第46話 再教育①
クリスティは何もかもが不満だった。
地方都市の商店出身のくせに自分の上司として振る舞うアンナという娘も、獣人でありながら奴隷頭として振る舞うマチルダという女も気にくわなかった。
かつては裕福な家庭の娘としてメイドに頭を下げられる立場だったのに、この屋敷のメイドは自分に傅かないのも気にくわない。
こんなのは間違っている。自分の家はガルドウィン侯爵領でも屈指の大商会だったのだ。そこらの下級貴族よりも裕福な生活を送っていた自分が卑しい奴隷に堕ちて、おまけにこんな辺境の村の領主に買われるなんて。
「クリスティ、次はこの明細を――」
「うるさい! しょぼい商店の出身のくせに私を呼び捨てにしないで! 何様のつもりよ!」
声をかけてきたアンナに、クリスティは怒鳴り散らす。
「そうは言っても、私はあなたの上司だし……それに年だって同じくらいじゃない。この話し方は別に普通の」
「うるさい! うるさいうるさいうるさい!」
ため息をつきながらアンナが諭すように言っても、クリスティは聞く耳を持とうとしない。
「とりあえず、仕事はちゃんとやってもらわないと……農地や鉱山で働くのは嫌なんでしょう?」
アンナが書類を突き出すと、クリスティは苦虫をまとめて噛み潰したような表情で舌打ちをして、ひったくるようにそれを受け取った。
ここでの仕事は、少なくとも今任されている仕事は、クリスティにとっては大したものではない。実務ならではの細かなルールやコツなどを覚える必要はあったが、慣れれば後はただのルーティンワークだ。
こんな、読み書きができれば誰でもこなせるような仕事をさせられるなんて、馬鹿馬鹿しい。
心の中で悪態をつき、ときにはその悪態を口から漏らしながら、クリスティは書類仕事を進める。
・・・・・
「クリスティ、ノエイン様がお呼びです。今日の仕事が終わったらノエイン様の執務室に来るようにと――」
「獣人の奴隷の分際で私に指図しないで!」
そろそろ終業かという夕刻に、従士や事務員用の執務室に入ってきたマチルダに言われ、クリスティはまた機嫌を損ねて怒鳴り散らす。
「……あなたも奴隷では? それに私は奴隷頭で、あなたより立場は上です」
「だから何!? あんたは下等な獣人でしょ!? それなのに偉そうに、この雌兎!」
できる限りの侮蔑を込めてそう言っても、マチルダは無表情を崩そうとしない。
「気は済みましたか?」
「っ! ば、馬鹿にしないでよ……そんなに領主様お気に入りの玩具なのが偉いの?」
そう言うと、初めてマチルダの眉がピクリと動いた。
ここが弱点か。そう思ったクリスティは暴言を畳みかける。
「獣人に腰を振るなんて、あんたのご主人様の性欲も兎並みってわけね。それにしても性奴隷として領主の傍に置かれてるからってあんた何か勘違いしてるんじゃないの? まあ、卑しい獣人の生まれなら、そうやって世間知らずのクソ貴族の玩具にでもならないと生き残れないんでしょうけど――」
次の瞬間、マチルダが体をひねったかと思うと、足元から「ガンッ」と鋭い音が鳴る。さらにその直後には、後方から「ガシャアンッ」と激しい打撃音が響いた。
振り返ると、今の今までクリスティが座っていた椅子が後方の壁に叩きつけられていた。
「ひっ」
「とにかく、ノエイン様がお呼びです。仕事が終わったら来るように。確かに伝えましたよ」
視線だけでクリスティを射殺せそうなほど冷たい目を向けながらそう言い残し、マチルダは部屋を出ていく。
「……何よ。何なのよ。ふざけんじゃないわよ!」
「うふふ、本人に面と向かって言わないと伝わらないと思うわよ?」
一人で激昂するクリスティに声をかけたのは、同じ室内で仕事をしていたアンナだ。物騒な一部始終を見ていたはずなのに驚いた様子もなく、むしろ微笑みすら浮かべている。
「うるさいっ! よってたかって馬鹿にしないでよ!」
