第279話 好転

「くっそおおお! ノエイン・アールクヴィスト子爵! 忌々しく小賢しい小僧が!」


 またもや敵の陣地を落としきれずに無念の退却命令を下し、西部侵攻部隊の野営地まで戻ってきた夕刻。アイリーン・フォスター大軍団長は司令部の天幕から他の将官も兵士も全員を追い出し、会議机に拳を叩きつけた。


 そのまま悪態を吐き続け、机の上に置かれた地図も、筆記具も、軍議で敵味方の兵を示すための駒も、滅茶苦茶に投げ落とす。


「……お嬢様。そろそろ落ち着かれてください。あなたは大軍団長です。あなたが平静を失っていては軍全体に動揺が広がります」


「はあ、はあ、はあ……そうだな。見苦しいところを見せてすまない」


 しばらく癇癪を起こしていたアイリーンは、武門の名家であるフォスター家に忠実に仕える分家の長で、自身にとっては叔父にあたる副官から言われ、呼吸を整える。


 士官としての有能さはもちろん、アイリーンの冷静さを保たせるための世話役として優秀であることも、彼が副官に任ぜられている理由だった。


 部下に顔を見せられる程度に落ち着いたアイリーンは、軍団長たちを天幕に入らせ、今後についての話し合いの場を設ける。


「今日の被害の報告はまとまったか?」


「はっ。死者がおよそ九〇〇。麻痺を負った者を含めて負傷者が三〇〇〇となっております」


「……そうか。今までで最大の激戦だっただけあって、甚大だな」


 アイリーンは表情を歪ませながらも、淡々とした声で呟く。


「しかし、敵にも相当な被害を与えております。敵側の死者は推定で五〇〇。その同数以上の負傷者もいるかと……敵部隊の数は半分を割りました」


「我々は後方からさらなる増援を呼ぶこともできます。次の攻勢で、必ずや敵は落ちますぞ!」


「次こそは、小賢しいロードベルク王国の野蛮人どもを皆殺しにしてやりましょう!」


 軍団長たちが興奮した様子で口々に叫ぶ。


 いい傾向だ、とアイリーンは思った。


 これまでの西部侵攻部隊の死者は三〇〇〇人に満たないが、敵の使う毒のせいで戦線離脱する負傷者の数が死者の数倍になっていた。戦闘が長期化していることもあり、将官の間にも疲れが広がってもおかしくない。


 しかし、アイリーンを囲む軍団長たちの士気は高い。兵士たちも、次の攻勢で決着がつくと言えばそれまでは士気を維持できるだろう。


 そして目の前の敵部隊さえ倒せば、ロードベルク王国西部は組織的な抵抗力を失い、ベトゥミア共和国軍の手に落ちる。


 自分はこの泥沼の戦いに、アールクヴィスト子爵との根比べに勝った。そう確信する。


「報告です! アハッツ伯爵領の西部侵攻軍本部より、『遠話』による緊急連絡です!」


 そのとき、司令部天幕に飛び込んできた兵士の声がアイリーンの思考に水を差した。


・・・・・


 思いつく限りの奇策を尽くし、その後は気合いに頼って力づくで敵の侵攻を退け、ノエインは疲れ果てていた。


 魔力切れ寸前まで戦い続けた翌日の朝。ようやく魔力もある程度回復した頃合い。ベッドに寝転びながら、ノエインはテントの天辺を見つめていた。


 考えているのは今後のことだ。次に攻勢を受ければ持たないだろう。かといって西部軍を解散させて敗走すれば、この南西部に位置するバラッセン子爵領や、友人の領地でもあるロズブローク男爵領を見捨てることになる。


 その後も敵の侵攻は広がり、王国北西部そのものが滅びる。北西部が落ちれば次は王国中央が、その後は王国東部が無防備な側面からの蹂躙を受け、王国の勝利はなくなる。


 そして、アールクヴィスト領も滅びる。


 それは分かっているが、この状況を打開するほどの妙案は思い浮かばない。


「……とりあえず、司令部に出向かなきゃね」


 敵にも手痛い損害を与えたので今日は攻勢はないだろうが、それでも司令部に出向かず寝ているわけにはいかない。疲れているのは自分だけではない。そう思ってノエインは無理やり体を起こす。


