第335話 遭遇と急報

 暖かい気候が続く七月の下旬。ノエインは国に籠って執務に励む穏やかな毎日を送っていた。


 ロードベルク王国とランセル王国を中継する貿易も軌道に乗って安定し始め、レーヴラント王国と大公国を結ぶ交易路の整備も予定通り進んでいる。


 私生活の面でも順調そのものだ。今年の春先に生まれた娘フィリアは日に日に成長し、息子エレオスは少しずつ「お兄ちゃん」らしくなりながら四歳になった。


 何もかもが問題ない日々の中で――今日のノエインは、マチルダに甘えたい気分だった。


「……マチルダ」


「ノエイン様」


 領主執務室の隅にある、臣下と簡単な話し合いをするための応接スペース。そこに置かれたソファにマチルダを座らせ、自身も隣に座って彼女と抱き合う。見つめ合い、互いの名前を呼びながら、口づけを交わす。


「ねえ、このまま、さ……」


「……はい」


 マチルダの唇から離れたノエインが囁くような声で言うと、マチルダは愛する主人が何を求めているかを理解して頷く。


 本来は仕事をするための部屋である執務室で、非日常の背徳感を求めてときどき愛を交わしているのは、ノエインとマチルダだけの秘密だ。もちろん、仕事の時間外に限るが。


 今日はそろそろ夕刻で、今はあまり忙しくない時期で、既に予定の執務は終えた。仕事を切り上げて、例のごとく秘密のひとときを過ごそうとして――


「ノエイン様、ペンスです。ご在室ですか?」


 扉をノックする音とともに、親衛隊長のペンス・シェーンベルク士爵の声が聞こえた。


 ノエインは小さく飛び上がり、慌ててマチルダから離れると執務机に駆け戻る。マチルダも即座に立ち上がり、唇を濡らす自分のものかノエインのものか分からない唾液を拭い、音は立てず跳ねるようにして自身の定位置である副官の執務席に戻る。


「入っていいよー」


 そして、ノエインは扉の向こうに、努めて平静な声色で呼びかけた。許可を受けて入室したペンスは、ノエインたちの様子に特に違和感を覚えた様子はない。


「何かあったの?」


 そのことに安堵しながらノエインが尋ねると、ペンスは姿勢を正して厳しい表情で報告する。


「レスティオ山地の交易路の整備現場で問題が起きました」


 それを聞いたノエインは表情を引き締める。傍らではマチルダも、既に副官としての顔になっていた。


「詳しく聞かせて」


「……整備現場にワイバーンが出たそうです」


「何だって!?」


 さすがに予想外の返答にノエインは声を上げた。


 ワイバーンの名前はノエインも知っている。ドラゴンの下位種族で、その強さは通常の魔物など比較にならないと。巨体で空を舞い、人どころかオークでも何でも簡単に襲い、捕食し、木々や建物さえ破壊すると。書物からの知識で学んだ。


 だが、実物を見たことはない。そもそもロードベルク王国の全体の歴史においても、ワイバーンとの遭遇情報はそう多くないはずだ。


「交易路の整備作業に当たってた連中が、昼頃に急にキルデに帰ってきたそうで。何が起こったのか聞くと、ワイバーンに襲われかけたと答えてるらしいです。警護に就いてた兵士の班長と傀儡魔法使い、それにレーヴラント王国の案内人を、ダントが馬車に乗せてこっちに送ってきました。一応は異国人もいるんで、今は屋敷の前で待たせてあります」


「……それじゃあ、すぐに会議室に入れて。詳しく話を聞こう」


 言いながら、ノエインは立ち上がり、自身もマチルダとともに会議室に移動する。


・・・・・


 ワイバーンの目撃者である大公国軍兵士と傀儡魔法使い、交易路の案内役のレーヴラント王国人と、ノエインは屋敷の会議室で対面する。ノエインとマチルダの他に、ペンスと軍務長官ユーリ・グラナート準男爵も同席している。


