第334話 収穫期

 王歴二二一年、かつ公歴二年の夏。アールクヴィスト大公国は、例年と同じく収穫期を迎えていた。


 この時期には秋播きの小麦が収穫され、それと時期を前後させて、その年の一度目のジャガイモの収穫も行われる。農民たちにとっては、一年で最も忙しい時期だ。


 そして、アールクヴィスト大公家の御用商会であり、大公家が徴税した麦を現金化する役目を持つスキナー商会も、繁忙期の只中にあった。


「商会長、キルデからの徴税分が倉庫に届きました。ご対応をお願いします」


 商会本部の執務室で書類仕事に追われていた御用商人のフィリップは、部下の言葉に顔を上げる。


「キルデ? 予定では、先に公都ノエイナ内の分が完了するはずじゃなかったか?」


「ノエイナ北西部の農地の収穫がまだ終わっていないそうです。一週間ほど遅れそうだとか……逆に、キルデの方は予定より一週間ほど早く収穫が終わっていたそうです」


「そうか、それじゃあ確認しよう」


 収穫や加工、徴税分の回収作業が一週間や二週間程度ずれるのは、珍しいことではない。公都ノエイナの北西部には新移民たちが入ってから新たに開墾された農地が多いので、初めての収穫でばたつくのも納得できる。


 それ以上は特に言及することもなく、フィリップは立ち上がって倉庫に降りた。


「どうも、フィリップさん」


「ケノーゼ殿。今年もご苦労様です」


 そして、農務担当の従士で、農務長官エドガー・ロイシュナー士爵の部下である鼠人のケノーゼと顔を合わせる。


 徴税した麦の現金化では農務担当の臣下たちが実務を担っており、エドガーは基本的に最も規模が大きい公都ノエイナの徴税管理と、全体の統括を行っている。その他の地域――キルデやアスピダ、各農村の徴税分を持ち込むのは、ケノーゼが担当していることが多い。


「持ち込み分は、春先にお伝えしていた見込みの通りです。数と質のご確認をお願いします」


「かしこまりました。それでは……おい、頼む」


「はっ」


 麦の確認作業は、重要ではあるが難しくはない。キルデからの徴税分は量もそれほどではない。勉強させる意味も兼ねて、フィリップは先ほど自分を呼びに来た新人の商会員に確認の実務を任せる。


「人口が増えて作物の生産量も増えましたし、農務担当の皆様もさぞお忙しいことと思います」


「はい、まあ……正直に言うとそうですね。フィリップさんも、この時期は例年よりさらに大変でしょう」


「ええ。ですが、これも嬉しい悲鳴と言うべきでしょうね。扱う品が多くて忙しいというのは、商人冥利に尽きます。アールクヴィスト大公家のお役にも立てているわけですし」


 他愛もない世間話をしているうちに確認作業は終わり、フィリップは受け取った分の麦の代金を支払うことを記した契約書をしたため、ケノーゼに渡す。


 実際の代金は、後日スキナー商会からアールクヴィスト家に届けられ、内務長官のアンナ・ロイシュナー夫人がそれを受け取ることになる。


「それでは、また次の徴税分を持ち込むときに。よろしくお願いします」


「はい。本日はお疲れ様でした」


 フィリップはケノーゼと、空になった荷車を牽いて帰る農民たちを倉庫の外まで見送る。


 と、そのフィリップの隣で、同じく見送りに出ていた新人の商会員は口を開いた。


「それにしても、どうしてアールクヴィスト閣下はここまで国内の農業に力を入れられるのでしょうか」


「ん? どういうことだ?」


 フィリップが尋ねると、商会員はさらに続ける。


「今は収穫期なのでスキナー商会も農作物を扱っていますが、普段は専らロードベルク王国とランセル王国の貿易を中継するのが仕事です。貿易は昨年始まったばかりですが、利益はどんどん大きくなっています。今後も大きくなる見込みです。そうですよね?」


