第十三章 拡大と発展
第325話 アールクヴィスト大公一家の日常
王歴二二〇年の秋。アールクヴィスト大公国の歩みは、ロードベルク王国、ランセル王国それぞれとの貿易体制を確立し、安定させる努力から始まった。
「――では、今後は我がベヒトルスハイム侯爵領よりは、このような内容で貿易を進めさせていただきます。アールクヴィスト大公閣下におかれましては、我が領より参る商人たちへのご配慮を賜りますれば幸いにございます」
「もちろんです。ベヒトルスハイム侯爵領は、ロードベルク王国北西部でも最も栄える大領。貴領の商人たちには一際丁寧に接するよう、臣下たちにもよく言い聞かせておきます」
ある日の午後、ノエインは屋敷の応接室で会談に臨んでいた。その相手はかつて自身が所属していた派閥の盟主であり、今日の話し合いで大口の取引相手となることが決まったジークフリート・ベヒトルスハイム侯爵だ。
彼は大貴族家の当主でありながら、貿易は最初が肝心だからと自ら来訪していた。ノエインと大まかな貿易計画の相談をするついでに、自領の商人たちについてノエインに口添えをする要領の良さも見せている。
「……なんというか、こういう立場でベヒトルスハイム閣下とお話するのは、やっぱりまだ慣れませんね」
「ははは、気持ちは分かるが、侯爵の身で大公のあなたに閣下と呼ばれてしまっては私こそ立場がないな」
苦笑したノエインに、ベヒトルスハイム侯爵も態度を崩して私的な口調で答える。
「だが、ロードベルク王国では単に年齢の上下や単純な力の大小で立場が決まるわけではない。つい数か月前まで同じ国であったアールクヴィスト大公国でもそれは同じだろう。あなたはあなたの立場に、できるだけ早く慣れるべきだろうな。私も公の場では、こうして気安く接することももうできないのだから」
「そうですね、気をつけます。失礼しました、ベヒトルスハイム……卿」
言いづらそうに返すノエインに、今度はベヒトルスハイム侯爵が苦笑した。
その後は少し雑談を交わして、今日は屋敷に泊まっていく侯爵を客室まで案内するよう家令のキンバリーに頼む。
キンバリーに案内されて侯爵が退室していき、マチルダと二人きりになった応接室で、ノエインは一仕事を終えた安堵の息を吐いた。
「お疲れ様でした、ノエイン様」
マチルダが労いの言葉をかけながら、テーブルに置かれていたノエインのカップにお茶を注ぎ足す。それを口にしながら、ノエインは愛しの従者に笑顔を向けた。
「ありがとうマチルダ……隣においで」
そう言いながらノエインはソファの端に寄り、空いたスペースにマチルダを座らせる。彼女に寄りかかり、温もりと柔らかさを感じながらまた安堵の息を吐く。
「先週はオッゴレン卿で、今日はベヒトルスハイム侯爵。数日中にはマルツェル伯爵の御用商人が来るんだったね、確か」
「はい。その後、来週の半ばにはヴィキャンデル男爵閣下がご本人自ら、それと数日違いでシュヴァロフ伯爵閣下のご嫡男様が遣いとしてお越しになります。再来週からはランセル王国側の貴族や大商人も参上予定です」
「ああそっか、ランセル王国の方もあったね」
アールクヴィスト大公国の各所は都市開発の只中にあるが、それでもまだまだ外国の商人を受け入れるキャパシティは十分とは言えない。国内の商人の数も、急いで増やしている最中だ。
そのため、初期から貿易に参入する予定の貴族たちは、ノエインと事前に打ち合わせを行い、自領の商人がどんな品を持ってどの程度のペースで何人訪れる予定かを伝え、スムーズに売買を進めるために便宜を図ってもらおうとするのだ。
「貿易体制が安定するまでは仕方ないけど、ほんとにひっきりなしにお客さんを迎えないといけないね……まあ、皆向こうから来てくれるようになったから楽だけど」
今やノエインより「偉い」位を持つのは、王であるオスカーやアンリエッタくらいだ。貴族たちでは用事があっても、目上の立場にいるノエインを呼びつけることはできない。
ノエインは自国で待っているだけで、皆の方から話をしに来てくれる。その点に関しては間違いなく以前よりも気楽だった。
「……ノエイン様、やはり少しお疲れのようですね」
「そうだねぇ。建国してからはゆっくり休みもとれてないし……だからマチルダ、少しだけ」
「もちろんです。ノエイン様のお望みのままに」
甘えるような表情でマチルダに呼びかけたノエインは、そのまま彼女に抱き寄せられ、唇を重ねた。
主君が応接室を使っていることは家令のキンバリーが使用人たちに周知させているはずなので、ノックもなしに誰かが入ってくることはない。そして、マチルダがノエインの求めを拒むことはあり得ない。
