第371話 戦場の夜

 かろうじて防衛線を守りきり、ヴィルゴア王国の軍勢を一時後退させて緒戦を終えた夕刻。


 将兵たちが交代で食事をとる中で、ヘルガ・レーヴラントもまたスープの器と固いパンを手に、焚き火の前に座っていた。


 暗い表情で俯く彼女の傍には、今は誰もいなかった。誰もが疲れ果てたこの時間だ。王女殿下の隣に座り、下手な口を聞けば不敬と見なされる緊張感の中で気を遣いながら食事をとりたい者はいない。


 一応はヘルガのお目付け役であるベーヴェルシュタムも、今は手が空いておらずこの場にはいない。


 自身が腫れ物扱いされていることは理解しながら、ヘルガの口は食事をとることではなく、ため息を吐くことにばかり使われている。初めて凄惨な戦場を目にして、いつものように食欲が湧くはずもなかった。


「お気持ちは察しますが、無理にでも胃に入れなければ身体が持ちませんよ」


 かけられた声にヘルガが顔を上げると、そこにいたのはやはりノエイン・アールクヴィストだ。


「ご一緒によろしいですか?」


「……はい。ありがとうございます」


 マチルダを連れたノエインは、ヘルガと同じメニューの食事を手に隣に座ってくる。独りでいた自分を気遣ってくれたのであろう彼に素直な礼が零れたのは、疲れているせいか、それとも開戦前の夜に父から言われた言葉が響いているのか。


 ノエインの忠告に従って、ヘルガはパンをスープに浸し、それを口で千切る。まるで土塊でも噛んでいるかのような無味の咀嚼をくり返し、無理やり飲み込む。


 スープを啜るときは息を止め、匂いや味を感じないようにする。昼間に嗅いだ血の臭いや、あの熱湯を浴びた兵士の悲惨な顔を思い出さないようにする。


 そんなヘルガの横では、ノエインとマチルダが平然と食事を食べ進めている。ノエインに至っては、疲れた身体に食事を入れることを楽しんでいるようにさえ見える。


「……」


 半ば唖然とするヘルガの視線に気づいたノエインが、食事の手を止めて微笑みを向けてきた。


「奇妙に見えますか? 殺し合いの後で食事が喉を通るのが」


「……ごめんなさい。私も戦場の経験を重ねれば、慣れるものなのでしょうか」


「そうですね。まあ、慣れるほどこんな経験をせずに済めばそれが一番いいのでしょうが」


 ノエインは微苦笑を浮かべたが、ヘルガはそれに笑みを返せなかった。


「……ヘルガ殿下は救護所の警備をされていたそうですね」


「はい。最前面にいた皆さんと比べたら、とても戦ったなどとは言えません」


「負傷者の救護やその警備もまた大切な戦いです。それに、慌ただしい最前面ではあまりじっくりと周囲の光景を見る余裕もありませんから。凄惨な傷を負った者ばかりを直視する救護所で初陣を迎える方が、かえってお辛かったかもしれませんね」


 ノエインの口調は穏やかだ。しかし、その言葉はヘルガに昼間の光景を思い出させる。またヘルガの顔が青くなる。


「……人はどうしてこんなことをするのでしょうか」


 口をついて出たのは、そんな言葉だった。


「あんなにも血まみれになって。惨い姿になって。相手を同じ姿にして。つい数日前までは共に肩を並べたデール侯国の民とも殺し合って……どうして、人は人にこれほど惨いことができるのでしょうか。罪のない人がこれほど惨い目に遭わなければならないのでしょうか」


