第252話 出陣までの日々③
「……久しぶりだな、ダフネ」
「ええ。元気そうで何よりよ、伯父様」
ノエイン・アールクヴィスト子爵に保護されて数週間後。エルンスト・アレッサンドリ士爵は、アールクヴィスト領に移住していた姪であるダフネとの面会を許された。場所はダフネの経営する魔道具工房の一室だ。
「最後に会った時とあまり変わらないな」
「ふふっ、それは伯父様だって同じでしょう。エルフの血はあなたの方が濃いんだから」
エルンストには八分の一、エルフの血が流れている。もはや「〇〇エルフ」などという呼称もつかない薄さだが、それでも血の影響で常人と比べると老化は少し遅い。十六分の一だけエルフの血を持つダフネも同じで、本人の端麗な容姿も合わさり、もう四十歳近いが実年齢より十歳は若く見える。
「……それで、伯父様は生きてラーデンを出られたみたいだけど。私の従兄弟たちはどうなったの?」
「二人とも王国軍にいるからな。安否は分からんが……ラーデンにいるよりはよほど生きている可能性もあるだろう」
エルンストは結婚が遅かったので、二人の息子は未だ二十代。長男はアレッサンドリ士爵家を継ぐまでの修行として、次男は安定した就職先として王国軍に放り込んでいる。二人とも王都勤務だ。王都が持ちこたえている限りは生きている可能性は十分にあるだろう。
「……そう。ならまだマシね」
そして、エルンストの妻も、ダフネの父にあたるエルンストの弟も、十年以上前の流行り病で運悪く死んだ。ダフネの母は彼女を産んだときに死んでいる。エルンストたちに、他に安否を気にするべき近しい家族はいない。
二人の間にしばし沈黙が流れる。部屋の外からは、職人や従業員たちが忙しく働く音が聞こえてくる。
「せっかく久しぶりに会う場所が私の仕事場でごめんなさいね。今は戦争の準備で、私たちも戦闘用の魔道具製造を急いでるから」
「ああ、それは構わんが……人を雇っているんだな。お前が」
「そうよ。事務員もいるし、今は弟子だって何人か抱えてるんだから」
かつてラーデンに工房を構えていた頃、ダフネは頑なに他の人間を雇わず、文字通り一匹狼で工房を運営していた。仕入れ業務や帳簿づけくらい人を雇って任せたらどうだというエルンストの言葉も聞かなかった。
「そうか……変わったな。表情も前より柔らかくなったように見える」
そう言われたダフネは、少し照れたような顔になる。
「ここでは、あまり他人を警戒しなくていいから」
「警戒?」
「ラーデンは商売の場としては確かに魅力があったけど、敵も多かったわ。油断すれば顧客か、技術か、下手をすればもっと直接的に設備や資金を盗まれることもあり得た。人を信用できないから、結局は自分一人で工房を経営するのがいいって結論になった」
ダフネは言葉を切り、お茶のカップを手に取って口にする。エルンストの前にもお茶が置かれているが、まだ手はつけられていない。
「だけどこのアールクヴィスト領は違うわ。新興の領地だからっていうのもあるんでしょうけど、皆で協力してここを発展させていこうっていう一体感に満ちてるの。ノエイン様の巧みな統治もあって、税や貧困に苦しんでいるような民もいない……ここでなら、私も一人で意地を張らずに、周りと協力してやっていけそうだと思ったのよ」
「……そうか」
穏やかに微笑むダフネを見て、エルンストも表情を柔らかくしてお茶に口をつけた。
「よかったな、ダフネ。いい領地に移住できて」
「あら、それって遠回しにキヴィレフト伯爵領が悪い領地だと言ってることにならない? キヴィレフト家の家臣がそんなこと言っていいの?」
「今はお前の伯父として話しているんだ。このくらいはいいだろう」
珍しく冗談らしきことを言ってきた伯父に、ダフネは小さく吹き出した。
・・・・・
アールクヴィスト子爵家の屋敷から近い一軒家を宿としてあてがわれたジュリアン・キヴィレフトは、勝手に外出することを禁じられ、領軍兵士に家を監視されながら退屈な日々を過ごしていた。
しかし保護されて数週間後、「これからは数日に一度、領軍兵士の監視付きで散歩に出ることを許す」とノエインから告げられた。
そして、その最初の日。妻のブリジットと、彼女の腕に抱かれた息子と共に領都ノエイナの中を歩いて見て回りながら、ジュリアンは呟く。
「……すごい」
「でもあなた、ラーデンの方がずっと大きな街でしたわ」
きょとんとした表情で言った妻に、ジュリアンは首を振って答えた。
「違うんだ、いや、違わないけど……何て言えばいいんだろう。ラーデンは、元から大きかった。僕が生まれるより、僕の父上が生まれるよりずっと前から大きな都市だった。だけどここは違うんだ。兄う……ノエイン殿は、自分でこの街を作ったんだ。だから、違うんだ」
もし自分が多少の金を渡されて家から放り出されたとして、十年足らずでこれほどの街を作り上げることができただろうか。そんなはずはない。きっと何ひとつできず、手切れ金を使い切って野垂れ死んでいただろう。ジュリアンはそう思った。
