第290話 対峙②
「さ、三百億レブロですって!? それは、それはあまりにも……」
「全て貨幣で用意しろとは言わん。そんな大量のレブロ通貨は流通していないだろうからな。貴国の通貨も、もらったところで使い道がないので要らん。三百億レブロ相当のものを寄越せということだ。金でも銀でも、宝石でも、馬や家畜でもいい。貴国の魔導馬車や複合弓でも、船でもいい。職人や船乗りを奴隷として寄越してもいいぞ? ああそれと、貴国が攫った私の民は全員返してもらおう」
「いえ、そういう話ではなく……賠償金の支払いというのは、我が国は承諾しかねます。奴隷の返還もできかねます」
「何故だ? 貴国は撤退するのだ。逃げ帰るのだ。すなわち貴国は敗戦国だ。勝者が敗者に賠償を要求することの何が悪い? 損なわれた財産を、奪われた民を返してもらうことの何が悪い? 古今東西、どの国も行ってきたことであろう?」
たたみかけるオスカーに、ディケンズ議員は苦虫を噛み潰したような表情になる。
これも当然だとチャールズは考える。チャールズとてオスカーの言っていることが道理に適っていると思うのだ。実質的に敗走している現状で、ベトゥミア政府の理屈が通るわけがない。
おそらく、政府は端からロードベルク王国との講和が成立しなくてもいいと考えている。首相のフィルドラックは、ディケンズ議員に最初から期待などしていない。
ベトゥミア共和国にとってロードベルク王国は、いくつもある貿易相手国のひとつでしかない。貿易の規模で言えば重要な相手国とは言い難く、地理的にも遠く、本国が逆侵攻を受ける心配もない。莫大な額の賠償をするよりも、交渉を決裂させて国交を断絶した方が安上がりだというのが政府の結論だろう。
それが長い目で見て国にどのような悪影響を及ぼすかなど、富国派の連中は自分たちには関係ないことだと思っているはずだ。
「どうした? 私の言っていることが何か間違っているか? 早く答えよ、ディケンズ議員」
「いや、ですから……私は政府の意向を皆様方にお伝えすることが役目でありまして。我が国の政府は両国が共に今回のことを水に流し、禍根を残さないと確認し合い、この戦争を終結とすることを望んでおります。賠償の要求などは一切容認できません。それが――」
「ふざけるな!」
ディケンズ議員に罵声を浴びせたのは、オスカーではなく後ろに立ち並んでいた貴族の一人だ。室内が揺れるほどの怒声が不意打ちで響いたことで、ディケンズ議員が椅子から少し飛び上がる。
「話にならん! 我々を舐めるにもほどがある!」
「そうだ! こいつらは未だにロードベルク王国を馬鹿にしている!」
「水に流すだと!? どの面を下げて言っている! この蛮族どもが!」
十数人の貴族の中でも武闘派と思わしき者たちが口々に怒鳴る。爆発のような怒声が立て続けに響き、ディケンズ議員は反論の声を上げることもできない。
「殺してしまえばいいのでは?」
怒声の嵐の中で、場違いに高い、少年のような声が言った。会議室が一瞬静まり返る。
チャールズも、ディケンズ議員も、貴族たちも、声のした方――立ち並ぶ貴族たちの端に立つ、小柄な青年の方を見た。
「数はこちらが上です。このディケンズ議員とハミルトン将軍を今この場で襲い、拘束して人質にしてしまいましょう。そうすればベトゥミア兵たちも我々に手は出せません。彼らを人質にラーデンの外の野営地まで帰りましょう。そこで彼らをなぶり殺しにましょう」
おそらくはこの場で最年少であろう青年は、涼しい顔で恐ろしい提案を語る。
「そのあとは全軍でラーデンに攻め入りましょう。撤退を待つベトゥミア共和国軍はもう一万人もおらず、士気など皆無。簡単に制圧できるはずです。そのあとは将官を皆殺しにして、その首を一般兵士たちに渡してあげましょう。『お前たちの国の将官と政治家は、残っている一般兵士を生け贄に差し出すから金をくれと講和交渉の席で言ってきた。その強欲ぶりに怒りを覚えたので殺した』と伝えればいい。その上で兵士たちは帰しましょう」
「そ、そんなことをすれば、た、たい、大変なことになるぞ!」
ディケンズ議員が青年に指を突きつけながら苦し紛れに叫ぶと、青年はニヤリと、悪魔のような凶悪な笑みを浮かべた。
「どうせもとから講和を結ぶ気などないのですよね? 最初から国交を断絶させる気なのですよね? そのために我々が納得するはずもない条件を語っているのが丸わかりです。ならばその無茶な条件を語る政治家や、この侵略を指揮した将軍を殺してしまった方がこちらはすっきりします。それでベトゥミア共和国が怒ろうが、どうせ当面は再侵攻などできないのでしょう? 世論には厭戦の気と政府への不信感が広まり、社会は後遺症持ちを抱えすぎて混乱待ったなし。あなた方の首を差し出して一般兵士に先ほどの話を吹き込めば、それがさらに加速するでしょう」
