第145話 アールクヴィスト領の日常②クラーラの場合

 アールクヴィスト領では当然ながら領主ノエイン・アールクヴィストが軍事、行政、司法の最終的な全権限を握っており、つまりはノエインが一番偉い。


 では次に偉いのは誰か。ノエインが何かしらの事情で不在の場合に実務の責任を負うのは従士長ユーリや従士副長ペンス、文官のトップに立つアンナあたりになるが、名目上、ノエインに次いで権限を持つのは妻のクラーラ・アールクヴィストである。


 夫が執務を行えないときは領主代行を務める立場にあり、実際にノエインの出征中は従士たちの補佐を受けて領主の職務を遂行していたクラーラだが、普段は専ら学校の運営を自身の仕事としている。


「では、私は学校の方に行ってきますね」


「うん、今日も頑張ってね。気をつけて」


「いってらっしゃいませ、クラーラ様」


「ええ。あなたもマチルダさんも、お仕事頑張ってくださいな」


 朝。食事を終えると、領主執務室に向かうノエインとマチルダと別れて、クラーラは仕事用の鞄を取り、自身の職場である学校へと向かう。


 とはいえ、領主の妻であるからには、一人で屋敷を出て一人で道を歩くようなことはない。


 屋敷の正面玄関から出るときにはメイドの誰かが(大抵はキンバリーが)扉を開けてくれるし、門の前ではクラーラの出勤を護衛するための領軍兵士が待っている。


「おはようございます、奥方様」


「おはようございます。朝早くからご苦労様です。ありがとうございます」


「はっ。これが職務ですので」


 今日の護衛当番らしい若い兵士は無表情でクラーラの方を向き、しかし彼女の目を直接見ることなく短く返事をする。その声はやや緊張気味だ。


 クラーラとしてはもう少し肩の力を抜いて接してほしいとも思うものの、母エレオノールの「平民や奴隷からかしづかれておくのも貴族の仕事」という教えに従い、黙ってこれを受け入れる。


 彼らにとっては、領主夫人である自分はある意味で畏れの対象なのだ。へりくだることを許さず、無闇に距離を割って接すれば、かえって彼らを恐縮させることになってしまう。気さくなノエインでさえも近しい部下や使用人以外とは一定の距離を置いて接しているのだから、妻の自分が勝手にそれを破るわけにはいかない。


「校長先生、おはようございます」


「おはよう、今日も頑張りましょうね」


「はいっ! せいいっぱい励みます!」


 もう一人クラーラを門で待っていて、こちらは幾分か親しげに挨拶を交わしてくれるのは、学校で見習い教師として雇っている十代前半の少女だ。


 第一期の卒業生で、卒業後はそのまま学校で働く側に回った彼女は、クラーラの補佐を務めて授業のやり方を学びつつ、仕事中の彼女の従者としての役割も果たしてくれている。


 その少女と、護衛の兵士を後ろに引き連れて、クラーラは学校へ向かう。


 と言っても、領立の施設である学校は屋敷からそれほど遠くないところにある。初春のまだ肌寒い空気の中を歩いて5分ほどで到着し、見習い教師の少女とともに敷地に入った。


 護衛の兵士はそのまま学校の門の前に立ち、衛兵となる。平和な領都ノエイナで学校に兵士の守りなど不要だとクラーラは思うが、従士長ユーリによると「領主夫人のいらっしゃる場所に護衛が皆無というわけにはいかないのでどうかご容赦を」だそうだ。難しいものだ。


 校舎――といっても机と椅子と棚がいくつかある事務室と、最大で同時に三十人ほどが入れる教室がひとつあるだけだが――に入ったクラーラは、まず事務室に入って今日の授業の準備を始める。


 学校といっても、授業内容や教材がそれほどきっちりと決まっているわけではない。そもそもここの運営が始まってまだ二年足らずだ。クラーラ自身は父の雇った家庭教師から一対一で学んだ経験しかないので、集団授業についてはまだまだ手探りで進めている部分が多い。


 それでも、第一期の生徒たちは全員が最低限の読み書きと算術の基礎を身につけることができたし、「勉強は楽しい」と言ってくれた子が多かったので、自分は勉強を教えることについて多少は才能があるのではないかとクラーラは思っている。


「えー、今日は進みの早い子はわり算を始めて、少しつまずき気味の子はかけ算の復習ですね。それじゃあ……あなたには復習の方を見てもらおうかしら。一人ひとりの様子を見て、問題を解く手助けをしてあげて」


「分かりました。頑張ります!」


 授業は農作業が忙しい時期を外して週に三日から四日ほど行われており、半年ほど通って基礎だけ学ぶか、もう半年通って少し高度な内容を学ぶか選べるようにしている。


 現在は最初の半年分の教育スケジュールがあと少しで終わるという時期であり、算術に関してはわり算を教えれば終了だ。


「あとは……今日はセルファース先生にお越しいただく日でしたね」


 壁にかけられた予定表の黒板を見てクラーラがそう呟いたタイミングで、事務室のドアがノックされた。


「失礼します。おはようございます、奥方様。授業の準備などをここでさせていただきたく思って、早めに参りました」


 噂をすれば、入ってきたのは医師のセルファースだ。


「おはようございますセルファース先生、ご苦労様です。それと、ここではどうか校長とお呼びくださいませ」


「ああ、これは申し訳ありませんでした……では、本日もよろしくお願いいたします、校長先生」


 クラーラが微笑みながら指摘すると、セルファースもばつが悪そうに笑って呼びなおす。


「こちらこそよろしくお願いいたします。お医者様としてのお仕事もありますのに、いつも本当にありがとうございます」


「いえいえ、私としても子どもたちに医学を教えるのは楽しみのひとつですので……それに、リリスも医師としてどんどん成長していますから。診療所の管理は彼女に任せれば安心ですよ」


 この学校では基本的な読み書き計算だけでなく各分野の基礎知識も学べるようになっており、歴史についてはクラーラ自身が教えるほか、農学についてはエドガーが、より高度で実務的な数学についてはクリスティが、軍事についてはユーリやペンスが、そして医学についてはセルファースが、週に一度ほどやって来て子どもたちに教えていた。


 そのおかげで特定分野に興味を抱いて将来の道を決めた子どもも多く、セルファースのもとで見習い医師として学んでいるリリスはその代表的な例だ。


「そう仰っていただけると学校の運営者としても嬉しいですわ……さあ、そろそろ子どもたちが来ますね。今日も彼らのために頑張りましょう」


「はいっ!」


「ええ、微力を尽くします」


 クラーラが明るく言うと、見習い教師の少女が元気に応え、セルファースも穏やかな表情で控えめにそう返す。

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