第七章 内政の日々と派閥争い

第144話 アールクヴィスト領の日常①ノエインの場合

 王歴215年の2月初頭。例年に比べるとやや暖かい冬を越えて、開拓五年目を迎えたアールクヴィスト領の景色は昨年末からまた少し様変わりしていた。


 最も大きな変化が、領都を囲む市壁の建造である。


 農閑期で手の空いた領民たちの中から募った人夫を労働力に、これまで市街地を囲んでいた木柵が、頑強な市壁へと換えられつつあった。


 既存の市街地だけでなく今後の開発予定地ごと囲む大規模な工事計画が立てられているため、冬の間に全ての市壁が完成するには至らなかったが、今後も着々と作業が進められて一、二年のうちには立派な石の壁が領都を守るようになるだろう。


 領都の近くを西から南に流れる川、その川沿いの公衆浴場や鍛冶工房なども市域の一部として取り込み、最終的には都市内を川が流れ、3000人から4000人ほどの人口を抱える囲郭都市を作り上げる……というのがノエインの考えた都市計画だった。


「……って言っても、先は長いよね」


「そうですね。特に今ある市街地の西側に関してはやっと予定の面積分、森を切り開き終えただけですから。その外側にまた農地用の平地も確保しないといけませんし」


 領都周辺の開拓や市壁の建造に伴う出費の現状報告を持ってきたアンナと話しながら、ノエインは領都ノエイナの発展した様を想像する。計画通りの都市が完成するのはまだまだ先のことだ。


「それと、こちらはキルデの鉱山事業の収益に関する先週の報告です。特に大きく変わったところはありませんが、一応ご確認をお願いします」


「ありがとう、見せてもらうね」


 キルデとは、レスティオ山地の麓にある鉱山村の名前だ。


 誰が言い出したのか、古典語で「源泉」を意味するこの単語が村の住人たちの間で定着し、ノエインもこれを気に入ったので、そのまま正式に村の名称となった。鉱山資源で栄える村としては非常に縁起のいい名である。


 若く体力のある新移民の中には小作農になるより手っ取り早く稼げる鉱山夫を志す者も多いので、このキルデの人口も着実に増加中だ。それに伴って収益も少しずつ増えている。


「……うん、問題なしだね」


「じゃあ、これも保管しておきますね」


「よろしく。ところで、来月にはいよいよ出産に向けて休みに入るんだよね?」


 エドガーとの子どもを身籠っているアンナのお腹は、今では一目見て分かるほどに大きくなっていた。


「ええ、その予定です。秋の納税の時期には復帰できますし、仕事に関してはクリスティと新人文官たちだけで問題なくこなせるようにしてるので、問題ないと思いますけど……」


「そこは心配してないよ。それよりアンナとお腹の子が大事だからね。エドガーのためにも、絶対に無理はしないで。何なら予定より早く休みに入ってもいいし」


 優秀な従士夫婦の初めての子どものことだ。領主としても、アンナたち母子の健康が何より大切である。


「ふふふ、お気遣いありがとうございます。でも大丈夫ですよ、皆けっこう出産の直前まで動いてるものですから。マイさんもジーナさんもそうでしたし」


 ノエインは出産前の女性がどのように過ごすのかよく知らなかった。そもそも妊婦という存在をまともに見たのも成人して実家を追い出されてから(父の正妻とは生活空間が分けられていたので妊娠中の彼女を見たことはほぼなかった)であり、腹が大きくなるとは聞いていたがここまで膨らむのかと驚いたものである。


 妊娠出産については「なるべく安静にするべし」という知識しかないので、大きなお腹を抱えながら普通に仕事をこなしているアンナを見ていると、そんなに働いていて大丈夫なのかと少しハラハラしてしまう。


