第47話 再教育②

 苛々した感情が収まらないまま自室に戻ってきたクリスティは、そのストレスを発散するようにベッドに八つ当たりする。


 何度も何度もベッドを殴り、枕に顔を押しつけて感情のままに叫んで、ようやく燃え盛るような怒りが収まる。


「……くそっ。くそっくそっ」


 最近のクリスティは常にこのような状態だった。暇さえあれば自分の現状や周囲の人間への悪態をついている。


 散々に殴ってシーツがぐちゃぐちゃになってしまったベッドに倒れ込み、何気なく部屋を見回す。


「……クソみたいな部屋」


 住み込みの使用人の個室は狭い。最低限の家具は揃っているし、掃除も行き届いているが、実家では豪奢な家具や調度品に囲まれた広い部屋で暮らしていたクリスティにとっては不満しかない。


 頭脳労働を務めるクリスティが少しでも多く休息をとれるようにと部屋の掃除はメイドに任されており、奴隷でありながら自室を掃除しなくていいのは贅沢な待遇だが、そんなことはクリスティにとっては知ったことではなかった。


 部屋を見回し、ふと窓の方を見たクリスティは気づく。


「……!」


 鍵がかかっていないのだ。


 奴隷として従順とは言えないクリスティの個室は、逃亡のおそれがあるため、窓の外側にも追加の鍵が備え付けられていた。


 屋敷のメイドたちは掃除の際はこの鍵を外して換気を行っているが、今日は外鍵を閉めるのを忘れてしまったらしい。馬鹿な田舎メイドらしいミスだ。


 屋敷の主な窓や出入口には、夜中に誰かが勝手に開けたり壊したりすると音が鳴る防犯の魔道具が備えられている。しかし、個人の部屋にはそれがない。


 つまり、この窓から外に出れば逃げることができるのだ。


「……」


 どうするべきか、クリスティは悩む。


 これは千載一遇のチャンスだ。この機会を逃せば、次はいつ逃げられるか分からない。


 先ほどのノエインの態度がどことなく意味深だったのも気になる。もしかしたら、今後は暴力で従わせようとしてくるかもしれない。あんな奴に傷をつけられるなんて御免だ。


 逃げた後は南に下って、紛争地帯のどさくさを抜けてランセル王国まで行けばいい。奴隷身分も奴隷の紋様もロードベルク王国だけのものだ。隣国ならそれらも関係ないし、高い教育を受けた人間として仕事も簡単に探せるはず。


 途中で野垂れ死ぬ可能性もあるが、こんな田舎の村で飼い殺されるよりマシだ。


 もう我慢できない。逃げよう。クリスティはそう決意した。


・・・・・


 この世界では、灯り取りに使う油や蝋燭を節約するために、多くの人間はあまり夜更かしをせずに寝る準備に入る。このアールクヴィスト士爵領でもそれは変わらない。


 領主の屋敷ではノエインが仕事のために多少遅くまで起きていることもあるが、それでも夜中になると、領都ノエイナ内で起きている者はほぼいなくなる。


 クリスティが行動を起こしたのは、そんな夜中だった。


 音が響かないように慎重に窓を開け、外の様子をうかがう。平和な領都ノエイナ内では夜警なども置かれていないので、当然ながら窓の外には誰もいない。


 食料として残しておいた夕食のパンや、逃走資金として屋敷内からくすねた金目の物を入れた布袋をかつぐと、窓から庭へと降り立った。


 周囲を隙なく警戒しながら、足早に屋敷の敷地を抜け出るクリスティ。そのまま領都ノエイナを囲む木柵を辿るように走る。


 木柵の門には不寝番が置かれて見張っているが、そこを通りさえしなければ見つかることはないのだ。おまけに木柵は乗り越えようと思えばどうにでもなる高さしかない。


 適当に見つけた木箱や樽を足場にして、門からやや離れた位置で木柵を乗り越えたクリスティは、ついに領都ノエイナの外に出る。


 農地を走り抜けて森へと身を隠し、森を少し進み、門から見えない辺りで街道へと出ると、そのまま道を走りだした。


(やった! やった! やった!)