「まずは、無事に生還できてよかった。人夫たちも含めて人的被害はなかったと聞いてるよ。君たちのおかげだ、ありがとう」


「……い、いえ。自分たちは何も」


 ノエインが言葉をかけると、大公国軍兵士が答えた。その反応はやや鈍く、明らかに憔悴している。他の二人も精魂尽きた表情をしており、どれほど必死に逃げ帰ってきたのかが伺える。


「さあ、まずはお茶を飲んで少し落ち着いて。気持ちが安らいで元気が出るから」


 ノエインがキンバリーに指示して淹れさせた、ハーブを使ったお茶を口にする三人。少しすると多少は表情が落ち着く。


「それじゃあ、ワイバーンと遭遇した状況をできるだけ詳しく教えてくれるかな? 疲れているだろうけど頑張ってほしい。君たちの話だけが頼りなんだ」


「……了解しました」


 三人はぽつぽつと、自分たちが体験したことを語り始める。思い出すと恐怖を感じるのか、多少混乱した部分もあったが、彼らの話からおおよその状況が明らかになる。


 まず、彼らは人夫が十人、警護の兵士が四人、傀儡魔法使いが二人、そしてレーヴラント王家の従士だという案内人の計十七人で交易路の整備を行っていた。


 そこへ、グレートボアが現れた。レスティオ山地では珍しい強力な魔物ではあるが、それでも出くわすときは出くわす。このようなときのために『天使の蜜』の小瓶も装備している。想定内の事態として、兵士と傀儡魔法使いたちが対応に当たろうとした。


 しかしそのとき、上空から凄まじい雄叫びが聞こえ、その場にいた全員が本能的な恐怖で硬直した。グレートボアでさえ固まった。


 次の瞬間には空から飛来したワイバーンが、硬直した者たちの中で最も大きな獲物――体高が人の背丈を上回るグレートボアを足で鷲掴みにして持ち去ったという。


 ワイバーンはその日の食事はグレートボア一頭で十分だと判断したのか、整備作業と警護の面々には目もくれなかった。そのおかげで彼らは生き延び、ひとまず帰路に必要な最低限の水と食料のみを持って逃げた。


 またワイバーンが現れるのではないか。今度は自分が食われてしまうのではないか。そんな恐怖を抱えながら、本来なら四日かかる道のりを二日半の強行軍で踏破し、なんとかキルデに到着。


 疲労と恐怖で混乱しながらも、キルデの警備責任者である従士ダントに「ワイバーンが出た」ということだけは何とか説明し、現場の責任者格であったこの三人が報告のためにノエイナまで送られた。


 これが、事態の全容だった。


「それは……さぞ怖かったことだろう。よく生きて帰ってきてくれた」


 ノエインは唖然としながらも答えた。もしグレートボアと出くわしていない状況でワイバーンに飛来されていたら、彼らはただでは済まなかっただろう。人間の犠牲者が出なかったのは本当に幸運だった。


「ちなみに、そのワイバーンはどれくらいの大きさだった?」


 横からユーリが質問を挟むと、三人は口々にワイバーンの大きさを語る。が、内容がかみ合わない。頭から尾の先まで十メートルは超えていた、いや二十メートル以上だった等、意見が揃わない。


 どうやら遭遇時の恐怖で、ワイバーンが実際以上に大きく感じられた者もいるようだった。


 二十メートル以上だと語る兵士は三人の中で最も恐怖を覚えているようだったので、彼の意見はあまり当てにならない。最も冷静に見える、案内役のレーヴラント王国人が語る「十メートル以上だが十五メートルまでは届かない」がおそらく正確だろうとノエインたちは考えた。


「だいたい分かったよ、説明ありがとう。疲れているのに苦労をかけたね。今から僕たちはワイバーンへの対応を考える。とりあえず、整備作業は当面中止だ。レーヴラント王国の君は……宿を一室手配しよう。この件が片付くまでは国に帰れないことになるけど、我慢してほしい」


