第289話 対峙①
ラーデンに到着したノエインは、まず国王オスカー・ロードベルク三世のもとへと挨拶に出向いた。
場所はラーデンの市壁の外に広がるロードベルク王国軍の野営地だ。オスカー率いるロードベルク王国軍は、未だにラーデンに入場せずに野営を続けていた。
王国東部と中央部のベトゥミア共和国軍が集っているせいでラーデンは未だベトゥミア兵でごった返しており、ロードベルク王国側が入る余地がない、というのがその理由だ。
「よく来たな、アールクヴィスト子爵。王国西部での奮戦ご苦労だった。よく防衛線を守り抜いてくれた」
「恐縮です、国王陛下。兵力を大きく損耗し、将として至らぬ点もありましたが、微力を尽くしました」
司令部となっている一際大きな天幕に入り、片膝をついて臣下の礼をとったノエインは、オスカーから労いの言葉を受け取る。
「ははは、それだけの戦果を挙げて謙遜するのはかえって嫌味になるぞ。ガルドウィン侯爵領を滅ぼした部隊と真正面から激突して、壊滅せずに攻勢に耐えきってみせたのだ。並大抵のことではない。素直に誇るがいい……敵側の代表との協議まではまだ日を要する。しばらく汝がやることはないだろう。野営にはなるが、よく休め」
「はっ。感謝申し上げます」
オスカーから退席の許可を得て天幕を出たノエインは、外で待っていたマチルダと合流し、ふとラーデンの方を見やった。
「……あのラーデンがこんな有り様になるとはね」
司令部が置かれているのはラーデンを一望できる丘の上だ。激戦による破壊の爪痕が残る都市内の様子がよく分かる。多くの建物が破壊され、石壁もところどころが崩れている。
無駄に大きいために一際目立つキヴィレフト伯爵家の屋敷も例外ではない。そこでも戦いがあったのか、あるいはベトゥミア兵の暴走に晒されたのか、本館の一部が崩れ、別館が焼け、倉庫も損壊しているのが遠目にもうかがえた。
ノエインを閉じ込めた豪奢な牢獄に、かつてのような荘厳さは今はない。
「ノエイン様」
ラーデンを見据えて立ち止まったままのノエインに、マチルダが少し心配そうに声をかけた。
「……大丈夫だよマチルダ。行こうか」
ノエインはラーデンから視線を離し、ユーリたちが野営の準備を進めている場所へと移動する。
・・・・・
五月も下旬にさしかかった頃。ベトゥミア共和国軍の完全撤退が残り一週間ほどで完了する目処がたち、併せて本国の政府から講和に関する指示が届いたことから、チャールズはディケンズ議員とともに講和交渉の席を設け、ロードベルク王国側の代表者たちと会談することになった。
場所は司令部として使用していたキヴィレフト伯爵家の屋敷の会議室だ。軍の代表として席につくチャールズは静かにロードベルク王国側の入室を待っているが、政府から講和の全権を委任されて隣に座っているディケンズ議員は、見るからに落ち着きがない。
「……ディケンズ議員。もう少し冷静になられては? 別に相手が殺しに来るわけでもないのですから」
「ええ、分かっています。分かっていますよ。私は至って冷静です。私は……」
見かねたチャールズが声をかけるが、ディケンズ議員はぶつぶつと呟きながら目が泳いでいる。
こんな男がどうして政府の代表にまでなれたのか。そう考えて小さくため息をついたとき、会議室の扉が開いて警備兵が入室してくる。その音だけでディケンズ議員が「ひっ」と声を上げる。
「ロードベルク王国の代表団が参られました。お通ししてよろしいでしょうか?」
ディケンズ議員が浮き足立った顔でチャールズを見てくる。チャールズは黙って彼の顔を見返す。こちらの責任者はディケンズ議員なのだから、彼が答えるべきだ。
「……わ、分かった。通せ」
少し裏返った声で言って、ディケンズ議員が立ち上がる。チャールズは無言で彼に倣う。
そこでまた扉が開かれ、ロードベルク王国の代表団が――オスカー国王を中心に、十数人もの男たちがどやどやと会議室に入ってきた。
ベトゥミア共和国側はディケンズ議員とチャールズ、他は書記官などの官僚が数人と、警備要員がこちらも数人だけだ。数で勝る相手側の威圧感を前に、ディケンズ議員があからさまに動揺する。
「ロードベルク王国国王、オスカー・ロードベルク三世である」
「べ、べとぅ、ベトゥミア共和国政府より全権を委任されております、議員のディケンズと申します」
「……ベトゥミア共和国軍最高指揮官、チャールズ・ハミルトン将軍であります」
堂々と名乗ったオスカー国王に対して、ディケンズ議員は小刻みに震えながら頭を下げる。チャールズは無表情で淡々と名乗る。
「へ、陛下、その……ロードベルク王国側は、代表者の方がずいぶんと多いご様子ですが……」
「これらは全員が王国を代表する貴族たちだ。むしろこれでも人数を絞った方だ。怖がらせてしまったかもしれないが、我慢してほしい」
オスカーの言葉に合わせてロードベルク王国貴族たちが笑い声をあげる。
