第95話 願わくば平和であらんことを

 開拓三年目にして、アールクヴィスト領の人口は500人を超えた。


 レスティオ山地の麓には100人近い職人や鉱山夫の集団が、領都ノエイナには400人を優に超える農民や職人、商人が住み、既に士爵領としては破格の規模を誇っている。


 そして、その規模は今もなお拡大中だ。それに伴って市街地も広がり続けている。


 領都ノエイナの開発は、現在のアールクヴィスト士爵家の屋敷がある位置から始まった。そこから主に北と東の方向へ家が建ち、市街地の形成が進んできた。


 そのため、南端に領主の屋敷が立ち、北に街並みが続いている……というのが今のノエイナの光景だ。王国ではありふれた、ごく普通の村の姿と言える。


 ノエインはここから、西の方向へも街を広げていこうと考えていた。領都ノエイナの西から南にかけては川が流れているが、この川もゆくゆくは治水工事をして市街地内に取り込み、領都の中を川が流れるようにするつもりだ。


 また、それと併せて南西部の公衆浴場や鍛冶工房、水車小屋なども領都の市域に取り込み、最終的にはそれら全てを石の城壁で囲み、本格的な都市を建設する。


 これが、ノエインの長期的な視点での都市計画だった。


 西方向への森の伐採は少しずつ進んでおり、一方で屋敷から見て北や東には家々と木柵が、その周囲には農地が並ぶ。そこで領民たちが活き活きと生活を営む。


 そんな光景を、ノエインは屋敷の二階、執務室の窓からぼうっと眺めていた。


 時刻は昼下がり。ノエインの手にはメイドたちが昼食として作ってくれたサンドイッチが握られている。


 アールクヴィスト領で収穫されたジャガイモの薄切りを大豆油でカリッと揚げたものと、アールクヴィスト領で育てられた豚のハムを、アールクヴィスト領の小麦で作ったパンで挟んだサンドイッチ。


 一口齧ると塩気の効いたハムから肉汁が滲み出て口の中に広がり、薄切りのジャガイモがザクッと軽快な音を立てる。


「……美味しいね、マチルダ」


「はい、とても美味しいです。アールクヴィスト領の大地の恵みを感じます」


 ノエインの傍では、マチルダもサンドイッチを頬張りながら一緒に領都ノエイナの光景を眺めていた。


 するとそこへ、「ノエイン様、俺だ」という従士長ユーリの声とともにノックが響く。


「どうぞー」とノエインが気の抜けた声で入室を許可すると、ユーリはドアを開けて執務室に入った。


「どうしたの、ユーリ?」


「別に大した用じゃない。今週の領軍の活動報告書を持ってきただけだ。昼時だから下の食堂にでもいるのかと思ったが、ノエイン様は執務室にいるとメイドたちに聞いてな……飯まで執務室で食わなきゃならんほど忙しいのか?」


 ユーリが聞くと、ノエインはふっと優しい笑みを浮かべて言った。


「別に忙しいわけじゃないよ。むしろ冬前でちょっと暇なくらい……ただ、こうして窓から領都ノエイナの風景を眺めるのが好きなだけさ。だからときどきここで昼食をとるんだ」


 そう語りながら窓に向き直るノエインの横顔は、ユーリから見ても、マチルダから見ても、どこか子どもっぽく感じられるものだった。


 マチルダがノエインのすぐ隣に寄り添い、ユーリも何とはなしにノエインの近くに寄って一緒に窓の外を眺める。


 季節はそろそろ冬に入っているが、空がよく晴れていることもあり、またアールクヴィスト領が活気に満ちているのもあり、街は暖かく見える。


「やっぱりあれか、領主様から見たら、自分の領地の風景は格別なものなのか?」


「そうだねえ……全部の領主貴族がそう思うわけじゃないんだろうけど、僕にとっては格別だよ」


 ユーリの何気ない問いかけに、ノエインはそう返す。


「……僕はさ、この土地に来てから、初めて自分が自由だと思えたんだ」


 サンドイッチを机の上の皿に置き、その横のお茶――これはマチルダが淹れたものだ――を一口飲んで、語り始めるノエイン。


「子どもの頃もキヴィレフト伯爵家で食うに困らない生活はしてたけどさ、あの頃は実質的に生殺与奪の権をクソ父上に握られてた。何より自由がなかった。屋敷の外を見たこともなかった。そういう子ども時代を過ごしたんだ」


 ノエインの話を横で聞きながら、マチルダがギュッとその手を握った。ノエインもそれに応えるように、手に少し力を入れる。


「それからこのベゼル大森林の中に来て……最初はろくでもない土地を押しつけられたと思ったよ。だけどそこから少しずつ開拓を続けて、ユーリたちと出会って、難民たちが移住してきて……今はここが愛しい。ここに来て、生まれて初めて自由を感じてる」


 言葉を噛みしめるようにノエインは話し続ける。


「この窓から見える風景は好きだよ。この風景の中に、この領地に生きる全ての領民が好きだ。だって、僕がこの自由と幸福を享受できてるのは彼らが……君たちがいるおかげだからね」


「その逆も言えるな。俺たちもまた、領主であるお前のおかげで自由と幸福を享受してる。だから俺たちはお前に忠誠を誓ってるんだ」


「そうだね、いつもありがとう」


「……そう真っすぐに言われると少し気持ち悪いな」


「ええ? ひどいなあ。せっかく領主様が直々に感謝を伝えてるのに」


 からかうような口調のユーリに、ノエインもいつものようにヘラヘラと笑って見せた。


「思えばさ、僕がこの半年くらいの間、脇目もふらずに領地の強靭化に勤しんでたのも、この風景を失うのが怖かったからなんだろうね。領民たちに家と土地を与えてこの領の虜にしてきたけど、僕自身もこの地に心を囚われてるわけだ」


 学校を建てて次世代の教育を始め、領軍を組織し、領内での物資の自給を進め、自給できないものは蓄え、新兵器を軍備に取り入れ、幅広い人材を育てるために領民の意識改革にも手をつけ始めた。


 それもすべて、ノエインがこの地を守りたいと思っているからだ。現在の王国の不安定な情勢から、そして今後起こるであろう混乱から、あるいはもっと先のまだ見ぬ動乱から。来年も数年後も数世代後も、アールクヴィスト領がこのままここに在ってほしいからこそノエインは行動してきたのだ。


「……たった半年で随分と新しいことを進めたな。疲れただろう」


 ノエインの自嘲気味の苦笑は見逃し、ユーリは領地発展のために励んできた主を労った。


「そうだね、確かに疲れた……けど楽しいよ。愛するアールクヴィスト領の中にずっと籠って、領地が発展するためにあれこれ動いてるんだからね」


「ノエイン様はあまり領外に出たがらないよな。大抵の領主貴族は茶会やら晩餐会やらで外に出かけるのが好きなもんだが」


「子どもの頃から部屋に籠って生きてきたからね。僕は一か所に閉じこもるのが好きなんだよ、きっと」


「ははは、そうか」


 何気ない会話を部下と交わして笑い、隣には愛するマチルダが寄り添う。この平和な日常がノエインには心地が良かった。


「このまま何事も起きなくて、ずーっと領地運営だけやりながら平和に暮らせたらいいのにな……」


 それが難しいことだと分かってはいても、ノエインはそう呟かずにはいられなかった。




 ランセル王国との戦争のために軍備を整えよ、という軍令がアールクヴィスト領に届いたのは、それから二日後のことだった。




★★★★★★★


少し短いですが、以上までが第四章になります。ここまでお読みいただきありがとうございます。

引き続き本作をよろしくお願いいたします。

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