第九章 アールクヴィスト領は平和

第197話 甘い朝

 王歴216年の十二月初旬。空気が徐々に冬の色を帯びていく中で、アールクヴィスト領は穏やかな日々を謳歌していた。


 先月の後半には今年最後となる第三陣の移民団を迎え、その住居や仕事の配分なども終わって落ち着き、これから冬明けまではこれといって大きな変化もなく過ごす日々となる。


 そんな中でノエインの最も大きな関心ごととなっているのが、妻のクラーラと、そのお腹にいる我が子の健康だ。


 ある日の朝。ノエインとマチルダ、クラーラの三人で朝食を終えた後、クラーラはいつものように教師としての仕事用の鞄を手に、屋敷を出ようとしていた。


「それではあなた、マチルダさん。行ってまいりますね」


 アールクヴィスト領の人口が増えたことで子どもの人数も増え、冬の農閑期は公立学校での授業がほぼ毎日行われている。クラーラがこうして仕事に出るのもいつものことだ。


 しかし、その度にノエインは心配そうな表情で声をかける。


「うん、行ってらっしゃい……くれぐれも無理はしないでね。体調に気をつけて。もし少しでもきつかったら、帰って来てゆっくり休むようにね」


 それに対してクラーラは、微苦笑を浮かべながらも優しい声で返す。


「ええ、ありがとうございます……でも、心配いりませんよ。まだ妊娠して三か月ほどですし、女性は意外と出産の直前まで動いているものです。リリスからも、体力を維持するためにもある程度は動くよう言われていますから」


「そうだね……そうだよね。口うるさくてごめん」


 屋敷内でアンナやロゼッタが大きくなったお腹を抱えて普通に仕事をしていたことはノエインも知っていたので、自分があまりにも早くから心配し過ぎだという自覚はある。それでもつい声をかけてしまうことに少し申し訳なくなる。


「大丈夫ですよ。むしろ、気にかけていただいて嬉しいです。愛されているんだと実感できますから……では、行ってきますね」


 クラーラはまた微笑みながら答えると、正面玄関から仕事場へと出かけて行った。


「……はあ、毎日クラーラに同じことを言っちゃってるね。自分がここまで心配性になるとは思わなかったよ」


 妻を見送ったノエインは、苦笑しながら傍らのマチルダに話しかける。


「クラーラ様とお腹のお子様を思ってのことだと、クラーラ様も分かっておられます。ノエイン様の愛情の証左でしょう」


「そうだね……仕事中とかも、ふとしたときにクラーラとお腹の子のことが気になっちゃうんだよなー。子どものいる従士たちが『我が子のためなら死ねる』って当たり前のように言ってる意味がやっと分かったよ」


 笑って話しながら屋敷内を歩くノエイン。その後ろに続くマチルダ。


 二人は領主執務室に入り、いつものように仕事を始めようとしたところで――ノエインが自身の執務机につく前に、マチルダの方を振り返った。マチルダの目の前まで近づき、その手を取る。


「ねえ、マチルダ」


「はい、ノエイン様」


 マチルダにノエインの意図は分からなかったが、名前を呼ばれてすぐに応えた。どんなに唐突な行動だろうと、ノエインが自分に触れてくれることにマチルダが疑問を感じるなどあり得ない。


「これはわざわざ言うまでもないことかもしれないけど、今だからこそ一度言葉にして伝えておきたくてね……愛してるよ、マチルダ」


 マチルダの腰に手を回しながら、マチルダの顔を見上げながら、ノエインは語りかけてくる。


「クラーラは僕との子どもを産んでくれる。自分の子どもを持つことで僕はこれまでよりもさらに幸福になれる。そのことはすごく嬉しい。本当に嬉しい……だけどね、」


 父親になる覚悟を纏った頼もしげな、それでいて幼子のように甘えたそうなノエインの表情を見ながら、その言葉を聞きながら、マチルダも自然とノエインの背中に手を回していた。


「幸福だってことは、気楽だってこととは違うと僕はもう分かってる。妻と子を持つ幸福を、そして領主としてこれまでよりさらに多くの部下や領民に囲まれる幸福を守るために、僕はすごく重い責任を負うことになる。ときには少しの時間だけ、全ての責任を忘れたくなることもあると思う……だからこそ、僕にはこれからも君が必要なんだ、マチルダ」


「……はい、ノエイン様」


 ノエインはこの先、親しい部下たちにも、妻にさえも弱さを見せられない一線を持つようになるだろう。その理から唯一外れているのがマチルダだ。


「助け合って一緒に領地を治める妻でも、次代を託す子どもでも、忠実で有能な部下でもない存在が、ただ僕そのものを全肯定して愛してくれる存在が僕には必要だ。この世で君だけがその役割を果たせる。だから……たとえクラーラとの間に子どもが生まれても、僕とマチルダの関係は何ひとつ変わらないよ。それをはっきり伝えておきたかったんだ」