これがベトゥミア共和国を撤退まで追い込んだ男たちか。チャールズはそう思った。
分かりやすく武人らしい者。老獪そうな者。狡猾そうな者。冷徹そうな者。年齢も、感じさせる印象もさまざまだ。なかには一見すると子どものようにも見える小柄な青年までいる。
ロードベルク王国は封建制国家だ。彼らはそんな国の貴族であり、彼ら一人ひとりが一城の主だ。ひとつの社会の支配者だ。彼らの表情からは、その自負と自信が確かに伝わってくる。
勝てないのも当然だ。
ベトゥミア共和国は巨大な国家だ。巨大になり過ぎた。巨大なまま安定し過ぎた。かつては国民による国民のための軍隊として誇りを備えていたベトゥミア共和国軍も、今や官僚組織のひとつでしかない。
最初は良くても、官僚組織や制度はいずれ腐る。人の手による組織の、人の善性に頼った制度の常だ。
実力が足りずとも要領の良さだけで出世をする軍人が増えた。誇りではなく保身のために働く将兵が増えた。現状を嘆いているチャールズ自身がその最たる例だ。この侵略戦争の序盤にディケンズ議員が言った「ベトゥミア共和国軍はいつの間にか弱くなっていたのでは」という懸念も、あながち間違いではない。
「さて、それでは早速、講和の交渉に移らせてもらおうか」
そう言ってオスカーと、側近級の大貴族だと思われる数人が席につく。その他の者は後ろに並んで立つ。
「どうした、ディケンズ殿? 貴殿も早く座るがよい。話し合いをするのであろう?」
「は、はい。失礼しました……」
促されたディケンズ議員は椅子に肘をぶつけ、テーブルに腰をぶつけながらおずおずと座った。その横で静かに席につきながらチャールズはため息をつきたい衝動を抑える。この調子では相手に主導権を握られたも同然だ。
「ではまず、そちらの条件を聞こう」
案の定、国王であるオスカーが話を切り出して交渉を進め始めた。
「……わ、我がベトゥミア共和国の首相であらせられるブランシュ・フィルドラック閣下は、貴国との関係回復を望んでおられます。互いに過ちを忘れ、以前のように友好的な貿易を行う関係を築いていくことを――」
「過ちとは?」
ディケンズ議員の言葉を遮ってオスカーが言った。声は静かだが、その中には底冷えするような怒りの感情が込められている。
「貴国は過ちを犯した。勝てない相手に侵略戦争をしかけ、相手の社会を蹂躙し、踏みにじるという過ちをな。それは分かる。では我が国は? 貴殿は今、『互いに過ちを忘れ』と言ったな。我が国はどんな過ちを犯したというのだ?」
オスカーの目が据わる。彼の横に並ぶ側近も、後ろに立ち並ぶ貴族たちも、全員が揃ってディケンズ議員を見る。
誇り高き貴族たちの、視線だけで射殺すような目だ。凄みが違う。チャールズは隣のディケンズ議員が恐怖のあまり漏らすのではないかと本気で心配する。
「……これは私個人の意見ではなく、せ、政府の見解ですが」
しかし、ディケンズ議員は腐っても政治家だった。怯えながらも、交渉の全権を委任された代表者として話を続ける。
「……貴国は『天使の蜜』と呼ばれる薬品を使い、卑劣な戦略をとりました。多くのベトゥミア共和国軍兵士を、もとは罪なきベトゥミアの国民である彼らを、後遺症で苦しめる戦略を敢行しました。しかし、政府はそんな貴国の過ちを、今後の友好のため――」
どんっ、と重い音が会議室に響く。オスカーが拳をテーブルに落としたのだ。ディケンズ議員が口を噤む。部屋の隅に立つベトゥミア共和国軍の警備兵が腰の剣に手を触れさせるが、チャールズが小さく手を上げて制すると、警備兵たちは直立不動の姿勢に戻る。
「我々は国を守るために手段を選ばなかった。それだけだ。侵略のために上陸したのは貴国だ。貴国は多大な犠牲が出ることも覚悟の上で戦いを挑んだのではないのか?」
「……」
ディケンズ議員は答えない。大した犠牲もなくロードベルク王国を占領できるという、楽観的な予想のみを頼りに侵略を決定した政府の代表者に、返す言葉があるはずもない。
「ハミルトン将軍、貴殿はどう考える? 貴殿も我が国が過ちを犯したと思うか? 戦いを挑んだ相手が死に物狂いの反撃をしてきたら、それを卑劣な過ちだと罵るのがベトゥミア共和国の軍人なのか?」
「……私はディケンズ議員を補佐するために同席しています。政府の見解について個人的な考えを述べる権限を、この場では有しておりません。どうかご容赦を」
チャールズはオスカーの問いに答えず、ディケンズ議員を助けることもしなかった。
「どいつもこいつも話にならんな。こちらの講和条件を言わせてもらおう……我々は貴国の侵略で被った損害の賠償金を要求する。三百億レブロだ」
その額を聞いたディケンズ議員が目を見開いた。チャールズも小さく眉を上げた。
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