さらに、ノエインはこの国で一番偉いので、いつどこで愛する従者とイチャつこうが文句を言える者はいない。
マチルダと二人きり、静かな癒しのひとときを過ごしてから、ノエインは領主執務室での仕事に戻った。
・・・・・
アールクヴィスト大公家の全面的な支援を受け、公妃であるクラーラ・アールクヴィストが校長を務める大公立ノエイナ高等学校では、基礎の基礎からやや高度な内容まで、幅広い教育が行われている。
小作農家の子供でも、今では大半が農閑期に簡単な読み書き計算を習いに来るようになった。生活に余裕のある自作農家の嫡子などは、将来の地主として高い教養を身につけるべく、農閑期以外でも日常的に学校に通っている者も多い。
そして今、増築によって以前よりも規模を増した校舎の一部屋では、高度な内容を学ぶ生徒たちに向けて、校長クラーラが自ら教鞭を執っていた。彼女が教えるのは歴史で、今の内容はアールクヴィスト大公国建国までの現代史だ。
「――以上のようにして、偉大なるノエイン・アールクヴィスト閣下は南西部大戦においてバレル砦の防衛を成し遂げられました。圧倒的に不利な状況で防衛線を死守した功がオスカー・ロードベルク三世陛下に認められ、閣下は士爵から準男爵へ陞爵。このことは領内にも布告されたので、皆さんも当時のことは覚えていると思います」
高等教育を受けているのは、自作農家の長男長女が主だ。その齢は一二歳から一四歳程度が多く、中には成人してから金銭的に余裕ができて学びなおしている十代後半の者もいる。
南西部大戦は今から六年前。ほとんどの生徒が当時には物心がついていたので、クラーラの言葉に頷く。
「そしてこの頃より、アールクヴィスト閣下のお名前は王国北西部のみならず、王国全土に少しずつ聞こえ始めます。閣下の才覚への好評から、いわれのない悪評まで、閣下について語る王国貴族が増えていきます。閣下にとっても、このアールクヴィスト大公国にとっても、南西部大戦は重要な一幕と言えるでしょう……はい、ヤコフ・グラナートくん」
質問のために手を挙げた、八歳にして高等教育の教室にいる準男爵家嫡男の少年にクラーラは声をかける。
「はい。校長先生は『いわれのない悪評』とおっしゃいましたが、どうしてアールクヴィスト閣下を悪く言う人がいたのでしょうか?」
「とても良い質問ですね。閣下の悪評を語る貴族がいたのは何故なのか。それは、一部の貴族が己の立場や価値観を守るため、世に頭角を現したアールクヴィスト閣下への警戒心や嫌悪感を強めたからです……簡単に言ってしまえば、嫉妬や仲間外しと同じです」
貴族社会の話から嫉妬や仲間外しなどという身近な言葉が出てきたからか、ヤコフを含む生徒たちは微妙な顔になった。
「昔からの伝統ある貴族の中には、アールクヴィスト閣下の台頭で自分の立場が脅かされると思った人もいました。また、閣下は斬新な発案の数々を以て道を切り開き、獣人であっても能力を正しく評価して重用したりと、王国の今までの社会構造とは違う価値観も持っておられます。伝統や慣習こそ正義だと考える貴族の中には、それが面白くない人もいたのです……このような話を聞いて、どう感じますか?」
「……良くないことだと思います」
クラーラに視線を向けられた一人の生徒――獣人の少女がそう答える。
「そうですね。伝統や慣習は世の中の秩序を保つためのものですが、いずれ変えるべき時も来ます。世の中をより良き方向へ進めるための発想を、伝統や慣習のみを理由に非難するのは本末転倒であり、とても愚かなことです。しかし、実際にはそうした言動に走る者がいました」
嘆かわしい、と言うように小さく首を振ってため息をつき、クラーラは続ける。
「このように閣下を悪く言う声は、今も尚あります。ベトゥミア戦争でロードベルク王国を救い、アールクヴィスト大公国建国のきっかけを作った閣下の画期的な戦略についてさえ、『悪魔の発想だ』などと暴言を吐く者がいます」
クラーラの言葉を聞いた生徒たちがざわめく。幼い頃よりこの地から出ることなく育ってきた彼らにとって、現人神も同然だと教えられてきたノエイン・アールクヴィスト閣下を悪魔と罵る者がいる、という事実は理解し難いものだ。
「ですが、閣下はそのような風評を意に介しておられません。何故なら、閣下にとって最も大切なのは、民の幸福とこの地の発展だからです。遠くの貴族から悪口を言われないようにすることよりも、自身の庇護する民を愛し、民に愛されることの方がずっと大切であると閣下は考えておられます」
