第333話 自由と道徳③

「浄化の儀式」騒ぎからおよそ一週間後、ノエインは屋敷の会議室に、ダニエラと彼女に賛同する女性有力者たち数人を招いた。


 会議机の片側に自身とマチルダ、マイの三人で座り、向かい側にダニエラたちを座らせ――まず、ノエインは彼女たちに微笑む。


「急に呼び出して済まないね」


「……いえ、アールクヴィスト大公閣下のお求めとあらば、参上するのが民の務めと心得ておりますので」


 答えるダニエラは分かりやすく緊張している。他の女性たちも表情が硬い。「上申の件で詳しく話したい」と言われて君主に呼び出されたことを考えれば、これはごく普通の反応だ。


「ははは、そんなに緊張しなくて大丈夫だよ。別に叱責するために呼んだわけじゃないんだ。ただ、なかなか独特の上申内容だったからね。ぜひ直接、君たちの考えを聞きたいと思ったんだよ……とりあえず、お茶でも飲んで落ち着いて。僕がいつも愛飲してる、オッゴレン男爵領産のお茶だよ」


 対話のためには緊張を解かなければならない。ノエインは彼女たちにお茶を勧め、大公国建国後の民の生活はどうか、最近困っていることはないか等、他愛もない世間話でリラックスさせる。


 そして、ダニエラたちの表情がある程度柔らかくなったのを見て、本題を切り出す。


「それじゃあ……そろそろ上申の件について話そうか。まず、君たちの忌憚のない意見を、できるかぎり率直な言葉で詳しく聞かせてほしい。ここでどんな発言をしても一切咎めないし、罰することもないと約束する」


「……それでは、」


 ダニエラは覚悟を決めたのか、ノエインに言われた通り、言葉を選ばずに自身の意見を話し始めた。


 今、大公国の若者や子供たちの間で流行している物語や詩の創作が、いかに無秩序なものか。彼らの一部が書いている創作物が、いかに悪しき内容を孕んでいるか。


 それらが彼らの心にどれほどの悪影響を及ぼすか。彼らの道徳心をいかに破壊するか。


 このような流行を放置していては、アールクヴィスト大公国の社会に不道徳で不健全な文化が蔓延り、民の道徳心は失われてしまうだろう。そこまで言い切った。


 さらにダニエラは、大公立ノエイナ劇団が行っている一部の演目にも問題があるという持論を語る。


「悲恋の物語」と題して、既に伴侶のいる男女の逢瀬を美化する劇作品や、盗賊を滑稽な敵役にして面白おかしく描く喜劇などは、民に良くない影響をもたらすのではないか……そんな懸念を、淡々と述べる。


「文化芸術を愛されるアールクヴィスト閣下にこのようなことを申し上げることは、閣下への絶対の忠誠を誓う民の一人として、大変心苦しく思います。しかし、これが私たちの忌憚なき考えでございます」


「……うん、君たちの考えはよく分かった。勇気を出して語ってくれてありがとう」


 ダニエラの話を最後まで聞いたノエインは、最初と変わらない優しい微笑みをたたえて言った。その反応を見て、ダニエラたちは明らかにほっとしていた。


「創作と道徳ね。確かに難しい問題だ。君の言った通り、僕は文化芸術を、特に物語を愛している。大公立ノエイナ劇団の後ろ盾になっているし、書物も収集している……僕のこの趣味は、色々な書物を読みふけって過ごした幼少期からのものだ」


 ノエインの出自について、今のところ民の間では「王国南部のどこかの貴族家から、家内の何らかの揉め事の末に独立した」ということで知られている。なので、ノエインは自身の幼少期については詳細をややぼかしながら話す。


「僕が読んだ書物は歴史書や見聞録、知識を記した学術書もあったけど、物語本も多かった。古今東西の色々な作品を読んだよ……とても過激な内容の、君たちの言うところの『悪しき創作物』も少なくなかった」


