお願いいたします。
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