第48話 再教育③

「やあクリスティ、酷い有り様になってるね」


 その声に振り向くと、そこにいたのはやはりノエイン。


 彼の斜め後ろにはいつのもようにマチルダが控え、さらにその両脇には、クリスティも何度か見かけたことのある鋭い目つきの従士と不細工な従士――ペンスとラドレーが立っていた。


 彼らを見てクリスティはホッとする。


 逃亡は失敗したが、これで少なくとも今ここでゴブリンから嬲り殺しにされることはなくなった。


 ノエインに助けられるのは屈辱だが、贅沢は言っていられないだろう。


 急な増援を見てゴブリンも警戒した表情を見せるが……ノエインたちは誰も行動を起こさない。領主であるノエインはニヤニヤと笑いながらクリスティを見るだけで、マチルダも微動だにせず、ペンスもラドレーも剣を抜こうともしない。


「……え? ちょ、ちょっと、なんで助けてくれないのよ?」


「助けに来たなんて言ったっけ? 誰か僕がそう言ったのを聞いたかな?」


「いいえ、ノエイン様」


「何も指示は受けてませんね」


「へい、聞いてねえです」


 彼らの言葉を聞いて、クリスティは血の気が引いた。


「は? こ、この期に及んでふざけないでよ! 早く助けなさいよ!」


「何で? 君は逃げるって決めたんでしょ? じゃあ最後まで頑張って逃げなきゃ。見守っててあげるから頑張って」


 そう言って軽薄に笑うノエインの顔は、とても邪悪で、とても下品で、とても冷酷で――クリスティには悪魔の笑みに見えた。


 ゴブリンはノエインたちがクリスティを助ける気はなく、戦う気もないと見なしたのか、ノエインたちに背を向けて再びクリスティに迫ってくる。


「い、嫌ああ!」


 死ぬ。本当に死ぬ。


 あらためて死の恐怖に襲われたクリスティは、力を振り絞って立ち上がり、ゴブリンを突き飛ばす。


 そうしてゴブリンが転んだ隙をつき、縋りつくようにノエインの足元に倒れ込んだ。


「も、もう無理! 逃げきれない! 戻るから! 戻るから助けて! ちゃんと働くから!」


 この状況を生き延びるにはノエインに縋るしかない。ノエインの許しをもらうしかない。


「うわあ、みっともないねえ。それにそんな血まみれの手で僕の足に縋りつくなんて汚いなあ。靴が汚れちゃったよ。マチルダ」


「はい、ノエイン様」


 クリスティが縋っても、ノエインは邪悪な表情を浮かべたままだ。彼の指示でマチルダが前に進み出ると、


「ごえあっ!?」


 まるでゴミでも蹴飛ばすようにクリスティを足で突き放した。


 そうしてクリスティが地面に倒れ伏す頃には、先ほど転んだゴブリンも既に立ち上がっている。


「ゴギャアアッ!」


 痛い目に遭わされた苛立ちと、早く獲物を食らいたい欲求を訴えるように雄叫びを上げながら迫るゴブリン。


「やだっ! やだやだやだああっ!」


 押さえつけられて首に食らいつかれそうになり、咄嗟に突き出した腕に思いっきり噛みつかれる。


 ゴブリンの牙が腕の皮膚を破り、肉を抉る。


「あああっ! 痛いいっ! 助けてえええ!」


 噛まれていない方の手を振りかざし、渾身の力でゴブリンの頭を殴りつけて引き離す。


 そうして稼いだわずかな隙を使って、再びノエインの方に這い寄る。


「お願いします! 真面目になります! 礼儀正しくします! 今まで無礼でごめんなさい! ごめんなさい! 助けてください!」


 死ぬのが怖い。


「死ぬ方がマシ」だなんて、何て浅はかな考えだったのだろうか。死がこんなにも怖いなんて知らなかった。


 生きられるのなら何でもする。そう思ってノエインに必死に懇願する。


 しかし、それでも彼の表情は邪悪で、その目は冷たい。


「あーあ、そんなに涙と鼻水まみれになって、無様に這いつくばって、プライドの高いクリスティはどこへ行っちゃったの? プライドが大切なんでしょ? じゃあ守るためにもっと頑張らないと」


「プライドいらない! いらないんです! これからは素直になります! お願い助けてええええええ!」


 すると、ノエインはふうっとため息をつき、「仕方ないなあ」と呟く。それを聞いて希望を感じるクリスティ。


「マチルダ」


「はい、ノエイン様」


「嫌あああああああ!」


 再び蹴り飛ばされてゴブリンの前に放り出される。


 ゴブリンは止めの一撃を加えようと棍棒を振りかざして近づいて来る。


 すると、クリスティは自分のどこにそんな力が残されていたのかと不思議に思うほどの気力を振り絞って立ち上がり、


「うわああああ!」


 と叫びながらゴブリンに体当たりした。


 ただ倒れる勢いでぶつかるだけの無様な攻撃だったが、それでもクリスティの体重が乗った思わぬ攻撃で転ぶゴブリン。その隙に、クリスティは再びノエインに縋る。


 ノエインの足にしがみつき、顔を上げて彼を見る。


 ノエインの目は相変わらず冷たい。とても人間を見る目じゃない。


 ……ああ、これが奴隷になるということか。クリスティは初めて本当の意味で実感した。


 自分はこの人の奴隷なのだ。この人に生殺与奪の権を握られているのだ。


 彼は自分のご主人様なのだ。今までのクリスティの態度や言葉を考えれば、彼が怒ってクリスティの首を撥ねることさえあり得た。


 それなのに今までの彼はなんと優しかったことか。その優しさに自分はどれだけ甘えていたのか。


 その甘えの代償がこれだ。自分がどんな立場にいたのか、誰によって生かされていたのかを、自分の命と引き換えに学ぼうとしている。


「忠誠をぢがいます! ノエインざまにぢゅうぜいをぢがいまず! わだじはあなだのものでず! だずげでぐだざい! お慈悲をぐだざいいいいいい!」


 土と血と涙と鼻水と涎で顔はめちゃくちゃだ。まともに前も見えない。喉も枯れてひどい声しか出ない。


 それでもぼんやりと輪郭の浮かぶノエインの顔を向いて、全身全霊でそう叫んだ。


「……その言葉に嘘はないね?」


「嘘じゃないでず! 本当でず! ノエイン様ああああああ! 助げてええええ!」


 ノエインの足に全身でしがみつく。マチルダでも蹴り飛ばせないように、腕をノエインの足に絡めてしがみつく。


「……いいだろう。ラドレー」


「へい」


 ノエインがそう指示を飛ばすと、即座にラドレーが剣を抜いて駆ける。


 それまで静観していた相手がいきなり刃を向けてきたことに驚く暇も与えられないまま、ゴブリンは首を撥ねられた。


 それを見届けると、ノエインは地面に膝を下ろしてクリスティを見る。手が汚れるのも厭わず彼女の頬をそっと撫でる。


「君の忠誠は受け取ったよ、クリスティ。君は僕の大事な奴隷で、愛すべき領民だ。君が僕に忠誠をくれる限り、僕も領主として君を愛する。君に幸福な人生を与えると約束するからね」


 微笑みながらそう語るノエインは、クリスティの目には神様に見えた。この上ない安心感を覚えながら、彼女は意識を手放した。

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