「そっか、そういうものなんだ……まあでも、もし休みたいときは」


「ええ、遠慮なく相談させてもらいますね」


 心配そうな顔で念を押すノエインにアンナは小さく苦笑すると、領主執務室を出ていった。


・・・・・


 夕刻の少し前。机仕事をひと段落させ、少し休憩を挟んでから、ノエインは立ち上がる。


「さて……ちょっと出かけよっか、マチルダ」


「はい、ノエイン様」


 いつもの気晴らしがてらの視察である。


 メイド長であるキンバリーに一声かけて屋敷を少し不在にすることを告げ、マチルダとともに正面玄関から外へ。石畳で舗装されたアプローチを抜けて、警備の領軍兵士の敬礼を受けながら門を出る。


「今日は領軍詰所を見に行こっか」


「はい」


 非常時の備えもあって領主の屋敷からほど近い場所にある領軍詰所に向かう。


 兵士たちの緊張感を保ち、また士気を高めるためにもときどき抜き打ちで視察に来てほしいと領軍責任者のユーリからも言われているので、突然の訪問で迷惑をかける心配はない。


 ここでも敷地入り口の門に立つ兵士から敬礼を受けつつ中に入る。すると、ちょうど門の方へと歩いて来るラドレーと出会った。


「おー、ラドレーお疲れさま。領都外の見回りの帰り?」


「どうも、ノエイン様。へい、ちょうど見回りの報告が終わったところです」


 ノエインがひらひらと手を振って声をかけると、ラドレーはぺこりと頭を下げて応える。


「ノエイン様は視察ですかい?」


「うん。たまには見に来てやってほしいってユーリから言われてるし、傀儡魔法使いたちの訓練も気になるしね」


「じゃあ俺が案内役で同行しましょう」


「いいの? ちょうど出ようとしてたところじゃなかった?」


「まだ一応冬だから見回りの時間が短くて、早く帰ろうとしてただけで。特に急いで帰らねえといけねえこともねえんで大丈夫です」


「そっか、じゃあお願いしようかな」


 そんなやり取りを経て、ノエインは前にラドレーを、斜め後ろにマチルダを伴って訓練場へ歩く。


 そこではダントが十五人の兵士の訓練を指導していた。見たところどうやら陣形訓練らしい。


「次、横陣!」


 ダントが鋭く指示を飛ばすと、兵士たちが素早く横一列に並び、盾を構えてその間から槍を出す。


「次、方円!」


 今度は兵士たちが外を向いて円になり、やはり盾を構えて槍を前に向ける。その動きは武芸にあまり明るくないノエインから見ても、鋭く無駄がないように見えた。指揮するダントもかなり様になっている。


 と、ノエインに気づいたダントが兵士たちに命令する。


「止め! 整列! アールクヴィスト準男爵閣下に敬礼!」


 数秒とかからず兵士たちはノエインの方を向いて並び、槍を持った右手を左胸に当てた。拳が革の胸当てを叩く音がひとかたまりになって大きく響く。これは王国において武器を持ったまま敬礼するやり方だ。


 自身も敬礼するダントと、並ぶ兵士たちにノエインも答礼し、付き添うラドレーとマチルダも敬礼の姿勢になる。ノエインが拳を下ろすと、ラドレー、マチルダ、ダントがほぼ同時に、その後兵士たちが敬礼を解いた。


「邪魔してごめんね。ちょっと視察に来たよ」


「いえ、閣下にご覧いただけるのは私も兵士たちも大きな喜びにございます」


 部下たちの手前、ダントは軍人然とした口調で返す。


「ありがとう。皆、今の陣形訓練、いい動きだったね」


 ノエインが言葉をかけると、兵士たちは表情は動かさず、しかし少しだけ顔を上げてどこか誇らしげな雰囲気を纏う。


「閣下、よろしければ兵士たちに激励のお言葉を賜りたく存じます」


「もちろん、いいよ」


 これはノエインが領軍の視察に来た際のいつもの流れだ。


「……このアールクヴィスト領が平和であり、民が魔物や盗賊などの外敵に怯えることなく日々を過ごすことができるのは、君たち領軍兵士のおかげだ。君たちのこの訓練が、そして兵士としての働きが、この地の安寧を守っている。これからもどうかアールクヴィスト領の守護者であってほしい」


