第3話 大切で愛しいご主人様
マチルダが奴隷として売られたのはまだ10歳にも満たないときだった。
獣人の扱いは地域によってさまざまで、人間と変わらない扱いをする国もあれば、一律に奴隷として迫害する国もあれば、逆に獣人が人口の大半を占め、普通の人間を差別する国もある。
ロードベルク王国は獣人にとって、どちらかと言えば悪い国と言えるだろう。
決して法制度によって差別されているわけではない。獣人であっても才能によっては出世の道は示されているし、ごく少数だが獣人の貴族や騎士、学者というものもいる。
しかし、全体的に見れば、少数種族として侮られ、社会構造の底辺に置かれがちな存在だった。
王国南部に住むマチルダの両親もその例に漏れず、金も学もなくかろうじて奴隷落ちを免れている程度の貧しい小作農で、そのわりに双子や三つ子の多い兎人の特性として、子どもは8人もいた。
当然、全ての子どもを満足に食わせるには金が足りない。
家を継ぐ長男が最重要視され、それ以外の子どもは必然的に軽んじられた。
それどころか、末の子どもたちはある程度の年になると、口減らしとして奴隷商に売り払われた。
四女というみそっかすも甚だしい順番で生まれたマチルダも、金貨1枚であっさりと親元から引き離されることになる。
ロードベルク王国は南部ほど獣人差別が激しく、北部ほど獣人に寛容だ。
なので、南部で奴隷落ちし、この地の領主だという伯爵家に買われた兎人であるマチルダの日々は悲惨だった。
大した労働力にもならない子どもの奴隷で、しかも獣人だ。
水汲みや厠の掃除など他の者がやりたがらない仕事ばかりを押しつけられ、何かと理由をつけては殴られる。泣けばそれが気にくわないとまた殴られる。
人生に何の希望も見出せなくなり、身体が生きたまま心が死んだような状態になった15歳のとき新たに与えられた仕事が、ある少年の世話だった。
「――以降は伯爵家の屋敷には一切近づかず、身の回りの用は全てこの奴隷に言い遣わすように。奴隷は好きなように扱ってよいが、殺してしまった場合はお前の生活費から奴隷の代金を差し引く。以上が旦那様からの言伝となります」
マチルダを引きずるようにしてこの場へと連れてきたメイド長は、口調こそ丁寧に、しかしまるで汚物でも見るような目を少年に向けながら言い放つ。
貴族当主の息子だというその少年はなぜか屋敷から隔離され、敷地の隅にある小さな離れに住むことになったのだという。
そして、自分が彼の世話係になったらしい。
用件を言うだけ言ってメイド長は帰っていき、その場には少年とマチルダだけが取り残される。
ああ、次はこの少年が自分を殴るのか。下手をしたら自分を殺すのか。
そう考えていたマチルダに近づいた少年は、彼女の痣と傷だらけの顔に手を伸ばし、
「痛そうだね。可哀想に」
優しい表情でそう言って頬を撫でた。
・・・・・
同情されたのか、はたまた気まぐれだったのか、もともと獣人への差別感情を持たれていなかったのかは分からないが、ノエイン様は初めてお会いしたときから優しく接してくださった。
殴られることはなくなり、痣ができることもなくなり、肌は綺麗になっていった。ボサボサだった黒髪にも、次第に艶が戻っていった。
そればかりか、ノエイン様は自身が9歳で隔離されるまでに学んだ文字や算術の知識をそのまま私にも教えてくださった。
その結果、私は一通りの読み書きと計算ができるようになった。
さらにノエイン様は、難解な格闘術の指南書を読み聞かせてくださり、そこに書かれていた訓練方法を私にも理解できるようにかみ砕いて教えてくださった。
私の兎人としての身体能力を活かせるようにという彼なりの愛だったらしい。おかげで実戦経験に欠けるとはいえ、私はそれなりに体系的な戦いの術を身に着けることができた。
人生で初めての穏やかな生活を与えられ、知識も与えられ、ともに日々を過ごした。色々な話をした。ノエイン様の境遇も知った。
それまでの私の人生から見ればあまりにも多くの慈悲と愛情を与えられ、それが数年も積み重なれば、身も心もこの方に捧げたいと思うのはごく自然なことだろう。
出会った当初はまだ子どもだったノエイン様は、やがて青年へと成長された。
私は文字通り全てを彼に捧げ、彼もまた全身でそれを受け止めてくださった。歪んだ環境から生まれたものでも、貴族と奴隷という超えられない身分差があっても、愛は愛だ。
ある日、15歳の成人を迎えられたノエイン様を、キヴィレフト伯爵が訪ねられた。
それは、ノエイン様をこの屋敷から追い出すという話だった。そうなるだろうと、ノエイン様からはあらかじめ聞かされていた。
「伯爵家の奴隷を一人いただいてもよろしいでしょうか?」
「それはお前の世話をしていた兎人の女か?」
「はい」
「……いいだろう。ただし手切れ金からあの女の代金は引くぞ」
「もちろん構いません」
そう。ノエイン様は私が必要だと、伯爵家を出ても傍にいてほしいと言ってくださった。私を求めてくださった。手切れ金を減らされることなどまったく厭わず、他の何を求めるでもなく、私だけを求めてくださった。
辺境の開拓だろうと構わない。ノエイン様のお傍にいられるなら森でも荒野でも戦場でも地獄でも行こう。
私はそう決意していた。
・・・・・
そうか、昨日から私たちはノエイン様の領地へと住まいを移したのか。
ようやく空が白んできたほどの早朝に目を覚ましたマチルダは、自分がテントの中にいるのを見てそのことを思い出した。
過去を振り返るような夢をみたのは、この新天地にたどり着いたという感慨があったからだろう。
横でスウスウと寝息を立てる主の顔を見て、彼のことがどうしようもなく愛しい気持ちになってそっと頭を撫でる。
執念にも似た決意を抱えてこの地へ来られたとはいえ、ノエイン様はまだあどけなさを残した、半分は少年と言っても差し支えない年齢だ。
成人の貴族らしくあろうとする昼間とは違って素の表情で甘えてくる昨夜の彼を思い出しながら、テントの中に散らばった自分の服を拾い集めて着ると、朝食の用意をするために外へ出た。
ベゼル大森林に入る前にケーニッツ子爵領の街で買っておいた牛乳をポットに注ぎ、「火魔法・火種」の魔道具で焚き火を起こして牛乳を煮立たせると大麦を入れ、麦粥を作る。
音と匂いで目を覚まし、テントから顔を出した主に「おはようございます、ノエイン様」と声をかけた。
★★★★★★★
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