番外編

第一話 あやうく①

 第二次ベトゥミア戦争。オスカー・ロードベルク三世が公式に名を定めたその戦争が終わり、ロードベルク王国とその周辺地域が落ち着きを取り戻した、春のある日。


 ノエイン・アールクヴィストは、大公家の屋敷の執務室で机に向かい、ペンを走らせていた。


 とは言っても、現在ノエインが書いているのは仕事の書類ではない。個人的な書き物――自身のこれまでの人生を綴った回顧録だった。


 自身の年齢も三十を過ぎ、先達として自身を導いてくれたロードベルク王国貴族たちも多くが隠居による代替わりを決めた今、ノエインは考えた。人生も間もなく半ばにさしかかるか、もしかしたら既に半ばを過ぎている身となったのだから、自分という人間を書物という形に残していくべきではないかと。


 ノエインが大公として何を成したかは、妻のクラーラが伝記として細かく記してくれている。しかし、彼女が記録しているのはあくまで公人としてのノエインで、その表現には多少の誇張も含まれる。ノエインが一個人として何を思い、何を考えて生きてきたかは、あまり正確には形に残っていない。


 だからこそ、ノエインは自身の半生と、その中で巡らせた赤裸々な思考を、ここ最近になって回顧録として書に記し始めた。とはいえ、こんな内容を誰にでも読ませるわけにはいかないので、ひとまずは自身の子孫に読ませるつもりで。


 後にまとめて書物の形にするつもりだが、今はまだ数枚ずつを束ねて紐でくくった紙束だ。


「ふうー……」


 暫くの間、紙束を向いて黙々と執筆を続けていたノエインは、少し疲れを覚えて伸びをする。


「ノエイン様、よろしければお茶をお持ちいたします」


「……そうだね。お願いしようかな」


 傍らの執務机についていたマチルダから言われ、ノエインは答える。マチルダはノエインに向けて優しく微笑むと「かしこまりました。直ちに」と言って退室していった。


「……」


 マチルダがお茶を持ってきてくれるのを待つ間、ノエインは何気なく立ち上がる。あまり長時間座ってばかりいるのも、身体が凝って良くない。もう若くはないのだから、特に腰などは大事だ。


 意味もなく執務室内を歩き回り、軽く身体を動かして凝りをほぐしたり、棚に収められた書物を何とはなしに手に取ってぱらぱらとめくったりと、時間を潰す。


「きゅうん」


 と、そのとき。窓の方から鳴き声が聞こえ、ノエインはそちらを向いた。


 開け放たれた窓の縁にいたのは、ナガミミリスだった。


 ナガミミリスはその名の通り、長い耳を持つリスのような魔物。主に森の中に生息しており、時おりこうして人里に現れる。領土の多くが森であるアールクヴィスト大公国では、街中に迷い込んだものを見かけることも珍しくない。


 一応は魔物だが、その大きさは猫と同じか少し小さい程度で、専ら木の実などを餌とする。大公国内のナガミミリスは人を見慣れており、近寄っても逃げない個体も多いので、大公国人にとっては気まぐれに撫でて可愛がるか、家の食料を齧られないよう庭から追い払う対象であった。


 なのでノエインも、ナガミミリスと鉢合わせしたからといって、驚きも恐怖も感じない。大方、屋敷の壁を伝ってここまで来てしまったのだろう。そう思いながら窓際に近づく。


「きゅうん?」


「あはは、こんにちは」


 首を傾げるナガミミリスにそう呼びかけながら、ノエインは手を掲げる。ナガミミリスはノエインの手の先をくんくんと嗅ぎ、特に怯えるでもなく、そのまま大人しく撫でられる。


 そして、ちょろちょろと部屋の中に入ってきた。執務机に素早く上り、そこに置かれたノエインの回顧録に興味を示す。


「きゅうん」


「僕の回顧録? 君にとっては面白いものじゃないよ」


 ノエインはそう言ったが、ナガミミリスは植物紙やインクの匂いが珍しいのか、しきりに鼻を動かしながら観察している。


 そして、その回顧録の一束を、そのまま口に咥える。


「あっ、駄目だよ」


「きゅん?」


 制止する言葉の意味が通じるはずもなく、ナガミミリスは首をかしげながら、回顧録の束を咥えたまま窓際に戻る。


「えっ」


 そして、窓からひらりと飛び降りる。


「……駄目だってば! 待って!」


 ノエインが慌てて窓際に駆け寄り、外を見ると、身軽なナガミミリスは屋敷の前庭に降りていた。そのまま北に――公都ノエイナの市街地の方へと走っていく。


 誰にも見せるわけにはいかない、ノエインの赤裸々な心の内が綴られた回顧録を咥えたまま。


「ああぁーっ! ま、まずいいいぃっ! 待ってええぇっ!」


「ノエイン様っ! どうされましたっ!?」


 そのとき。マチルダがお茶の載ったお盆を片手で器用に支えながら、もう片方の手で扉を開けて飛び込んでくる。


「なっ、ナガミミリスが! 僕の回顧録を咥えて市街地の方にっ!」


 その説明で事態を察したらしいマチルダは――すぐ隣、応接席のテーブルの上にお盆を投げ置くと、兎人の身体能力を活かして爆速で駆け出し、ノエインの執務机を飛び越える。


 そして、そのまま窓から――屋敷の二階にある執務室の窓から飛び出す。



★★★★★★★


お知らせです。

本日2月17日より、藤屋いずこ先生によるコミカライズ『ひねくれ領主の幸福譚』の連載がコミックガルド様にて始まりました。

漫画という新たなかたちで描かれるノエインたちの物語、是非ご注目いただけますと幸いです。よろしくお願いいたします。

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