「は、はい。こればかりは仕方のないことだと思いますので」


 ノエインに言葉をかけられた案内役のレーヴラント王国人は、恐縮した様子で頷く。


 その後、ノエインは三人の退室を許し、家令のキンバリーに案内役のための宿を手配するように命じた。


 会議室に自身とマチルダ、側近たちだけになり、姿勢を崩してだらしなく椅子にもたれかかる。


「……まいったなぁ」


「よりによって、大公国の真北にワイバーンか」


「たまったもんじゃありませんね」


 ユーリは会議机に肘をつき、ペンスは頭をかく。皆、話を聞くだけで疲れていた。


 ワイバーン。それは生き物としてはドラゴンに次ぐ恐怖の対象だ。


 ドラゴンの扱いは国によっても異なるが、アドレオン大陸南部では概ね災厄として語られている。自然災害と同じ、遭遇しても不運だったと言うしかないものだと。


 ただし、遥か昔の神話の時代には数が多かったドラゴンも、今は世界に数えるほどしかいないと言われている。数十年眠って力を蓄え、目覚めると数十年活動し、また数十年眠るのをくり返すとされており、実際に遭遇する可能性は限りなく低い。


 現に、アドレオン大陸で最後にドラゴンが目撃されたのは今から三十年ほど前、ランセル王国よりも西の方だったという。


 なので、ドラゴンとの遭遇を日常的に気にかける者がいれば心配性が過ぎると笑われるが、ワイバーンは別だ。


 数年から十年おきに休眠と活動をくり返しながら生きるとされるワイバーンは、主に山岳地帯に棲む。レスティオ山地にも棲息しており、遭遇情報もある。ただし遭遇がそのまま死に結びつくことも多いためか、その例は歴史上でも多くはないが。


 寿命は長すぎて詳しいことは不明だが、千年以上生きるとも、殺されない限り死なないとも語られている。


 そして、強い。


 ドラゴンを除けば個としては最上級の強さを誇り、人やそこらの魔物など相手にならないと言われている。人が文明を発展させてきた結果、組織力を活かし、戦術を工夫してワイバーンを討伐したという話もあるが、実例は少ない。そうした例でも大抵は多くの犠牲を伴っている。


 ワイバーンは休眠中に蓄えた大量の魔力を体内に巡らせており、その魔力に満たされた鱗は硬く、矢や剣どころか生半可な攻撃魔法も通らない。巨体で空を舞うための補助として風魔法らしき技さえ使い、尾の一振りで木を叩き折り、強靭な足でどんなものも引き裂く。


 ノエインの知るワイバーンの情報は、そんなところだ。


「だけど、対応しないわけにはいかないよね……現れた位置を考えても、先のことを考えても」


 交易路の管理はアールクヴィスト大公国とレーヴラント王国が半分ずつ行うと決まっている。交易路上で速やかに解決すべき問題が発生した場合は、原則として管理を担う側の国が対応する。今回のワイバーンに関しては、明らかに大公国に対応責任がある。


 何より、ワイバーンが大公国の人里に降りてくる可能性もある。


 前回目覚めたときにはいなかった人間という餌が、山の南に渡れば何千と暮らしているのだ。ワイバーンにとっては、またとない狩場になるだろう。


 ワイバーンが食料を求めて山から出てきて、村や街が壊滅した例も実際にある。ワイバーンの討伐例も大抵は、そうした場面でさらなる被害を防ぐために人間たちが決死の覚悟で立ち向かい、勝利した際のものだ。


 そして、どうやらノエインたちもその討伐例のひとつに加わるべき状況にいる。


「……戦うか」


「……戦いましょう」


 そう呟いたユーリもペンスも、それに苦笑したノエインも、無表情のマチルダも、諦めにも似た覚悟を固める。


「とりあえず、キルデに増援を送った方がいいよね。今すぐは可能性が低いとはいえ、いつワイバーンが降りてくるかは分からないわけだし」


「そうだな。公都ノエイナにいる非番のクレイモアを全員。兵士も定期訓練中の班と非番の班を全員送る。バリスタも併せて」


 ノエインの提案にユーリが頷き、対応の内容を即断する。


「あとは、緊急会議だ。クラーラと、爵位持ちの皆と……あと、ダフネも呼びたいかな」


「了解でさぁ。そっちは親衛隊を使って連絡を回します」


 ペンスが頷きながら立ち上がる。


「よし、それじゃあ動こう」

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