「……ふむ、確かにそうだな。続けなさい」


 フィリップは面白がるような口調で、新人に話の続きを促す。


「アールクヴィスト大公国は、もう商業や工業で国民全員が食べていけるほどに潤い始めています。食料を全て輸入で賄うことさえできるはずです。それなのに、なぜアールクヴィスト閣下はそうした利益率の高い産業に軸足を移さず、他国に売れるほどの作物を作らせるのでしょうか?」


 この新人は元々は自作農家の次男坊で、つい二年前までは大公立ノエイナ高等学校で教育を受けていた。自分がそれなりに教養があり、賢いと思っているからこそ、こうして疑問を呈してみたのだろう。そう考えながらフィリップは笑う。


「ふっ、お前もまだまだ若いな」


「……というと?」


 首をかしげる新人に、フィリップは商会長として指導を施すことにする。


「確かに、農業の規模を大幅に縮小して、商業や工業を主軸に転換すれば、アールクヴィスト大公国はさらに早く豊かになれるだろう。足りない分の食料は隣国から買えばいい。食料代よりも、増える利益の方が多いだろうさ……平時はそれでいい。だが、有事の際はどうだ?」


 フィリップに問われた新人は、そこでハッと気づいた顔になる。


「三年前のように大凶作が起こったら? もしもまた大規模な戦争が起きて、兵を動員するために大量の食料が使われたら? 食料の価格は高騰し、流通は滞る。するとどうなる?」


「食料を輸入に頼る国は、当然ですが食料不足に悩まされ……他国から足元を見られる? 値を吊り上げられたり……『食料が欲しければ言うことを聞け』などと脅されることもあり得るかもしれません」


「そうだ。そこまで自分で気づけたのは偉いな。自国だけで十分な食料を生み出せるからこそ、国や貴族領は自立していられる。他国に売れるほどの生産量があれば、いざというときは交渉の武器にすらできる。農業は社会の土台、全ての産業の土台だ。だからこそ、アールクヴィスト閣下は農業に力を入れておられる。分かったな?」


「はい……僕が浅はかでした。ご指導ありがとうございます」


「よろしい。成長できたことを喜びなさい……それと、くれぐれも今みたいに安易な自論を外で話さないでくれよ。アールクヴィスト閣下は笑って許してくださるだろうが、臣下の方々からスキナー商会がどう思われるか分からないからな」


「そ、そうですね。気をつけます」


 顔を青くする新人に微苦笑しながら頷き、フィリップは執務室に戻る。


・・・・・


「ロイシュナー夫人。こちら、追加でご確認をお願いいたします」


「……分かったわ。そこに重ねておいてちょうだい」


「かしこまりました」


 そろそろ今日の仕事を終えられるだろうかと思っていた矢先、新たな書類の束を手に声をかけてきた若い文官に、アンナはため息を堪えながら答えた。


 初夏の収穫期の後にやって来るのは、農民たちからの税の徴収とその現金化の手続き、それらの記録作業だ。アンナたち文官にとっては、一年の中でも特に忙しい時期と言える。


 今届けられたのは、自作農家の世帯ごとの収穫量と徴収量が記載された一覧表。これを春先の収穫見込み表と照らし合わせて一世帯ずつ確認し、それをもとに今年の麦の徴税についての公文書を作成しなければならない。


「……はあ」


 この作業を全て今日中に手がけなければならないわけではない。というか、今日だけで片づけるなど不可能だ。が、先のことを考えると、少しでも手をつけておかないわけにはいかない。


