第94話 領地強靭化⑧ 医者の卵 後編

 その日の夕刻、ノエインはマチルダとクラーラを連れ、リリスの家を訪ねた。


 リリスにはノエインたちが来ることを黙っておくよう言い聞かせてあったので、彼女の父であるラッセルは領主の突然の来訪に驚愕することになる。


「の、ノエイン様!? それにクラーラ様まで!」


「驚かせてごめん。どうか座ったままで」


 アドミアに通されて家に入ってきたノエインたちを見て、ラッセルは慌てて片足で立ち上がろうとするも、ノエインにそう宥められる。


 ノエインはラッセルと向き合うように椅子に座り、クラーラもその横にかけ、マチルダは後ろに立って控えた。


 アドミアが水の入った杯をノエインたちの前に置く。


「ありがとう」


「申し訳ありません、私どもはしがない農民ですので、何もおもてなしができず……」


「いや、突然訪ねてきたのは僕たちの方だから……ここは君の家だ。どうか楽にして」


 そわそわと落ち着かない様子のラッセルを安心させるようにノエインは言った。


「さて……今日こうして訪ねさせてもらったのは、リリスのためなんだ」


 出された水を一口飲んで、ノエインは早速用件を切り出す。


「う、うちの娘が何かしたのでしょうか……?」


 ラッセルは自分の後ろに立つリリスを振り返った。話が本題に入ったためか、リリスも緊張した様子で表情を硬くする。


「リリスが医師を志しているという話をセルファース先生から聞いてね」


「そ、それは……申し訳ございません! 娘が分不相応なことを……ノエイン様にまでご迷惑を」


「いや、違うんだ。別に咎めに来たわけじゃないよ」


 叱責でも受けると思ったのか怯えた顔を見せるラッセルに、ノエインはそう返す。


「むしろその逆でね、リリスが医師を目指したいのなら、僕は彼女に是非セルファース先生のもとで医学の勉強に励んでほしいと思ってる。ただ、父親であるラッセルがそのことに反対していると聞いたから、君と一度話がしたいと思ったんだ」


 ノエインの言葉を聞いたラッセルは、逡巡するような表情でしばらく黙り込み、それから口を開く。


「……ノエイン様のご命令とあらば、私も娘が医者を目指すことを認めざるを得ません」


 その言い方には、「領主が命じるから渋々従う」という本心が込められているのがノエインにも伝わってきた。


「僕は何も領主の権限を振りかざそうというわけじゃないんだ。そんなことをしても君たち親子の間に溝を作ることになるからね……それに、いくら領主とはいえ、領民の家庭事情にまで簡単に口を出すべきじゃないと思ってる」


 ラッセルの態度を咎めることもなく、ノエインはそう話す。


「何から話そうか……ラッセル、君はどうしてリリスが医師になるのに反対なのかな?」


「それは、女が医者になるなんて私は聞いたことがないので……女の医者を見たこともありません。うちの娘が医学を身に着けることができたとしても、医者として生きていけるとは思えませなんだ」


 ひとまずラッセルに尋ね、彼の言い分を自分の耳で確認するノエイン。


 これは何もラッセルが堅物だというわけではない。「今までこうだったから」という理由で慣習や常識に固執するのはごく普通のこと。特にラッセルのように、村とその周辺の狭い世界だけで生きてきた農民なら尚更だ。


「……私たちは故郷を捨てて命からがらこの領に着きました。それに、私はもう満足に歩くこともできない不自由な体です。だからこそ、一人娘のリリスにはいい男を婿として迎えさせて、平凡でいいから安定した人生を送ってほしいんです。もし女で医者なんかになって、食っていけず結婚にも支障が出たらと思うと……」


「君の気持ちは分かるよ。これまで生きてきた世界の常識で考えれば、大きな不安を感じるのは理解できる。確かに女性医師は少ない。ほとんど皆無と言っていい。だけど、それは王国の他の地域での話だ」


 ノエインはラッセルに理解を示しつつも、そう話を続ける。


「ここは君が今まで生きてきた土地とは違う。それは単純に地域が違うってだけじゃなくて、領主である僕の考え方も、価値観も、それに基づく社会の規範や仕組みも、何もかもが違うんだ」


 ラッセルが萎縮しないよう優しい声色で、しかし、しっかりと言い聞かせるように話すノエイン。


「ここでは元傭兵が従士として、元難民が土地持ちの自作農として生きてる。獣人で自分の商会を作った者もいる。奴隷も平民と同じように法で犯罪から守られてる。このマチルダは獣人奴隷だけど僕の副官を務めてる。婦人会という女性の互助組織もある。でも、君ももうそのことに違和感や嫌悪感を覚えたりしないでしょう?」


「確かに……最初は戸惑ったこともありますが、自分がここに新しく生きる場所をもらえたんだから、ここで生きていくためにその光景を受け入れようと思いました。今となっては違和感もありません」


 アールクヴィスト領の社会のルールには王国の常識から外れる部分も多いが、領民たちは基本的にそれを受け入れている。安定した暮らしを失ってまで、かつての常識や慣習に固執しようとは思わないからだ。


