第288話 東へ

 停戦協定が結ばれて二十日。これといった諍いもなく、西部におけるベトゥミア共和国軍の撤退作業は進んでいた。


 およそ六万弱が残っていたベトゥミアの西部侵略軍のうち、すでに四万近い兵が輸送船に乗って帰路についている。今ではロードベルク王国西部軍やランセル王国軍もアハッツ伯爵領の領都内に入り、ベトゥミア兵たちの撤退を見届けている。


「……あのパターソン将軍、本当に自分が西部で撤退する最後のベトゥミア軍人になるつもりなんですね」


「そのようだな。敵ながら肝の据わった見事な将だ」


 ロードベルク王国へと返還されたアハッツ伯爵家の屋敷。その執務室から港を眺め、ノエインはマルツェル伯爵とそんな言葉を交わす。


 ドナルド・パターソン将軍は、この港に帰り着いた全てのベトゥミア兵が乗船するまでは決して帰らないと語っていた。それはすなわち、もし期限内に撤退が間に合わなければ、ロードベルク王国西部軍の再攻撃を受けて死ぬ覚悟があるということだ。


 この撤退作業の完遂に将として自身の命を賭ける。彼個人のその姿勢には、ノエインたちも敬意を表さざるを得ない。


 ちなみに、アイリーン・フォスター大軍団長はそのパターソン将軍の命を受け、先に本国へと報告を行うために帰還済みだ。最後に挨拶に来たフォスター大軍団長に、ノエインはあらためて帰還後の彼女が何を成すべきかを念入りに吹き込んでおいた。


「まあ、この調子ならあちらも期限内の完全撤退を叶えられそうですけどね……」


 ノエインがそう呟いたとき、ノックとともに従士長ユーリが入室してくる。


「閣下、出発の準備が整いました」


「分かった、ご苦労様……マルツェル閣下、私はキヴィレフト伯爵領の方へ向かいます」


「ああ。もう危険はないと思うが、道中はくれぐれも気をつけろ」


「ええ、ありがとうございます。それでは……今をもって、私ノエイン・アールクヴィスト子爵はエドムント・マルツェル伯爵へとロードベルク王国西部軍大将の全権限を委譲します」


「私エドムント・マルツェル伯爵は、ロードベルク王国西部軍大将の全権限を確かに預かった。これより西部軍における全ての指揮は私がとる……では行くといい。西部軍の解散まで、私が責任を持って務めを果たす」


「はい。ではまた論功行賞の席で」


 執務室を出たノエインは、ユーリとマチルダを伴ってアハッツ伯爵家の屋敷を出る。軍隊の集結場所としても使えるよう広くスペースがとられた前庭には、ノエインに随行する護衛部隊と――西部軍の主だった顔ぶれが並んでいた。


 フレデリック・ケーニッツ子爵家嫡男、ヴィオウルフ・ロズブローク男爵、トビアス・オッゴレン男爵、ノア・ヴィキャンデル男爵、スネルソン・バラッセン子爵、ベラッド・アードラウ準男爵。その他の下級貴族や一般兵士、さらには農民兵と思われる者たちまで、数百人が並んでいる。


「……これは?」


「西部軍一同で閣下のご出発を見送りたいとのことです。主な将官と、兵士の中からも手の空いていた者が集まりました」


 きょとんとした顔のノエインに、ユーリが事情を説明した。


 さらに、列の中からフレデリックが進み出て、ノエインに敬礼を示す。


「ノエイン・アールクヴィスト子爵閣下。我々が生きて戦争を終えられるのは、閣下に指揮をとっていただいたからこそです。閣下のもとでこの戦に臨めたことを光栄に思います」


 フレデリックに続いて、列を作っていた全員が敬礼する。農民兵たちの見よう見まねの敬礼があまり様になっていないのはご愛嬌だ。


「……ありがとう。僕も君たちと戦えたことを誇りに思う」


 ノエインは一瞬笑い、表情を引き締めて答礼した。


・・・・・


 アハッツ伯爵領の領都を発ったノエインたちの一行は、右手側の遠くに海を、左手側には平原や丘、森を見ながら街道を進む。


「……にしても、この魔導馬車は凄いね。王国で量産できたら交通や流通が大きく発展するよ」


 かすかに潮の匂いを含んだ風を浴びながらノエインは呟く。


 キヴィレフト伯爵領ラーデンまでの移動には、ベトゥミア共和国軍から鹵獲した魔導馬車が使われていた。


 ノエインとマチルダ、ユーリ、ペンス率いる親衛隊、リック率いる狙撃部隊、そしてアレイン率いるクレイモアの一個小隊が、二頭立ての魔導馬車六台に分乗している。


 ラドレー、ダント、グスタフはアハッツ伯爵領に残っているアールクヴィスト領軍の指揮を務めているため、ここにはいない。


「鹵獲した魔導馬車は西部だけで五十台以上になるらしいからな。輸送が間に合わずにベトゥミア共和国軍が置いて行く分も出るはずだ。量産のための研究材料としては十分だろう」


「だね……うちの領地にも何台か欲しいな。ダミアンとダフネにあげて解析させたい。それに、どうせ戦後しばらくは領外に出かける用事も増えるだろうから、移動の足に使いたいな」