「しかしノエイン様、まだお体が」


「さすがにこの状況で大将が寝てるわけにはいかないよ……ごめんマチルダ、着替えるのを手伝ってもらっていいかな?」


「もちろんです。ノエイン様はどうかなるべく楽になされてください。私が全て行います」


 自身は座っているだけでマチルダに髪や体を拭いてもらい、軍服を着せてもらい、彼女の支えを受けて立ち上がるノエイン。


 まだ少しふらつく足でテントを出ると、本陣の中が少し慌ただしかった。


 何か非常事態が起こったのか。そう思い、ノエインは司令部の天幕へ急ぐ。


「フレデリックさん!」


「ん? ああ、ノエイン殿か。もう体は大丈夫なのか?」


「少しきついけど動く分には問題ありません……それより、何かあったんですか?」


 ノエインが緊迫した表情で問いかけると、フレデリックは少し戸惑ったような顔で頷いた。


「ああ……冗談のような話だが、敵が退き始めた」


「……は?」


 ノエインも怪訝な表情になって、少々間抜けな声を出してしまう。


「今朝になって、急に敵が大慌てで野営地を引き払う準備を進めているんだ。私も早朝に起こされて敵陣を見て、目を疑ったよ。近くまで斥候を送って、もう少し詳しく情報を集めてから君に報告を届けようと思っていたんだが……」


「何かの罠、という可能性はないんでしょうか?」


 司令部の天幕を出て、敵陣を見渡せる位置まで歩きながらノエインが問いかけると、隣を歩くフレデリックは首を横に振った。


「おそらく違うだろう。そんなことをしなくてもあちらは我々に勝てるだろうからな……それに、演技であれほど慌てているとは思えない。一部の部隊など、すでに後方へと撤退して行ったほどの急ぎようだ。ほら見てみろ、今も準備の整った部隊が退いていく」


 フレデリックが指さす先、下り坂の向こうに広がるベトゥミア共和国軍の野営地にノエインも視線を向ける。


 すると確かに、歩兵部隊が街道を南へと撤退していくところだった。それも百人隊ほどの小さな単位で、小走りの強行軍で。敵が少しでも多くの兵を少しでも早く後方に戻したいのが分かる。


 その光景はロードベルク王国西部軍の兵士たちにも当然見えている。いきなり敵が退いていく光景に、兵士たちは喜びと戸惑いが入り混じった反応を見せていた。


 本陣にいた士官や兵士たちも、敵陣を見つめて困惑した様子だ。ユーリやペンス、アールクヴィスト領軍の親衛隊兵士たちもそんな困惑の中にいた。


「ユーリ、ペンス、おはよう」


「おはようございます、閣下」


「おはようございます……敵はなんで退いてるんですかね?」


「んー、僕も分かんない。今調べてもらってるよ」


 視線は敵陣に向けたまま、ノエインは二人と言葉を交わした。


 その間も、ベトゥミア共和国軍は撤退の準備を進めている。こちらの逆攻勢を警戒してか一部の部隊は一応隊列を組んで戦いに備えているが、それも本当に最低限の一部だけ。敵に攻勢継続の意思がないのは目に見えて明らかだ。


「……ふふっ、敵が僕たちに恐れをなしたのかも」


「ははは、私もそう言いたいが、現実的な考察じゃないな。いくら嬉しい出来事でも、その理由が分からないと不気味だ」


 ノエインが引き攣った笑みを浮かべると、フレデリックも苦笑した。


 そこへ誰かが駆け寄ってくる足音が響き、ノエインたちは振り返る。後ろに立っていたのは対話魔法使いコンラートだ。


「ほっ、報告、です……王国中央の国王陛下より、アールクヴィスト閣下へ、『遠話』通信網による急ぎの報告です……」


「そっか、ご苦労様。慌てなくて大丈夫だから、少し落ち着いて」


 走ってきたためか息を切らせるコンラートは、ノエインの言葉に頷きながら少し息を整え、また口を開いた。


「ベゼル大森林道を経由して、ランセル王国のアンリエッタ・ランセル女王よりオスカー・ロードベルク三世陛下へ親書が届きました。それによると……ランセル王国が友軍として、この戦いに参戦するとのことです!」


 興奮した様子で言ったコンラートの声は大きく響き、本陣にいる他の者も一斉にコンラートの方を向いた。


「同じアドレオン大陸南部に生きる同胞として、我々も共に戦うと、ロードベルク王国各地の将兵にそう伝えてほしいと、言ってきたそうです!」


 泣き笑いの表情でコンラートが言うと、その場にいた士官と兵士たちが歓声を上げる。


「ランセル王国は第一陣として一五〇〇〇の兵を動員し、南西の国境からベトゥミア共和国軍の支配域内に攻め込み、西部における敵の補給拠点となっているアハッツ伯爵領を目指すそうです。進撃は親書が届く頃には始まるだろうと」


