第251話 出陣までの日々②

「……」


 領主直営の工房の事務室。クリスティは事務仕事の手を止めて、考えごとに耽っていた。


 ここ数週間、頭の中に何度も思い浮かぶのは、生まれ故郷ガルドウィン侯爵領のことだ。


 領主ノエインがハルスベルク公爵領での軍議から帰還した後、従士たちに王国南部の戦況や今後の反撃の概要が説明された。その中で、ガルドウィン侯爵領の領都が陥落し、敵の手に落ちたという情報も語られた。


 生まれ故郷に未練はない。家業の商会を守るために末娘のクリスティをあっさり奴隷として売った家族の安否はまったく気にならない。死んでいたとしても、ざまあみろとまでは言わないが、あらそうなのねとしか思わないだろう。


 だが、生まれ故郷と、おそらくだが家族やその商会までもが崩壊したという事実は、クリスティの心に小さくない変化を生じさせていた。


 自分はもうアールクヴィスト子爵領の人間だ。本当の意味で、自分の故郷はここだけだ。自分は人生の最後の日までここで生きていく。そんな覚悟が、この数週間をかけてあらためて決まった気がした。


「……よし」


 クリスティは立ち上がり、書類をまとめて筆記具を片づける。今やっていたのは明日の仕事の下準備だ。今日の業務はもともと終わっている。


 時刻は夕方だ。もう作業場の方も片づけに入っているだろう。


 そちらに移ると案の定、職人や奴隷たちが後片づけに追われていた。そんな中でダミアンは一応はこの場で一番偉い親方であるため、雑務は他の者に任せて椅子に座り、ぼんやりしながら頭と体を休めている。


「……あの、ダミアンさん」


「ん? おークリスティ! いやー今日は凄かったよ! 散弾矢の一日の製造数で新記録達成だ! やればできるもんだねえ!」


 いつにも増して真剣なクリスティの表情に気づかず、ダミアンは明るく声をかける。


「そうですか、お疲れ様でした。それで、あの……ちょっと大事な話が」


「去年の領外輸出のための大量生産! あれで職人たちの腕がまた一段と鍛えられたのが大きかったよねえ! バリスタとクロスボウの増産も予定以上に順調だよ!」


「ですね。それでダミア――」


「でもノエイン様もなかなか凄い命令するよねえ! 来月の出陣までに、普通の矢も含めて何万本作ればいいんだって話だよねえ!」


「っ! もうっ!」


 耐えかねたクリスティは顔を赤くして、いつまでも喋るのを止めないダミアンの肩を掴んで無理やり立たせると――そのままダミアンの顔を両手でぶにっと挟み込んで引き寄せ、その唇に自分の唇を重ねた。


「おぉっ!?」


 たまたまその現場を見ていた職人の一人が素っ頓狂な声を上げ、そのせいで他の職人や奴隷たちもそちらに注目する。いつも生真面目な工房長が、優秀だが変人である筆頭鍛冶職人の唇を奪っている衝撃的な光景をしっかりと目撃してしまう。


 さっきまで片づけ作業でガヤガヤと賑やかだった作業場が静まり返る。


「……ダミアンさん!」


「は、はい」


 唇を離して真っ赤な顔で言ったクリスティに、呆けた顔のダミアンが答える。


「これから一生、あなたのお喋りをずっと私が聞いてあげます。だから今は私の言葉を聞いてください……ダミアンさん。私とこれから一生、この地で生きて、この地で働きましょう。あなたの生活面は私がお世話してあげますから。だから……私と結婚してください」


 はっきりと告げたクリスティを前に、ダミアンはしばらく黙り込み、珍しく言葉を選ぶような様子で口を開いた。


「……えっと、あの、えっと。クリスティの気持ちは嬉しいよ。だけど、何て言うか……俺でいいの? 俺は変な男だよ? いっつも仕事の話ばかりの、鍛冶や開発のことになると周りが見えなくなって暴走するような、こんな変人だよ?」


 ちゃんと自覚があるのか、と内心で思いつつクリスティは微笑む。


「私だって仕事好きな性格です。似たもの同士、丁度いいじゃないですか。確かに最初は変な人だなと思ってましたけど、あなたのそんな純粋で、仕事にひた向きなところが、今は好きです。好きになりました……ダミアンさんは私じゃ駄目ですか? 不満ですか?」