 ヘルガはあまり深く考えずに呟き、言ってしまってからはっとした表情で顔を上げる。今の言い方では、まるでノエインを含む味方の奮戦まで否定しているようだ。


「ご、ごめんなさい。私……」


「いえ、構いませんよ。気持ちは分かります」


 慌てるヘルガに対して、ノエインは微塵も感情を動かしてはいないようだった。


「どうして罪のない人が惨い目に遭うのか……私は逆に考えます。どうして人だけが、この世界の惨さに晒されずに済むものかと」


 ノエインの言った意味が分からず、ヘルガは黙り込む。


「自然の中では、命が散るのは日常です。死は穏やかではないのが当たり前です。殿下は獣や魔物が餌を狩るのを、なんと邪悪で惨い所業なのだと思いますか? 獲物となった生き物は血を流し、内臓をこぼしながらもまだ息がある場合もあります。そのような生き物たちは、何か罪を犯した罰として惨い有り様になったのだと思いますか?」


「……いえ」


「そうでしょう。世界とは本来、残酷なものなのです。穏やかに長生きするか、惨い死を迎えるか、左右するのは運です。善悪ではありません。人も生まれ落ちて死に行くものである以上、この世界の理から外れることはできない。私はそう考えています」


 それは崇高な理想を抱いてきたヘルガから見れば、ひどく無味で冷めた考え方に聞こえた。


 なんと救いのない話か。夢のない話か。ヘルガはさらに表情を暗くする。


「……そんな世界で、私は自分の理想郷を得ました。アールクヴィスト大公国という名の小さな理想郷を」


 ヘルガが顔を上げてノエインの方を見ると、ノエインは穏やかな笑みを浮かべていた。


「自賛が過ぎているかもしれませんが、それでも私にとってはたったひとつの理想郷です。臣下や民にとってもそうであると信じています。我が国には少なくとも希望があります。奴隷は良い食事と寝床と、自由への可能性を。平民は勤勉さへの報いと、より多くの富を。臣下や兵士たちは誇りと名誉と、命を捧げるに足る故郷を。皆が生きる希望を見出すことができる国だと、私は皆にその希望を与えることができていると、信じています」


 ノエインの言葉も、表情も、ヘルガが当初彼に抱いていた印象とは全く違っていた。彼は獣人たちを騙して虐げる悪人にはとても見えない。むしろ英雄や聖人君子のようにさえ見える。


「私は浅ましい小さな人間です。自分の愛する可愛い臣下と民にだけでも、今よりましな世界を見せたい。人生が今よりましになるという希望を見せたい。彼らだけでも惨い目に遭わないでほしい。今よりも豊かになってほしい。彼らを愛し、彼らに愛される優しい世界に浸っていたい。そんなことばかり考えて生きています。殿下の考える理想の君主とは程遠いでしょう」


 苦笑するノエインに、ヘルガは言葉を返せなかった。


 ノエインたちと出会った初日であれば、もっと高い理想を目指すべきだと、それでもあなたは君主かと言ったかもしれない。しかし、今のヘルガには反論しようなどという意思は湧かなかった。


 デール侯国での騒動を経て、父の厳しい言葉を受けて、今日の戦いを経て、ヘルガは知った。世界とは自分が思っていたほど単純なものではないと。優しいものではないと。


 そんな世界を直視して生きてきたノエインの言葉だ。彼がたどり着いた境地だ。まだ何も成していないヘルガが安易に否定できるわけがない。


「私は自分の庇護下にいる者たちを愛しています。私の愛する全てが、私の生きる理由の全てです。そして、私の庇護下にいる皆もまた私を愛してくれています。惜しみない愛を捧げてくれます。だからこそ私は、愛する者たちのために力を尽くせます」


 そこで、ノエインはため息を吐いた。


「それでも力が足りず、叶えられないことだらけです。迷うことだらけです。ですが、それでも足掻くしかないのです。泣き言を零す暇はありません。元来世界は残酷なのですから。愛する者たちを守るためなら、私はどんな敵にも立ち向かいます。どれほど手を血で汚すことも厭いません。自分自身が敵から見て残酷な世界の一部になることも覚悟の上です。私の愛する者たちにとって、私が愛すべき君主であれば、それだけで十分です」