こいつだ。
『天使の蜜』を使う地獄のような戦略を考え出したのはこいつだ。兵士たちに嘘を吹き込み、ベトゥミア社会の分断を図ったのはこいつだ。だからこのような若者が、王国の代表の一人としてここにいるのだ。チャールズはそう確信した。
「アールクヴィスト子爵、なかなか愉快な提案だな。どうする皆の者、やってしまうか?」
オスカーが言うと、先ほど怒声を発していた武闘派らしき貴族たちの目がぎらつく。
ラーデンはまだベトゥミア共和国軍の勢力下なので、ロードベルク王国側の代表団は各々が武装することを許されている。彼らの腰の剣に、彼らの手が伸びる。
「ひいぃっ! ま、お、お待ちを」
ディケンズ議員が悲鳴を上げながら椅子から転げ落ち、床を這って後ずさる。
会議室を警備していた警備兵たちも武器に手をかけるが、相手は十数人。それもチャールズとディケンズ議員の目の前にいる。本気で動かれれば警備兵の対応は間に合わないだろう。
「待たれよ、どうか待たれよ」
ロードベルク王国貴族たちが剣を抜いて一線を越える前に、チャールズはそれを制止した。と同時に警備兵たちにも武器を抜かないよう手で合図する。
「……交渉が決裂し、講和が成されない。それは両国の意見が揃わない以上は仕方のないことだ。国交の断絶も、状況が状況だけにやむを得ない。だが交渉の席で貴殿らが武器を抜き、ベトゥミア共和国の代表を殺してしまえば、ただ交渉が決裂したというだけでは済まない」
この場を収めるために、チャールズは思考を巡らせながら言葉を繋ぐ。
「侵略を決定した彼らのような、一部の政治家の考えだけがベトゥミア共和国の全てではない。時間を置けば、両国がより良い関係を築く道筋も生まれるかもしれない。だが正式な講和交渉の場で、全権を委任された代表が殺されれば、その可能性までもが完全に途絶える。我が国と終わりなき永遠の戦争に臨みたいのでなければ、どうか今だけは剣を抜かないでいただきたい」
それは現ベトゥミア政府を批判しているともとられかねない発言だが、今を切り抜けるためには他にいい台詞が思い浮かばなかった。
「ふん、いいだろう。大まけにまけて、今回は怒りを収めてやろう……貴殿も苦労してそうだな」
オスカーは笑いながら言った。もしかするとこれも脅しのために仕込んだ演技で、初めから本気でディケンズ議員とチャールズを殺すつもりはなかったのかもしれない。
最後にかけられた言葉についてはチャールズもまったくその通りだと言いたいところだが、さすがに口に出すことはできない。
「もうよい。貴国の茶番にこれ以上付き合ってられん。どうせ今の我が国には、貴国を追い返す以上の力はないのだ……だが、我々が今のままでいると思うなよ。これから我が国は、貴国に匹敵する強靭な国家へと進化を遂げて見せよう。貴国が侵略する気を起こさぬほど強靭な国家へとな。次に我が国を訪れるときは、賠償について考えをまとめておけ」
オスカーはチャールズとディケンズ議員を鋭く睨むと、立ち上がった。
「我々は帰らせてもらう。貴殿らも早く国に帰るがいい。この国から失せろ」
踵を返すオスカーに続き、貴族たちが退室していく。
最後の一人が――例の小柄な青年がチャールズの方を振り返った。チャールズと目が合った青年は、何の感情も見せずに、チャールズたちに何の興味もない様子でまた視線を戻し、部屋を出ていった。
警備兵と書記官と、ディケンズ議員と、チャールズだけが残された会議室が静まり返る。
その静寂を破ったのはディケンズ議員だった。
「は、ハミルトン将軍、先ほどの発言は政府と首相への背任ととられても仕方のない内容ですぞ!」
「……」
よりにもよって今言うのがそれか。そう思いながらチャールズは天を仰いだ。今回ばかりはため息を堪えることもしない。
「あれはディケンズ議員の身をお守りするためにやむを得ず言ったことです。私がああ言わなければ、今ごろ我々は彼らに捕らえられて、彼らの野営地に引きずられていたことでしょう。その果てに待っていたのは拷問と惨殺です」
「……ふん、そういうことにしておきましょう」
吐き捨てるように言ったディケンズ議員は床から立ち上がろうとして、立てなかった。
「こ、腰が。ハミルトン将軍」
「ちっ……警備兵、ディケンズ議員に手を貸して差し上げろ」
こいつの手を握るなど御免だ。チャールズはそう思いながら、警備兵たちに命じた。
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