「……ということは、敵の西部侵攻部隊が退いてるのは」


「……ランセル王国軍の攻勢を受けて、後方の拠点を守るために退却命令が出たからか」


 ノエインとフレデリックはそう呟いた。


 ロードベルク王国西部におけるベトゥミア共和国軍の兵力は推定で七万。南西部の占領と、ロードベルク王国西部軍との戦いで、これまでにそれなりの死傷者を出していると予想される。『天使の蜜』で麻痺した負傷兵も移送が間に合わずにまだまだ残っているはずだ。


 おまけにベトゥミアの支配域は広く、兵力は各地に分散されて補給線は伸び切っている。そんなところへ一五〇〇〇もの軍勢による予想外の進撃を受けたら。いくらベトゥミア共和国軍とはいえただでは済まない。


「……マチルダ、『拡声』の魔道具を」


「はい、ノエイン様」


 ノエインは表情を引き締めながらマチルダに言い、彼女から『拡声』の魔道具を受け取るとすぐに配下の兵士たちへ呼びかけた。


「皆喜べ! 西の隣国であるランセル王国が、同じ大陸の同胞として共に戦列に並ぶと言ってくれた! ランセル王国はすでに進撃を開始している! 目の前のベトゥミア兵たちは、尻尾を巻いて南へと逃げ出している最中だ!」


 総数が三〇〇〇を切っている西部軍の兵士たちは、ノエインの言葉を聞いて大歓声を上げた。


「昨日の戦いの前に私は言った! この戦いを乗り越えれば援軍が来ると! 私の言った通り、ロードベルク王国に助けの手が差し伸べられた!」


 兵士たちはまた歓声を上げるが、ノエインの横ではフレデリックがぎょっとした表情を見せる。その反対ではユーリとペンスが少し呆れたような顔で小さくため息をつき、マチルダだけが無表情だ。


「戦況は変わった! 神は私たちに救いをもたらした! 勝利は近い!」


 ノエインが声を張り上げ、兵士たちが熱狂する。明るい表情でざわめく兵士たちを見渡し、ノエインは満足げな表情で後ろに向き直った。そこへフレデリックが声をかけてくる。


「確か昨日の戦いの前には、君は『援軍のあてなんてありません』と言っていたと思うが?」


「ん? さて何のことだか……」


 からかい口調のフレデリックに、ノエインもおどけた表情で答えた。


 もちろんこのタイミングでランセル王国が参戦してくることなど予想はしていない。そんな予想を立てられるはずもない。ノエインが兵士たちにばら撒いた嘘の期限と、思わぬ朗報が届いたタイミングが奇跡的にかみ合っただけだ。


 そしてノエインはその奇跡を何食わぬ顔でしれっと利用し、兵士たちの士気と、大将である自身への信頼を高めた。


「まったく君は……それにしても、ランセル王国はこんな時期に参戦か」


「なかなか強かですね。アンリエッタ女王にはきっと優秀な助言役がついてるんでしょう」


「そうだな。ランセル王国から見ても、ベトゥミア共和国軍の後方は『天使の蜜』による負傷者の扱いでかなり混乱しているはずだ。あとひと踏ん張りでロードベルク王国の勝利が見える絶妙な時期に、勝ち馬に乗りに来たのだろうな」


 ベトゥミア共和国軍はロードベルク王国南部に上陸するなり、東西の国境地帯を封鎖してランセル王国やパラス皇国とも睨み合っていたという。もしロードベルク王国が滅亡すれば、次に侵攻されるのは隣国だ。


 それに備えて軍備を整えていたランセル王国が、どうせなら自国の領土を戦場にすることなくベトゥミア共和国軍を撃退しようと、今のうちにロードベルク王国に助力するのは理解できる話だった。


「ランセル王国との正式な講和はまだでしたからね。今回の助力を理由に賠償金の減額くらいは狙ってるでしょうね」


 カドネ・ランセルならともかく、冷静な穏健派貴族に囲まれたアンリエッタ女王が伊達や酔狂で戦争に加わるはずもない。参戦の裏では絶対にさまざまな利益を見込んでいる。


 それを考えてノエインとフレデリックが苦笑するのをよそに、兵士たちは純粋な気持ちではしゃいでいた。

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