「ただいま戻りました」


 そのとき、文官用の執務室に入ってきたのは、アンナの側近と呼べる立ち位置にいるクリスティだった。


「お帰りなさい……あなた、明日までは工房にいる予定じゃなかったかしら?」


 週の数日は工房の事務管理を務めている彼女にアンナが尋ねると、やや自慢げな笑みが返ってくる。


「工房の仕事はもう明日の分まで終えて、こちらの加勢に来ました。この時期なので、アンナさんが大変な思いをされてるだろうと思って」


「……クリスティ、あなた救世主よ」


 安堵と感謝で表情を崩しながら、アンナは執務机の上に項垂れた。


「ふふふ、相当大変だったみたいですね」


「そうね……去年までの移民増加で農業の規模も拡大して、その分こっちの仕事も増えてたから」


 小作農や農奴と違って、文官はすぐに増やせるわけではない。今後のことを考えて新たに数人の仕官者が加わったが、一年目の新人が即戦力になるはずもない。


「それじゃあ、私もこれをいくらか手伝いますね。夕刻までまだ少し時間がありますから、できるだけ進めましょう」


「ええ、助かるわ。残業せずに帰れそうで一安心よ」


「お役に立てて何よりです……この時期を乗り越えたら、また一緒に劇場に行きませんか? 新しい恋愛劇の公演が始まるらしいですよ」


「ほんとに? じゃあ、休日を揃えて行きましょう」


 大公立ノエイナ劇団の公演の中でも、特に恋愛劇は女性人気が高い。アンナとクリスティもその例に漏れない。


「……それじゃあ、とりあえず今は」


「ええ、これを片づけていきましょうか」


 文官たちもまた、アールクヴィスト大公国のためにそれぞれの戦場で日々戦っている。


・・・・・


「どうも、エドガーさん……なんて軽い呼び方は失礼ですかね。お久しぶりです、ロイシュナー士爵閣下」


「ははは、よしてくれ。公の場でもないんだから気を遣わなくていいさ。それに私は君の義弟だぞ、一応」


 アールクヴィスト大公国の農務長官を務めるエドガーは、今は自宅で妻アンナの兄を――自身にとっては年下の義兄にあたる、レトヴィクの商人マルコを出迎えていた。


「疲れただろう。とりあえず上がってくれ。荷馬車は宿か?」


「はい、うちの商会員たちに管理を任せてます。荷物はこれだけです」


 そう言って、マルコは自身の鞄を掲げる。


 マルコとその母イライザが経営する、アンナの実家でもあるクレーベル商会。元は庶民向けの食料品店でしかなかったこの商会は、今ではレトヴィクでも上位に位置する大店となっている。


 ケーニッツ伯爵領内で消費される分のジャガイモや油、砂糖の輸入を一手に引き受けることで年々事業規模を拡大しており、さらに経営者のイライザとマルコはアールクヴィスト大公国の貴族の身内となった。


 経済的にも政治的にもケーニッツ伯爵家から注目されており、御用商人に数えられる日も近いとまで言われている。


 そんなクレーベル商会の幹部として、マルコはここ数年、収穫が終わった時期になると自ら荷馬車隊を率いてノエイナへと仕入れに訪れる。そのときに泊まるのは、妹夫婦の家だ。


 今年も例年通りエドガーとアンナの家に上がったマルコは、まず彼らの息子であるテオドールに挨拶される。去年よりまた大きくなっただの、将来は賢くなりそうだだのと伯父らしく挨拶を返し、ひとまず居間のテーブルに落ち着いた。


「アンナはまだ仕事ですか?」


「ああ。君が今日来ることは分かっていたから、もうすぐ帰って来るとは思うが……内務長官ともなると、この時期はどうしても多忙みたいでな」


「エドガーさんの仕事がひと段落したら、次はアンナが忙しくなりますね。夫婦揃って大変だ」


「アールクヴィスト閣下から大切な役目を預かっているからな。仕方ないさ」


 収穫の只中の時期は農務長官であるエドガーが忙しく、その後に税の現金化の処理がなされる時期は、事務方のトップであるアンナが仕事に追われる。夏の前半は、夫婦でゆっくりすることもなかなか叶わない。


「ところで、イライザさんはお元気か?」


「元気すぎるくらいですよ。俺なんて一応もう一人前のつもりなのに、最近は『そんなことで将来ケーニッツ家の御用商人が務まると思ってるのか』と叱り飛ばされることも多いです。あの調子じゃ、当分は代替わりさせてもらえませんね」


「ははは、そうか。それほどお元気ならよかった。君は苦労するみたいだが」


 ため息をつくマルコを見て、エドガーは微苦笑する。


 その後はアンナが帰ってくるまで、公都ノエイナとレトヴィクそれぞれの情報を交換したり、他愛もない話に興じたりと、義理の兄弟の穏やかな時間が続いた。

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