 逃げきれた、とクリスティは思った。これで自由だと。


 このまま夜のうちにできるだけ遠くへ逃げて、行方をくらましてしまえばいい。


 屋敷内は隙だらけだったから、金に換えられそうな装飾品までいくつも盗み出せた。これを手渡せば南へ向かう商人や旅人の馬車にでも乗せてもらえるだろうし、売って食事代や宿代に換えることもできるだろう。


 首に刻まれた奴隷の紋様は隠せばいいし、最近は情勢の悪化で逃亡奴隷も少なくない。訝しがられても金品の力で黙らせることは容易だ。


 どうにだってなる。すべてうまくいく。


 久々に感じる自由と開放感に酔いしれながら、ご機嫌でクリスティは街道を走り抜け――られなかった。


「ゴリッ」という鈍い音とともに視界が沈み、そのまま不格好に地面に倒れ伏せる。足元を見ると、どうやら地面の窪みに足が嵌って転んでしまったらしい。


 慌てて立ち上がろうとするが、


「痛っ!?」


 足首から激痛が走る。月明りしかないので足元はよく見えないが、触ってみるとそれだけでズキズキと響くような痛みがあった。足を思いきりくじいてしまったようだ。


「そ、そんな……」


 冗談じゃない。こんなところで、こんなことで自由を諦めてたまるか。


 何とか片足で立つと、くじいた方の足を引き摺るようにして街道を進む。


 進まなければ。夜のうちに少しでも前に進まなければ。


 先ほどまでの軽快な足取りとは打って変わって、じれったいほどの遅さで、それでも歩くのをやめないクリスティ。


 しかしそんなとき、街道の脇の茂みから、ガサガサと枝葉の揺れる音が鳴った。


 見つかってしまった。追手が来た。


 きっと逃げ出すところを誰かに見られていたのだ。クリスティは咄嗟にそう考えて絶望感に包まれる。


 自分はもう逃亡奴隷だ。連れ戻されたらどんな目に遭うか分からない。


 それでも、あの領主のクソガキに頭を下げて許しを乞うなんて死んでも嫌だった。


「ふんっ! 今さら連れ戻しても絶対に素直に言うことなんて聞かないわよ!」


 そう強がって言いながらクリスティが振り返ると、


 そこにいたのは領からの追手ではなく、一匹のゴブリンだった。


「ゴガアッ!」


「い、嫌あぁっ!」


 茂みから現れたゴブリンを見て、悲鳴を上げて逃げようとするクリスティ。


 しかし、片足が自由にならない状況では走ることもできず、逆に無様に転んでしまう。


 クリスティを手負いの獲物と見なしたゴブリンは、「ゴギャッゴギャッ」と嬉しそうに鳴きながら彼女に迫る。


「来ないでっ! 嫌っ! 来るなぁっ!」


 足を掴もうとしてきたゴブリンを咄嗟に蹴飛ばすクリスティ。小柄なゴブリンは思わぬ反撃に遭ってあえなく尻もちをつくが、それも大したダメージではなく、逆に「グゴゴオッ!」と怒りながら再び迫ってきた。


 ゴブリンが手に持っていた武器――木で出来た棍棒を振り下ろす。


 武器も何もないクリスティは、ゴブリンが振り下ろす棍棒を自らの腕で受け止める。ゴリッと鈍い音が響き、腕にひびが入ったのではないかと思うほどの痛みが走るが、身を守るものはこの腕しかない。


 さらに、棍棒を持っていない方の手も振り下ろし、クリスティの足に尖った爪を立ててくるゴブリン。こちらは防ぐ術もなく、スカートが引き裂かれて足に鋭い傷が走る。


「痛いっ! 痛いっ止めて! お願い止めて!」


 ゴブリンにクリスティの言葉が通じるはずもなく、何度も棍棒で殴りつけられ、足に爪を立てられる。


 小柄なゴブリンでは抵抗するクリスティに致命的な傷を負わせるには至らず、彼女の体には生傷がどんどん増えていく。痛みだけが増していく。


 殴られる。引っかかれる。


 また殴られる。引っかかれる。


 ときには腕で防ぎきれず、棍棒の一撃が顔を打つ。


 既にクリスティは全身ボロボロだ。


 このままでは体力が尽きて嬲り殺しにされてしまう。それなのに反撃の手段もない。


 嫌だ。怖い。


 誰か助けて。誰でもいいから助けて。


 そう心の底から願ったクリスティの耳に届いたのは、


「やあクリスティ、酷い有り様になってるね」


 彼女を馬鹿にしたように嘲笑うノエインの声だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る