「こういった新しい常識は、『種族や性別、出自、身分に関係なく、能力と実績でその者を評価する』という僕の考えに基づくものだ。僕はこれからもこの考えに基づいて領地を運営するし、僕の子どもにも、孫にもこの考えを受け継がせる」


 子ども時代を社会から切り離されて過ごしたノエインは「生まれ持った立場によって人を区別・差別する」という王国の社会慣習に馴染めていない。


 この社会はそういうものだと頭では理解しているが、女だから、獣人だから、奴隷だからといった理由で仕事や立場に制限を加えることを、内心では不条理で非効率的だと考えていた。


 そのことが結果的に、アールクヴィスト領の斬新な気風を生み出す軸となっている。


「だから、リリスが医師になっても、女だからと差別や迫害に遭うことはない。彼女は領民たちを支え助ける医師として感謝と敬意を集める人物になる。そうなるように僕が全力を尽くす」


 ノエインはしっかりとラッセルの目を見据えて話を続ける。


「ラッセル、君は生まれ故郷を捨てるという大きな決断を乗り越えて、このアールクヴィスト領で新しい常識も受け入れてきた。君にはその勇気があった。だから今回も、どうか僕を信じて考えを新しくしてほしい。この通り、お願いだ」


「そ、そんな、ノエイン様。どうか顔をお上げください」


 ノエインが軽く頭を下げると、ラッセルは慌ててそう言った。


 領主貴族が軽くとはいえ領民に頭を下げるなど、普通ならまずあり得ない。ラッセルが畏れ多いと感じるのも無理のないことだった。


「……ノエイン様のお考えは私にもよく理解できました」


 そう言うラッセルの顔には、納得と葛藤の両方の色が浮かんでいる。


 理屈では分かっていても、自分の中の常識をまたひとつ覆すことに本能的な不安を感じるのだろう。


「……リリス、君はどうして医師を志そうと思ったのかな?」


「それは……セルファース先生が、お父さんを助けてくださったからです」


 駄目押しの一手としてノエインはリリスへと声をかけ、彼女はそれに応える。それを聞いたラッセルは驚いた表情を浮かべた。


「盗賊との戦いで足を切り落とされたお父さんを見て、もうお父さんは死んでしまうんじゃないかと思いました。せっかく新しい土地で暮らせるようになったのに、お父さんが死んじゃってもう会えなくなるかもしれないと思いました」


 緊張しながらも、懸命に話すリリス。


「でも、セルファース先生がお父さんを助けてくれました。先生のおかげで、私は今もお父さんと一緒にいられます。だから私も医師になって、怪我をしたり病気になったりした人を助けたいんです。この領の人たちが悲しい思いをしなくて済むようにしたいんです」


「……」


 リリスの言葉を聞きながら、ラッセルは目に涙を滲ませる。


「ラッセル、僕が領主としてリリスのこの思いを守ると約束する。だから、彼女が医師を志すのを認めてあげてくれないかな?」


「……はい。ノエイン様、娘が医者として活躍できる場を与えてやってください。どうかお願いします」


 深々と頭を下げながら、ラッセルは言った。


・・・・・


「今夜のあなたの言葉、私も隣で聞いていて感動してしまいました。ねえ、マチルダ?」


「ええ、私も感銘を受けました。後ろに立っていてもノエイン様の慈悲深さがひしひしと伝わってきました」


 ラッセルの説得を終えて屋敷に帰り、食事も入浴も終えて居間でくつろいでいると、クラーラとマチルダがノエインに言った。


「ありがとう、自分でもなかなか上手いこと話せたと思うよ……だけど、最後に決め手になったのはリリスの言葉だったね。心を動かすのは理屈よりも愛か」


 そう語りながら、ノエインはマチルダの淹れてくれたお茶に口をつける。


 単にリリスのためというだけでなく、凝り固まった社会慣習を打ち破る前例を作るという目的や、領の安定のために次世代の医師を育てるという狙いもあったわけだが、こうして愛する女性たちに褒められて悪い気はしない。


「父親が自分のことで涙を流してくれるなんて、僕には一生経験がないことだろうな……いや、僕が辺境開拓を成功させてるのを見たら、悔し涙なら流してくれるかもしれないね、あのクソ父上は」


 ノエインがニヤリと笑って見せると、クラーラはやや苦い笑みを浮かべた。マチルダも小さく苦笑する。


「あれ、あんまり笑えなかった? 自分では面白い冗談だと思ったけど」


「あなた、それは……」


「少々皮肉が強すぎるかもしれませんね」


 そう言って、マチルダはノエインの右に座る。クラーラはその反対、左側に座った。そして二人がノエインの腕に体を寄せる。


「私たちは生涯あなたのお傍にいます。あなたの言葉で涙を流し、あなたの言葉で愛を感じます」


「だから寂しくありませんよ」


「……ばれてたか。二人ともありがとう」


 リリスとラッセルの親子愛を見て、自分の幼少期の境遇と照らし合わせて、ノエインは少し寂しい気持ちになっていた。父親への皮肉を零したのもその気持ちの裏返しだ。


 マチルダとクラーラにはそれを見破られていたらしい。


「……ベッドに行こうか」


「はい、今日は三人で」


「どうか可愛がってくださいませ」


 両腕にマチルダとクラーラを引っ付けたまま、ノエインは立ち上がって寝室に向かった。

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