 暴力の快楽に囚われた拷問人を描いた物語。成人男性と少女、あるいは成人女性と少年の愛を生々しく綴った物語。英雄であると同時に残虐な侵略者であった王の、さまざまな一面を容赦のない描写で見せる物語。


 先ほどダニエラたちが語ったものよりさらに「道徳的に問題がある」創作物も多かったと、そうした作品はロードベルク王国建国以前のものが多いと、ノエインは語った。


「さて、それでだけど……そうした物語を子供の頃にいくつも読んで育った僕は、君たちから見てどんな人間かな? 倫理観の破綻した、道徳心のない悪しき人間に見えるかな?」


 いたずらっぽく笑うノエインにそう問われた瞬間、ダニエラも、他の女性たちも青ざめた。


「も、申し訳……」


「ああ、ごめんごめん。今の聞き方は意地が悪かったね。君たちに僕を非難する意図があったとは思ってないよ。ただ、創作物に触れたからといって、そのまま人の考え方が変わってしまうわけじゃないと示す例のひとつに、僕自身の体験がなるんじゃないかと思ってね」


 怯え切った表情で謝罪を口にするダニエラが気の毒になって、ノエインはすぐにそう続ける。


「創作物の中には、確かに眉を顰めたくなるようなものもある。目を背けたくなるような、嫌悪を覚えるようなものを読んだこともあるよ。若い世代をそんなものに触れさせるのが心配になる気持ちも分かる。その上で言うけど……創作物は、所詮は創作物だ」


 ノエインのその言葉が意外だったのか、ダニエラたちは目を丸くした。マイも少し驚いた様子で視線をノエインに向け、マチルダだけが微動だにしない。


「物語、詩、演劇。絵画や戯画。それに歌も。色々な表現がされた、色々な作品がある。それらは人々を笑わせることも、感動させることも、興奮させることも、恐怖させることもできる。長く語られて歴史に残る名作もある……だけど、それでも所詮は作りものだよ。空想の中から生まれたか、史実を都合よく改変したものか。どちらにしてもね」


 静まり返る室内で、ノエインはそこで一旦お茶に口をつけた。そして、また口を開く。


「考えてごらん? 創作物に人の価値観を変えてしまうほどの力が、社会の価値観を変えてしまうほどの力があるなら、なぜ民に道徳心を説くミレオン聖教の寓話がたくさんあるのに、世の中から罪がなくならないの?」


 ミレオン聖教伝道会には、民の道徳心を育てる役割もある。親たちが子供たちに道徳を教えるためによく語って聞かせる古くからの寓話の類は、どれもミレオン聖教が教え広めたものだ。


「そ、それは……」


「……」


 ノエインの問いかけに、女性たちは答えを持たない。


「ね? 創作物には、それだけで人の心を大きく変えるほどの力はないんだ。まったくの無力ではないだろうけど、誰も彼もの価値観を完全に塗り替えるほどの力はない。それに、創作物よりももっと大きく、若い世代の価値観を動かすものが身近にある……君たち大人による教育だよ。やるべきこと、やってはいけないこと。それを教えるのが大人の役目だ」


 ダニエラたち一人ひとりと視線を合わせながら、ノエインは言った。


「不道徳な創作物も、あくまで創作物として楽しむのは構わない。だけどその中で描かれる不道徳な行為を現実でやるのは駄目だ。そう教えればいいんだ。若者たちも子供たちも馬鹿じゃない。創作物の中では許されても、実際にやってはいけないことがあると理解できるはずだよ。君たちの子供たちだってそうでしょう? そう教える力が、親である君たちにはあるはずだよね?」