 もちろん、ノエインが子を持つ親になっても、ノエインの自分への愛がなくなるなどとマチルダが思ったことは一度もない。しかしそれでも、ノエインがあえて言葉にして伝えてくれたことがマチルダは嬉しかった。


 この時点ですでに恍惚とした表情を浮かべるマチルダを前に、ノエインはさらに言葉を重ねた。


「僕にとってマチルダは特別だよ。妻とも子どもとも部下とも領民とも違う。僕と君の間には何の境界線もない。君は僕の一部だ。好きだ。愛してる。言葉にならないくらい」


 その言葉を聞いて、少し精神的に不安定にも見えるノエインの視線を受けて。


 マチルダは総毛立つような高揚感を覚える。ノエインの声と視線だけで達してしまうのではないかと思うほどの喜びを感じる。


 自分はノエインにとって特別なのだ。自他の境界線すらないほどに近く、この関係を適切に表現する言葉さえないほど唯一無二の存在なのだ。この立ち位置だけは、この愛し合い方だけは、クラーラやこれから生まれるノエインの子でさえも代われない。それをあらためて自覚する。


「……はい。ありがとうございます。私もお慕いしています。愛しています。あなたは私の全てです。私の全てはあなたのものです。何があっても、私のノエイン様への愛は決して失われることも薄れることもありません」


 マチルダはノエインを愛しているし、これからも愛する。もしノエインが他の全ての愛を失うような事態に陥ったとしても、マチルダだけはノエインを変わらず全身全霊で愛する。マチルダのノエインへの愛はそういうものだ。


 だからノエインにはマチルダが必要だ。歪な幼少期を過ごし、心に不安定な部分を持つノエインには、気を保つためにマチルダの捧げる異常で盲目的な無条件の愛が必要なのだ。


 そしてマチルダもまた、ノエインからこのような立場を与えられて傍に置かれることに喜びを感じ、安心を覚えている。自分こそがノエインの心を保つ最後の砦であるというアイデンティティが、マチルダには必要だ。


「……マチルダ」


 少し背伸びをして顔を近づけるようなノエインの仕草に、マチルダも彼が何を求めているのかすぐに察して姿勢を低くする。


 まるでマチルダの全ては自分のものだと主張するように、ノエインがマチルダの唇を奪う。その通りだと答えるように、マチルダはノエインに身を委ねる。


 傍から見れば不健全で歪な関係だろう。気持ち悪いとさえ思われるかもしれない。しかし、ノエインとマチルダにはこの関係が不可欠だ。


 互いに依存し合い、寄り添い合う安心感があるからこそ、ノエインはこれから何千人もの民を抱える領主として、そして妻と子の人生を守る父親として責任を背負って歩んでいける。マチルダは絶対的な献身でノエインを支えながら、ノエインの子を産めるクラーラに嫉妬を覚えるようなこともなく、ノエインの傍で自分だけの位置に立って生きていける。


 なんて素晴らしい愛の結びつきだろう。なんて素晴らしい、特別な関係だろう。


 マチルダはそう思いながら、気持ちが高ぶっていくのを感じ――


「……ぷはっ、そういえば、まだ朝だったね」


 このまま机の上に一緒に倒れ込もうかというほど盛り上がりかけたところで、ノエインが不意に唇を離して言った。


「……そうでした」


 確かにノエインの言う通りだった。執務室の机上を舞台に愛を確かめ合ったことは実はこれまでに何度かあるが、さすがに執務時間中、それも朝っぱらからはまずい。


 廊下ではメイドたちが掃除などを始めるだろうし、従士たちが仕事上の用件で訪ねてくることもあるだろう。


「……仕事しなくちゃね」


「……はい」


 苦笑しながら言うノエインに、マチルダは努めて冷静さを保とうとしつつも、わずかに名残惜しさを隠しきれずに答えた。


「続きは夜ね。今夜もたっぷり可愛がってあげるから」


 ノエインは微笑みながら、もう一度マチルダに軽くキスをする。そのいたずらっぽい表情があまりにも愛おしいと感じたマチルダは、


「……ありがとうございます。あの、ノエイン様、もしよろしければ気分転換にお茶などいかがですか?」


「ああ、いいね。頭をすっきりさせるために少し濃く淹れてほしいな」


「かしこまりました。すぐにお持ちします」


 そう言って、足早に部屋を出た。


 顔だけはいつもどおりの無表情を保ちながら屋敷の二階の廊下を歩き、階段を降り、厨房へ向かいながら呼吸を整える。


 危なかった。一旦お茶を淹れるという日常的な動作を挟んで頭を冷やさなければ、なりふり構わずあの場で自分からおねだりをしてしまうところだった。


 ノエインと重ねた唇に余韻を感じながら、自分だけ平日の朝っぱらからノエインと甘いひとときを過ごしたことでクラーラに対して少しだけ罪悪感を覚えながら、マチルダはお茶を淹れるために厨房に入った。

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