第291話 区切り

 講和交渉が決裂した一週間後、ベトゥミア共和国軍全軍の撤退が完了した。


 ロードベルク王国があえて撤退期限を短く提示して急かした結果、ベトゥミア共和国軍は兵士を乗船させることを優先し、少なくない量の装備を放棄。さらに、略奪する予定だった物品の多くを運ぶことを諦めた。


 よって、ロードベルク王国は西部と東部で併せて二百台以上の魔導馬車や多くの馬、一度は奪われた鉄などの資源をはじめとして、ある程度の戦利品を確保している。当初要求した賠償金とは比較にもならないが、それでも何も得られないよりは遥かにましだった、


「……まったく、私が枕を高くして眠れるようになるのはいつになることか」


 ベトゥミア共和国軍から明け渡されたラーデンの中、ひとまずの司令部としたキヴィレフト伯爵家の屋敷で、執務室の椅子にどかりと座ったオスカーは愚痴をこぼす。


 戦争はひとまず終わった。だがこれは新たな戦いの始まりに過ぎない。オスカーにはこれから政治の世界での長い長い戦いが待っている。


 貴族社会を、王国社会を立て直し、ロードベルク王国と王家が弱っていないことを国内外に早急に示していかなければならない。問題は山積みだ。


「ははは、陛下はまだお若いのですから大丈夫でしょう。先代様は今の私と同じ年齢になられても、連日深夜まで執務に励んでおられましたぞ」


「馬鹿言え、父上のあれはただの仕事中毒だ。重要でも緊急でもない案件にあれこれと悩みながら取り組んで……だから早死にしたのだ。それに父上の代にはこんな大戦争も大凶作もなかった。抱える苦労では私の方が上だ」


 笑いながら先代国王の例を出したのは、北西部閥の盟主ジークフリート・ベヒトルスハイム侯爵だ。他に人の耳がないこともあり、オスカーはざっくばらんな態度で彼の言葉に答える。


「確かに陛下の取り組まれる仕事は、歴代国王の中でも群を抜いて大変なものでしょうな。ですが、このようなときにお支えするために、我々のような臣下がいるのです」


「そうだな……お前も派閥の方が大変になるだろうに、面倒をかけるな。ベヒトルスハイム侯爵」


「私の派閥盟主としての仕事など、王国全体を立て直すための陛下の御苦労とは比べるのもおこがましいほど些細なものです」


 実際にはベヒトルスハイム侯爵にも相当な苦労が待っているはずだが、あくまで謙遜し、オスカーの国王としての顔を立ててくる。


「……まずは領主家が滅んだ貴族領の整理だな。それをしなければ王国社会の体裁を整えることもままならん」


 王国南部の上級貴族は全部で五十七家。そのうち三十二家で当主が死んだ。それらの家のうち、嫡子や嫡孫、未婚の兄弟などが生きており、跡継ぎが残っていると確認がとれたのは二十家だけだ。


 つまり残りの十二家は、完全に家が滅びたと考えなければならない。南部の上級貴族家の二割以上が失われた計算だ。上級貴族だけでこれである。下級貴族まで含めれば、滅亡した家がどれだけあるか分からない。今の南部の貴族領は空白だらけだ。


 跡継ぎが生きていた貴族領も、多くはまだ成人にも達していない者が凶作と戦争で荒廃した領地をいきなり継ぐことになるのだ。下手をすれば立て直しに失敗して、さらに取り潰しの貴族領が増える。


 南西部に至っては盟主であるガルドウィン侯爵が死に、その子どもたちも死に、避難が間に合った嫡孫のうち最年長の男子がまだ七歳という有り様だ。副盟主だったアハッツ伯爵家当主も死んでいる。どうやってまとめるかを考えただけで頭が痛くなる事態だ。


「その点につきましては、私を含む三派閥の盟主や内務大臣のスケッギャソン侯爵がお力になれるでしょう。このような仕事は我々も初めてですが……まあ、どうにかなります」


「ああ、頼りにしている。地方閥の理屈については、王家ではいまいち分からんことも多いからな」


 そう言ってオスカーは微苦笑した。


 各貴族閥と、王国中央の武家貴族や宮廷貴族。どの勢力からも大きな不満が出ないようにしつつ、貴族社会を再編しなければならない。


 王の権限で『天使の蜜』を用いた邪道極まる戦略を強行したため、そのことで一部貴族が今さらになって不満を示し始めているとも報告が上がっている。王家の支持や権威の回復も急務だ。