一転して笑顔になり、クラーラは教室全体に語りかける。
「閣下の慈悲深さと、民のために努力を惜しまないその強さこそが、私たちの幸福を実現しているのです。ノエイン・アールクヴィスト大公閣下こそが真の貴族、真の為政者と言えるでしょう。皆さん、どうかそのことを心に留め、閣下の庇護を受けるアールクヴィスト大公国民の一員であるという自覚を持ち、アールクヴィスト閣下への敬愛を忘れずに日々を過ごしましょうね」
「「「はい、校長先生」」」
歴史教育に、時おり愛国教育も交えながら、公妃であり校長であるクラーラの授業は日々行われている。
・・・・・
アールクヴィスト大公家の嫡男であるエレオスは、この夏で三歳になった。まだ幼いので、両親が仕事をしている日中は、主に屋敷の居間で遊んで過ごしている。
その面倒を見るのは、屋敷の使用人たちの仕事だ。基本的には、手の空いている者が交代で遊び相手になっている。
「ねえメアリー、これはなんてよむの?」
「これは『オーク』ですよっ、坊ちゃまっ!」
今日のエレオスは、魔物の図鑑を眺めて過ごしている。まだ文字は読めないが、挿絵の多いこの図鑑は幼児の彼にとっても興味を惹かれるものだ。
隣についているのは、正午過ぎから夕方前までエレオスの世話係になったメイド長のメアリーだ。
「オークって、ときどきごはんにでてくるお肉のオーク?」
「そうですっ、もともとはこんなにおっかない見た目の魔物なんですよーっ」
首をかしげるエレオスに、メアリーは図鑑の挿絵を指差しながら答えた。
「ねえねえ、オークっておっきいの?」
「私は直接見てはいませんが、大人のオークは二メートルはあるそうですっ。えっと……ノエイン様が普段使われてるゴーレムと同じか、それより少し大きいくらいですねっ」
メアリーが立ち上がって手を伸ばし、大きさを示してやると、エレオスは目を輝かせた。
「すごーい、そんなにおっきいんだ……うごいてるところを見てみたいなぁ。オークはどこにいるの?」
「ベゼル大森林の奥地にいますけど……危ないから坊ちゃまはきっとまだ連れていってもらえないですねー。大きくなったら、見る機会もあるかもしれませんっ」
苦笑いしながらメアリーが答えると、エレオスは「はやくおっきくなりたいなぁ」などと呟いている。
そして、エレオスはふとメアリーの方に――妊娠によって、見て分かる程度に大きくなってきた腹部に興味深げな視線を向けた。
「ねえねえ、メアリーのおなかにも赤ちゃんがいるの?」
「そうですっ、旦那のアレインとの、初めての赤ちゃんですっ」
「ふうーん。あのね、ははうえのおなかにもね、赤ちゃんがいるんだよ。ぼくのおとうとかいもうとなの……ねえメアリー、赤ちゃんってどうやってできるの?」
その問いかけに、メアリーは固まった。もちろん自分の腹に赤ん坊を抱えているのだから作り方は知っているが、三歳の子供に教えることではない。
「ねえねえメアリー」
「そっ、それはですねっ……あっ、キンバリー! 坊ちゃま、キンバリーは賢いから詳しく教えてくれますよ、きっと!」
丁度通りかかった家令のキンバリーにメアリーが話をぶん投げ、エレオスも彼女の方を向いた。
「ねえキンバリー、赤ちゃんってどうやってできるの?」
それを聞いたキンバリーは、心なしか冷たい視線をメアリーに向ける。どうしてそんな大変な話題になって、しかもそれを私に振ったのか、という非難の視線だ。エレオスから見えない位置で、メアリーがごめん、と言うように両手を合わせる。
小さく嘆息し、キンバリーはエレオスと視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。
「……坊ちゃま。人が子を成すというのは、とても特別で神聖なことです。なので、一使用人である私が勝手に坊ちゃまにお教えするわけにはまいりません。このような大切なお話は、旦那様、あるいは奥様に直接お尋ねするべきかと思います」
そして、キンバリーもまた返答を投げた。一応は尤もな理屈を添えながら。
「そっかぁ……じゃあ、ばんごはんのときにちちうえにきいてみよう」
その言葉にメアリーが「ぶふっ」と声を漏らし、キンバリーの口元がピクリと動く。
今夜の食事中、息子からのまさかの問いかけでワインを吹く羽目になることを、ノエインはまだ知らない。
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