「……」


 ノエインの話はヘルガから見てあまりにも新しく、衝撃的だった。ヘルガが抱いてきた崇高な理想とは程遠く、志としては限りなく低い。


 では、だから、彼が間違っていると言えるのか。世界の残酷さを知った今、理想を語ってきた自分こそが正義で、現実ばかりを見る彼が悪だと自信を持って言えるのか。


 彼こそが正しく、自分が間違っているのではないか。間違ってきたのではないか。


 そんな思考に襲われるヘルガをよそに、ノエインはパンの残りを口に放り込み、スープで流し込み、立ち上がる。


「すみません、自分のことばかり長く話してしまいましたね……もう間もなく行動開始です。私は臣下たちを激励して、自分も動かなければなりません。殿下もお役目がおありかと思います。少し急がれた方がいいでしょう……考える時間は、後からでも沢山あります」


 ノエインはそう言い残し、マチルダを連れて立ち去って行った。


 その姿を見送ったヘルガは、また無言で俯き、そのまま考え込みそうになり、慌てて頭を横に振った。今は自己の内心と向き合っている場合ではない。そう自分に言い聞かせ、無心でパンとスープを胃に収める。


 そして、ヘルガも立ち上がった。


 これから始まる行動が、この戦いの趨勢を決める。ヘルガは今から重要な役割を果たすレーヴラント王国軍の兵士と魔法使いたちを、王女として見送らなければならない。


 君主としての正しい在り方などすぐには分からない。だが、まさに今、王族のヘルガにはやるべき明確な仕事がある。今はそれに向き合うしかない。この残酷な世界の中で、少なくとも今の自分が民のために行える仕事がそれなのだから。


・・・・・


「参謀閣下、敵が砦から打って出てきました! 夜襲と思われます!」


 天幕の前で声を張る夜警担当の兵士によって叩き起こされたカドネは、身支度もそこそこにイヴェットを連れて外に出る。


 本陣の中心、司令部の天幕の前まで出向くと、既にカイアと将軍ガジエフが立っていた。


「どんな様子だ?」


「夜警の部隊は既に隊列を組ませました。今は全軍を叩き起こしている最中です。打って出た敵の数は……およそ八百といったところでしょうか。敵も随分と思い切りましたな」


 カドネの問いかけに答えたのはガジエフだ。彼の視線の先、敵の砦の前では、無数の松明が揺れていた。


「そうか。まあ、それほど心配することはないだろう」


「やけに冷静だな? お前はこういう奇襲の類が最も嫌いだろう? まだ多くの兵士が寝ているこの状況であの数が捨て身で攻撃してきたら、さすがにこちらも手痛い被害を受けるぞ?」


「そんなことをすれば敵もただでは済まないんだ。こんな何の捻りもない夜襲をノエイン・アールクヴィストが仕掛けてくるとは思えん。おそらく、こうして俺たちを叩き起こすことでこっちの消耗を狙っているんだろう。本当に攻撃してくることはないと思うぞ」


 意外そうな表情を向けてくるカイアに、カドネは笑いながら返す。


「打って出た敵の数も、本当に八百人もいるか怪しいものだ。松明に少し細工をすれば、遠目に見た数を多く見せることもできる。斥候を近づけて確認させるといい」


 その言葉に従って、夜目の利く獣人兵の斥候が出される。


 しばらくして戻ってきた斥候の報告は、カドネの予想通りだった。


「敵は先が分かれた松明を持っており、実際に砦から出ている数はゴーレム使いも含めて百数十人、か……姑息な」


「この様子だと、敵が攻めてこないという参謀殿の読みもおそらく当たっているのでしょうな」


 敵陣を睨みつけるカイアに、ガジエフが小さくため息をつきながら言った。


「敵の実数が少ないと分かったんだ。一応は警戒度を上げるために予定より少し多めの夜警を立てて、あとの者は寝かせてしまった方がいい。俺たちも夜番の将たちに指揮を任せてもうひと眠りといこう。明日も戦うんだ。敵の茶番にこれ以上付き合って体力を消耗することはないだろう」


 カドネは欠伸をしながら言うと、イヴェットと共に天幕へと戻った。

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