 これからの仕事を考えただけで目眩がする。


「とりあえず、私はなるべく早く王都に帰らなければな……」


「そうですな。南東部の秩序回復についてはひとまずビッテンフェルト侯爵とシュタウフェンベルク侯爵がいれば大丈夫でしょう。南西部については私が何とかします」


 まずは農民が農業を、商人が商業を、職人が工業を、軍人が国防と治安維持を行う通常の社会に戻す。それが王国南部の最初の課題だった。


・・・・・


 ベトゥミア共和国軍は撤退し、王国南部のひとまずの秩序回復は国王や大臣、派閥盟主格の大貴族たちが務めるとなれば、一辺境貴族であるノエインにやるべきことはない。


 あとはラーデンまで同行したアールクヴィスト領軍の面々と共に、自身の領地へと帰るだけだ。


 なのでノエインは最後に、因縁の地を――かつて自身が暮らした、伯爵家の敷地の隅を訪れた。マチルダのみを連れて。


「……さすがにもう、何の面影もないね」


 最初にノエインはそう呟いた。


 ノエインとマチルダがここを発ったのはもう八年以上も前の話だ。あの父親が、忌まわしき庶子の暮らしていた離れをそのまま残しておくはずがない。建物が取り壊されて八年も経てば、地面には草が生い茂り、そこに何かがあった気配など消え去っている。


 ノエインはかつて離れがあった場所に、今はただの草むらでしかない場所に足を踏み入れる。


 これほど狭かったのか、と思った。


 前を向けば、そこにあるのは伯爵家の敷地を囲う石壁だ。右を見ても、あるのはやはり石壁だ。


 左を向けば、この離れを隠すように作られた小さな林が見える。後ろを振り返れば、やはり林と、本館の方へと続く道が見える。


 これらは確かに、かつてノエインが離れの窓から見ていた景色だ。九歳でこの場所に閉じ込められ、ここで十五歳までを過ごした少年には、この景色はもっと広いものに感じられた。この景色だけが、ノエインの生きる場所だった。


 だが今のノエインは違う。ノエインは自身の領地を得た。そこを開拓し、発展させ、多くの家臣や民に囲まれて暮らすようになった。領外には多くの協力者を得た。友人も得た。


 貴族としてさまざまな地に足を運んだ。ときには異国の地にさえ足を踏み入れた。


 ノエインはもう、世界を知っている。書物の知識として学んだだけではない。自身の目で、自身の足で、世界を知った。


 自分は変われたのだ。自分自身の手で、自分自身の人生を変えて見せたのだ。


 自分自身の努力で、幸福を掴んで見せたのだ。


 その自負は確かにある。だが、それを比較するための小さな離れは、もうどこにもない。


 そして、ノエインに小さな離れを与え、それと引き換えにあらゆる自由を奪った父親ももういない。ノエインが復讐すべき、幸福になった自分を見せつけるべき存在は、この世のどこにもいない。


 立ち尽くすノエインの隣に、マチルダが無言で寄り添う。ノエインの両肩に優しく手を添える。


「……あぁ」


 ノエインは呟いた。ノエインは今、気づいた。


 ノエインは父親を憎んでいた。


 ノエインの存在自体が間違いだと否定した父親を、心の底から憎んでいた。


 だからこそ、父親に復讐したかった。


 一度は奪われたものを自分の力で得て、自分の存在は間違いなどではないと、自分には価値があると示したかった。


 もっともっと復讐を進め、幸福になった姿をこれからも父親に見せつけたかった。


 見せつけて、思い知らせたかった。


 間違っていたのは自分の方だと、父親に認めさせたかった。


 自分が全て間違っていたと――ノエインもまた自分の息子だと、いつか堂々と言ってほしかった。


 認めてほしかった。


 愛してほしかった。


 あの父親の愛を獲得するという、最大の復讐を成し遂げたかった。


 それはもう、永遠に叶わない。その復讐だけは、ノエインがどんなに努力しても、もう成すことはできない。


「……っ」


 ノエインは膝から崩れ落ちた。その目からは涙がとめどなく溢れてきた。


 マチルダも膝をつき、ノエインを後ろから優しく抱き締めた。彼女の体温を感じながら、ノエインは泣いた。


 しばらく泣いて、やがて涙は止まった。


「……行こう」


 そう言ってノエインは立ち上がる。ノエインに合わせて立ち上がったマチルダの方を振り向く。


 泣き腫らした目はまだ少し赤いが、その顔には清々しさが浮かんでいた。


「もう、よろしいのですか?」


 微笑んで尋ねるマチルダに、ノエインも微笑んで頷く。


「うん、もう大丈夫……ここにはもう、用はないよ」


 ノエインの復讐は終わらない。ノエインは生きている限り、幸福を求め、幸福を守り続ける。いつか天国で、あるいは地獄でマクシミリアンと再会したとき、自分はお前よりも幸福に生きて見せたと言い放つために。


 だが、ノエインはもう復讐に囚われることはしない。ノエインは復讐のためだけに生きていくのではない。幸福に生きるために生きていくのだ。


 復讐に囚われず、自身の幸福な人生を歩む。それ自体がひとつの復讐だ。自分はもう復讐のことなど意識しなくていい。それ自体がまたひとつの復讐になるのだ。


 かつて離れの扉があった場所に、ノエインは立つ。そして、後ろに控えるマチルダの方を振り返る。


「帰ろう。僕たちの家に」


「はい、ノエイン様」

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