「ノエイン様の功績を考えれば、国王陛下か軍務大臣あたりに欲しいと言えばあっさりくれるだろうな」


 先頭から二台目の魔導馬車の荷台で揺られながら、ノエインはユーリとそんな会話をしている。ノエインの隣にはマチルダが静かに寄り添い、他にもペンスをはじめ数人の親衛隊が同じ馬車に同乗していた。


 アハッツ伯爵領の領都からキヴィレフト伯爵領ラーデンまでは、本来は急いでも十日かかる。しかし魔導馬車のおかげで、その行程は一週間ほどまで短縮できると見られている。


 街道には一定間隔で宿場町もあり、交通の要所であるためベトゥミア共和国軍にもあまり荒らされていないという。寝る場所に困らず、停戦済みなので道中の危険も少ない、馬車に揺られるだけののどかな旅だ。


「……! 先頭から停止の合図です。止まります」


 御者を務めていた親衛隊兵士がそう呼びかけ、馬車を停止させる。すぐさまペンスたちが下車して馬車を囲み、警護の態勢をとった。


「左手前方からベトゥミア兵です。数は十人ほど」


 先頭の馬車から兵士が伝えた。ノエインたちがそちらを見やると、確かにベトゥミア兵の一団が走り寄ってくる。


「襲撃……なわけないか」


「こっちは魔導馬車の隊列だからな。俺たちをベトゥミア共和国軍と誤認してるんだろう」


 ユーリの予想通り、ベトゥミア兵たちは喜びの表情を浮かべて走り寄ってきたものの、魔導馬車に乗っているのが友軍ではないと気づくと足を止めた。


 そして、武器を放り捨てて両手を上げながらやはり近づいてくる。


「降伏だ! 降伏させてくれ! 捕虜にしてくれ!」


 その小部隊の隊長らしきベトゥミア兵が叫びながら、ノエインたちの近くまで来て膝をつく。他のベトゥミア兵たちもそれに続く。


 隊長の腕には痛々しく血が染みた布が巻かれており、指が何本か足りないのが布越しでも分かった。他のベトゥミア兵も怪我をしており、その傷はどう見てもここ数日、停戦後に負ったものだ。


「……農民に襲われた口か」


 そう呟きながらノエインは馬車を降りる。その後ろにマチルダとユーリも続く。


 ここ最近はベトゥミア共和国軍への恨みを募らせた王国民によって、残党狩りが行われている。好き勝手に暴行や強姦、略奪をくり広げた報いとして、民に捕まったベトゥミア兵は凄惨な殺され方をしているという。


 正規軍に捕まった方がましだと彼らが考えるのももっともな話だ。


「私たちは重要な軍務のために移動中だ。悪いが君たちを捕虜にしている余裕はない」


 ノエインが言うと、ベトゥミア兵たちは絶望的な表情になった。


「この街道をたどりながら西に進んで、君たちが上陸した港に戻るといい。すでに両軍の間で停戦協定が結ばれて、ベトゥミア共和国軍は本国に帰る準備を進めている。都市はすでにロードベルク王国の管理下にあるが、帰還すると言えば問題なく入れるはずだ」


 それを聞いたベトゥミア兵たちは一転して表情を明るくする。ノエインはふと思いついて言葉を足す。


「……最後の輸送船の出港まであまり日数はないと思う。要人やその知り合いはともかく、間に合わなかった一般兵は容赦なく置いて行かれるかもしれない。君たちがベトゥミアの政治家や官僚の近縁者でもないのなら、急いだ方がいいだろう」


「っ! わ、分かった。感謝する!」


 ベトゥミア兵たちは弾かれたように立ち上がり、捨てた武器を拾いもせず西へと走っていった。


「……相変わらずだな」


「あはは、ありがとう」


 呆れ顔で苦笑するユーリに、ノエインも笑いながら答えた。


 ・・・・・


 キヴィレフト伯爵領ラーデンへの旅は何事もなく進み、七日目の夕刻。ノエインが連日と同じく馬車の荷台に揺られていると、御者を務める兵士が声を張った。


「ラーデンの石壁が見えてきました! あと二十分ほどで到着します!」


 それを聞いたノエインは、馬車の荷台から身を乗り出して前方を見る。子ども時代の読書生活のせいで多少悪いノエインの視力でも、巨大な港湾都市を囲む石壁の輪郭が見えた。


 他の者も座ったまま前方を見据える。マチルダは身を乗り出したノエインが落ちないように腰に手を添えている。


「……まさかこんなかたちで帰ってくることになるとはね」


 ノエインは呟いた。腰に添えられたマチルダの手に少し力がこもる。


 ユーリとペンスは何も言わないが、表情には複雑な感情の色が浮かぶ。


 ノエインにとって、ラーデンは二度と見るはずのない生まれ故郷だった。人生をかけて復讐すべき相手の支配する、忌むべき地だった。


 しかし今は、そのラーデンを前にしている。復讐すべき相手は、もうそこにはいない。


 キヴィレフト伯爵領への因縁があるのはマチルダも、ユーリも、ペンスも同じだ。


 ノエインたちを乗せた魔導馬車は静かに進み、ラーデンの石壁が次第に近づいてくる。

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