以前はクリスティが怒鳴りつければ、実家の従業員もメイドも誰もがひれ伏してくれた。それなのにここでは誰もクリスティを怖がらないし、クリスティに傅かない。
それが彼女には耐えがたい屈辱だった。
・・・・・
「クリスティ、仕事終わりに悪いね」
「うるさいわね! いったい何の用なのよ!」
先ほどのマチルダとのやり取りで機嫌が悪いまま、クリスティはノエインの執務室を訪れる。
「別にこれといって用事はないかな? ただ君の様子がどうかなと思っただけだよ」
「そんなことでいちいち呼び出さないで! 馬鹿にしてるの!?」
頑なに喚き続けるクリスティを前に、ノエインはため息をついた。
「そろそろ観念して素直になってくれる気はないかな? 聞いた話だとアンナにもマチルダにも、うちのメイドたちにも随分と失礼な態度を続けてるらしいね。特に今日はマチルダをひどく侮辱したって聞いてるけど」
一瞬だけノエインの目に邪悪な色が広がり、その気配にゾクッと寒気を感じて怯むクリスティ。しかし次の瞬間にはノエインの表情は普段のヘラヘラしたものに戻っていた。
「……な、何よ! 下賤な獣人奴隷に本当のことを言ってやっただけじゃない!」
ここまで来たら意地だ。意地でもこの態度を止めてやるものか。そう思って強気な態度を崩さないクリスティ。
「……そっか。何度言っても聞いてくれる気はないんだね?」
「ないわよ!」
ノエインは少し悲しそうな表情を浮かべると、「分かった。今日はもう下がっていいよ」と言ってクリスティを退室させた。
・・・・・
マチルダと2人きりになった執務室内で、ノエインは彼女に言う。
「予想してたけど、やっぱり駄目だったね。『再教育』を実行しよう。クリスティの暴言にここまで耐えさせてごめんね、マチルダ」
「ノエイン様が謝られる必要などありません……確かに彼女には腹が立ちますが、全て彼女が悪いのですから」
「ありがとう。とはいえ、彼女が現実を受け入れてくれないか見守ると決めたのは僕だからね。そのせいでマチルダが酷い言葉をぶつけられてしまったのは心苦しいよ」
「こうしてノエイン様にお気遣いいただければ、クリスティの言葉で感じた屈辱などすぐに忘れられます。どうかお気になさらないでください」
マチルダの言葉に「そう言ってもらえると助かるよ」甘えつつ、ノエインはまたため息をついた。クリスティの件を考えるときはため息ばかりが出てしまう。
そんな彼にマチルダが言葉を続ける。
「……私はてっきり、ノエイン様がクリスティのこともベンデラのように処分されるのかと思っていました」
「クリスティが自分の欲のために誰かを害しようとしたら処分も考えないといけないけど、彼女はそういうのじゃないからね。ただ自分の現状を受け入れられないだけなんだ」
小さく苦笑しながらノエインはマチルダに自分の考えを語った。
「彼女を買って、彼女の人生に責任を持つと決めたからには、主人としてできる限り導いてあげなきゃ可哀想だよ。現実を見る覚悟さえ決めてくれたら、彼女は能力を発揮して自分の居場所を作れるはずだからね」
ノエインにとっては、既にクリスティも領民の一人である。彼女が私利私欲のために他の領民を殺傷するなど決定的な害を与えない限りは、無慈悲に切り捨てるつもりはない。
「それに彼女は高かった。投資した分は回収しなきゃもったいないし、簡単に処分しちゃったら購入費用を稼いでくれた領民たちに申し訳ないよ」
ノエインの領主としての収益は、領民たちの納める税や、レスティオ山地で採掘から得られた売上で成り立っているのだ。クリスティの購入費用も自分一人で稼いだ金ではない以上、無駄にしては駄目だと考えていた。
「……浅はかなことを言って申し訳ございません。ノエイン様の慈悲深さに感服いたしました」
「いいさ。マチルダには彼女のことで苦労をかけたからね……さて、今夜は忙しくなるな」
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