 ノエインがそう締めると、上はせいぜい二十代後半、下は成人したばかりの若い兵士たちはますます誇らしげに目を輝かせる。


「感謝します、閣下!」


「「感謝します、閣下!」」


 ダントの声に合わせた兵士たちの迫力のある返事をもらい、ノエインは彼らのもとを離れた。


 次に声をかけるのは、傀儡魔法使いたちだ。


「ノエイン様! ……皆、訓練を中断、アールクヴィスト準男爵閣下に敬礼!」


 訓練場の隅にやって来たノエインを見てグスタフが呼びかけ、整列した彼らとノエインは礼を交わす。


「皆お疲れ様……また少しゴーレム操作が上達したみたいだね」


 グスタフたちの横に立つゴーレムを見て、ノエインはそう言った。七体のゴーレムは持ち主に合わせて、ぎこちないながらも敬礼の姿勢をとっている。儀礼上はゴーレムまで礼をする必要はないが、彼らなりの敬意だろう。


「ありがとうございます。ノエイン様とはまだまだ比較にもならない未熟さですが……」


「それでも、三か月で全員が目に見える成果を出してるからね。凄いことだよ」


 手放しで褒められて、グスタフも他の六人も明るい表情を見せる。


 今では七人全員が最初の二つの訓練を終え、次の段階に入っていた。特に上達の早いグスタフとセシリアはさらに次の訓練に移っている。


「早く実務や実戦をこなせるようになって、具体的な貢献を示せるよう励みます。なあ皆?」


「はいっ! これまでいただいたご恩を、一日も早くお返しできるように頑張りますっ!」


 グスタフの呼びかけに応えて、セシリアが真っ先に自分の熱意を伝えてくる。可愛らしい、と思いつつも、ノエインはそれを口にせず微笑を浮かべるだけに留めた。


 七人の中でも最年少で、まだあどけない少女のような彼女が一生懸命に話す姿は微笑ましいが、本人は至って真剣なので子ども扱いしては失礼だろう。


「そう遠くないうちにその日が来ると思うよ。期待してるからね」


 当面の目標である「ノエインの半分の技量」に彼らが到達するまで、早くてあと半年、遅くて一年ほどだとノエインは見ている。


 そうなれば単純な労働力・戦力だけを見ても数百人分の価値が生まれる。今後さらに成長した彼らのもたらす利益は計り知れない。


・・・・・


「それじゃあラドレー、案内役ありがとうね。帰ろうとしてたところ呼び止めちゃってごめん」


 もう夕刻だったこともあって視察は軽く済ませ、ノエインは領軍詰所の門でラドレーに礼を伝えた。


「いえ、どうせ早く帰ってもやることもねえですし」


「あはは、でもジーナとサーシャとできるだけ長く一緒にいたいでしょ? 特にサーシャなんて今が可愛い盛りだろうし」


 ラドレーとの子を身籠っていたジーナだが、昨年の夏には無事に元気な女の子が生まれ、サーシャと名づけられた。


 ラドレーによると「幸運にも自分にはあまり似ていない」そうで、ノエインも街の視察中に一度ジーナと出会った際にサーシャの顔を見たが、確かにどちらかというと母親似で、愛嬌のある顔立ちに育ちそうな子だった。


「へへへ、まあ確かにそうですね……子どもの成長はあっという間だからよく目に焼き付けておけと従士長にも言われましたし、今の時期くらいは家に長くいるのも悪かねえですね」


 そう言って照れくさそうに笑いながら、ラドレーは帰っていった。


「さて、僕らも帰ろうか、マチルダ」


「はい、ノエイン様」


 気分的にはまだ歩き回りたいところだが、そろそろ人々は仕事を終えて帰宅し、夕食の準備を始める時間帯になる。そんなときに領主があまり街をフラフラしていても領民たちに気を遣わせるだけだろう。それに、あまり帰りが遅いとメイドたちに迷惑をかけてしまう。


「……ねえマチルダ、一応さっきの視察で仕事の時間は終わりだから、もう今は私的な時間だよね? だから手を繋いで帰ろう」


「……はい、喜んで」


 一瞬キョトンとした後、小さくはにかんでそう答えた彼女の手を取り、ノエインは屋敷へと帰った。

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