「……もちろんです。私たちは、自分が良き親であると思っております」


 ダニエラたちはノエインの言葉に頷く。自身の教育の影響力が、空想の物語よりも劣ると考える親はいない。


「もちろん、どれだけ教育しても中には犯罪に手を染めてしまう者もいる。どれだけ頑張っても、きっと罪人を皆無にはできない。これは僕たちが人の子である以上、永遠に抱える悩みだと思う……だけど、人が罪を犯す根源的な原因は創作物じゃない。生活苦。怒りや恨み。怠惰。あるいは孤独。これらこそが人を罪人にする最大の要因だ。この点を見失って、他のものに責任を求めるのは、楽ではあるけど正しくはないと僕は思う」


 先日のユーリやマイの言葉も借りながら、ノエインはダニエラたちを諭す。


「であれば、親である君たちが成すべきは、若者や子供たちがそんな負の感情に囚われないよう教え、支え、寄り添うことだ。この国の主である僕が成すべきは、全ての民が生活苦から犯罪に手を染めなくていいように、豊かで安全な社会を守ることだ。僕は僕の責任を一生かけて果たす覚悟がある。君たちは、親としての責務を全うする覚悟はあるかな?」


 試すような視線で尋ねるノエインに――ダニエラは力強い視線を返し、口を開く。


「私にも誇りと自負がございます。子の親として、そしてこの国の社会の年長者として、若者や子供たちを教え導くことができると、自信を以て答えさせていただきます」


 彼女に続いて、他の女性たちもそれぞれ覚悟を口にする。


「なら大丈夫だ。この国の若者や子供たちは、正しい道徳心を持った良い人間へと成長していけるよ。僕たちがそれを守るんだ。皆のことを頼りにしているよ」


 君主から微笑みかけられて「頼りにしている」と言葉をもらったダニエラたちは、照れたような、誇らしいような、そんな表情になる。


「それにしても、創作の流行か……話には聞いていたけど、思っていた以上に広まってるんだね。僕の名のもとに、優秀な作品を表彰する場を作ってもいいかもしれない」


「あら、面白いお考えですね」


 ノエインの呟きに、同席しているマイが好反応を示す。


「ですが閣下……私もあまり書物に詳しいわけではございませんが、私の目から見ても、若者や子供たちの書いた物語はまだ稚拙でした。とても閣下のお目に触れるべきものには……」


「最初はそれでもいいさ。これからは読み書きのできる民がどんどん増えていくんだ。読み手も含めて創作を好む者は増えていくし、書き手も自由な環境で経験を積めば、腕が磨かれていくはずだよ。僕の方からも、そんな流れをさらに盛り上げたい」


 物質的な豊かさだけでは社会は成熟しない。心の豊かさも重要であり、それを育てるためには娯楽が多い方がいいし、民が文化芸術に触れる機会が増える方がいい。ノエインはそう考えている。


「本当に出来のいい作品があったら本の形にしてもいい。場合によってはカルロスに頼んで、劇団の演目に加えてもらってもいい。彼の伝手を頼れば劇作品の原作として国外に作品を広めることだってできると思う……君たちの子供の中から、作家になる者がいるかもね。もしかしたら歴史に残る名作家が生まれるかも」


 そう言われて、ダニエラたちは少しそわそわしながら顔を見合わせていた。


 作家は民の人気を集め、尊敬される高名な職業だ。自身の子がそうなれるかもしれない、歴史に名を残す者さえ出るかもしれないと言われれば、親なら浮き足立つ。


 先ほどまでの主張を考えると彼女たちの反応はやや現金だが、人はそんなものだ。落書き遊びには顔をしかめても、それが立派な文化芸術活動として為政者に拾い上げられれば、笑顔で見守ることができる。


「ははは、皆も若い世代の創作を前向きに捉えてくれたみたいでよかったよ……一応、僕は本気で言ってるからね。だからこれからも、彼らの創作の自由を守って、その上で人として正しい道徳心を保ってもらうために教え導いていこう」


「はい、閣下……感謝申し上げます」


 緊張感のある空気から始まった君主と民の会談は、和やかな、希望さえ感じられる雰囲気で終わった。

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