「いや! まさか! そんなことない! むしろ俺にはもったいないと思うくらいで……」


「じゃあ、私でいいんですね?」


「………………はい」


 有無を言わさぬ気迫で尋ねたクリスティに、ダミアンはしばらく目を泳がせた後、観念したように頷いた。


「じゃあ、これで私たちは夫婦です。私たちのこれからの人生は誰にも、戦争にもベトゥミアにも手出しさせません。ノエイン様たちの戦いを支えるために、私たちも頑張りましょうね」


「は、はい」


 クリスティの言葉に、ダミアンはただ頷くばかりだ。その様子を見ながら、職人や奴隷たちはニヤついたり、少し呆れた表情になったりと、人それぞれの反応を見せる。片づけの手は完全に止まっている。


「……やっとかよ」


「ほら言ったでしょう。そろそろくっつくと思ってたんだ」


「にしても、まさか作業場ど真ん中で工房長から強引にいくとは思いやせんでしたねえ」


 親方はともかく、工房長の方は意識してるのが明らかなんだから早くくっつけばいいのに。今までそう思っていた男たちは、満足げな表情のクリスティと珍しく照れた様子のダミアンを生温かい目で見守っていた。


・・・・・


「旦那様。ご相談させていただきたいことがあるのですが、少々お時間をよろしいでしょうか」


「お仕事終わりに申し訳ないですだ」


 ある日の夕刻。仕事を終えたノエインは、領主執務室を訪ねてきた家令のキンバリーと厩番の従士ヘンリクからそう切り出された。キンバリーはもちろん、ヘンリクも仕事着ではなくこざっぱりとした清潔な服装だ。


「……もちろんいいよ。どうしたの?」


 珍しい組み合わせだ。そう思いながらノエインは頷く。


「ありがとうございます。実は……」


「おらたち、結婚したいと思ってるんです」


「そうなのっ!?」


 完全に斜め上の内容に、ノエインはそこそこ大きな声を出してしまった。


 二人とも年齢的には十分に結婚適齢期だが、組み合わせが意外過ぎた。特にキンバリーに関しては、彼女が異性にそういう感情を抱くというイメージがなかった。


 ノエインがヘンリクへの言伝をキンバリーに頼むこともよくあったので、二人は仕事上で言葉を交わす機会は何度もあっただろう。しかし、プライベートで男女の仲になるほど親しかったとは知らなかった。


 ノエインの横では、マチルダも小さく眉を上げて驚きを示している。


「へえ~、二人はそうだったんだあ。驚いたなあ~」


「へへへ、黙ってて申し訳ねえですだ」


「……」


 ヘンリクは照れくさそうに頭をかいて笑い、普段はマチルダ以上に鉄壁の無表情を保っているキンバリーも顔が赤い。生真面目な家令ではなく、完全に一人の女性の表情だ。もう八年近く仕えてもらっているが、彼女のそんな顔はノエインも初めて見た。


「このような忙しい時期に、私たちの個人的な事情でさらにノエイン様のお手を煩わせるような身勝手なご相談をしてしまい申し訳ございません。ですが……」


「……戦争でアールクヴィスト領もどうなるか分からないから、愛する人と一緒になっておきたい。っていう感じかな?」


 ここ最近は出征予定の兵士を中心に、領民たちの結婚ラッシュが続いていると報告が上がっていた。その背景には「今、命があるうちに愛する者と夫婦になっておきたい」という心理があるらしかった。


 そのことからキンバリーとヘンリクの考えを予想してノエインが尋ねると、二人は頷く。


「……はい」


「後悔しないように、けじめをつけておきたかったんですだ」


 キンバリーは少し緊張した面持ちに、ヘンリクは覚悟を決めた顔になる。そんな二人にノエインは優しく微笑んだ。


「二人ともおめでとう。君たちの主君として心から祝福するよ……二人のこれからの幸福を、誰にも邪魔はさせない。君たちも僕の大切な領民だ。君たちのためにも必ずベトゥミアに勝利して、アールクヴィスト領を守るから」


「……ありがとうございます、旦那様」


「これからも揺るぎない忠誠を誓いますだ」


 ノエインから祝福の言葉をかけられた二人は、深く頭を下げた。

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