故郷を追われ、両親を失い、予定していた避難先の王都まで安全ではなくなって王国内をさまよう日々の中、自分は何ひとつできなかった。両親から「家族を守れ」と言われて見送られながら、家族どころか自分の身を守ることもまともにできなかった。
結局、やったのは異母兄に泣きつくことだけだ。
両親からは、卑しい庶民の血が混ざったノエインは貴族の血統を保つ自分たちよりも劣った人間だと、まともに相手をする価値はないと教えられてきた。馬鹿にしていいと、軽んじていいと言われてきた。
だが実際はどうだ。自分はエルンストに守られ、ロッテンマイエルに世話をしてもらい、ようやくここまで生き延びた。片やノエインは短期間で開拓を成功させてこの領都を作り上げ、この飢饉の年にも領地を混乱させることなく社会を安定させている。
この都市内を歩く民は、誰も飢えた様子がない。それどころか、誰もが幸福そうな、人生に希望を感じているような表情をしている。
ラーデンはこうではなかった。確かに街の規模も人通りも比べものにならない大都会だったが、人生に満足している富裕層と暗い顔の貧民が入り混じって生きていた。
「僕は……僕は、こんな凄いことはできない。ほんとは僕の方がずっとずっと駄目な人間なんだ」
ハルスベルク公爵領でオスカー国王に謁見し、ラーデンの最後について形式的な報告をした際も、国王はジュリアンに対しては「マクシミリアンの息子」という事実以外に何の興味も持っていない様子だった。ジュリアン自身を見てはいなかった。
一方のノエインは、明らかに一人の臣下として信頼された様子で、期待された様子で、国王から言葉をかけられていた。あの国王の態度の差が、異母兄と自分の差をそのまま表しているようだった。
冬でも明るい空気をまとった領都ノエイナの通りを歩きながら、ジュリアンは無力感に包まれる。
・・・・・
一月の下旬。出征の前日。この日ノエインは、戦地に赴く全員に午後からの休みを与えた。生きて帰れる保証のない大戦に向かう者たちが、家族とゆっくり過ごせるようにとの配慮だ。
そしてノエイン自身も休みを取り、マチルダとクラーラと、エレオスと穏やかなひとときを過ごしていた。
「あーあ。本当は今年から何事もなく平和に暮らせるはずだったのになー」
腕に抱いたエレオスを揺らしながら、ノエインは呟く。エレオスは揺さぶられるのが楽しいのかきゃあきゃあとはしゃいでいる。
その隣にはクラーラが座り、ノエインの肩に自分の頭をもたれさせている。出征前の夫とゆっくり過ごせる最後のひとときを、一秒たりとも無駄にしたくないと言うかのように寄り添う。
「クラーラにはまた領主代行を任せることになるね。今回は多分何か月か帰ってこれないだろうし……苦労をかけるね」
「私など、これから戦いに臨まれるあなたと比べれば苦労するうちに入りません。私への気遣いなど無用ですので……どうか無事に帰って来てください。あなたと、マチルダさんと、これからもずっと一緒にいたいのです」
不安げに、少し怯えた様子で答えるクラーラ。無理もないだろう、とノエインは思う。
これからノエインが、ロードベルク王国が臨むのは、未知の戦いだ。規模も、敵も、戦略も、全てにおいて前例がない。勝てる保証も生きて帰れる保証もない。
だが、それでも。
「大丈夫だよ。僕もマチルダも絶対に帰ってくる。約束する。こんな戦争に僕の幸福を邪魔させてたまるか。そうだよねマチルダ?」
「はい。ノエイン様は私が必ずお守りします。そして私もまた、これからも生きてノエイン様をお支えします」
アールクヴィスト領が豊かで平和でなければ、領民や部下たちが幸福でなければ、家族が幸福でなければ、ノエインも幸福ではない。
亡き父親への復讐のため、そして何より自身の満足感のため、ノエインは自分の幸福を守りたい。生きて幸福を享受し続けるために、戦いに勝って生還したい。そのためなら何でもする。ノエインは自分に固く誓っていた。
「……ぱあぱ。ぱーぱ」
と、ノエインの腕に抱かれていたエレオスが、父の顔に手を伸ばしながらそう声を発した。
それに少し驚いて、ノエインは目を丸くする。寄り添うクラーラも、マチルダも、エレオスに目を向ける。
最近は少しずつ意味のある単語を話すことが増えてきたエレオスだが、「ぱ」という音を二つ連続で発するのは難しいのか、ノエインをはっきりと「パパ」と呼べたことは今までなかった。
初めて自分の方を見ながらはっきりと言った息子に、ノエインは優しく微笑む。
「そうだよエレオス。僕が君のパパだ」
父親の表情を真似たのか、エレオスはノエインに向かってにっこりと笑って見せた。
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