第一章

その1



        1 メアリー・クレメンス




 そもそものはじまりは、昨夜のことでした。


「あ、もう10時を過ぎていたのですね」


 そのとき、私は、いつもより、少しだけスマホのゲームアプリに夢中になっていたのです。レベルが調子よく上がっていて、それでのめり込んでしまって。


 そして気がついたら、夜中になっていました。これはいけません。明日のツイン学園での授業に支障をきたしてしまいます。もっと言うなら、夜ふかしは美容の敵です。


「今日はこの程度にしておきましょう」


 ひとり言で言いながら、私はスマホから目を離しました。寝るために、照明を消そうとして――そのときに気づいたのです。私しかいないはずの寝室に、純白の服を着た、銀色の髪の、エルフのように美しい女性が立っていることを!


「キャ!!」


 悲鳴を上げる私に、その女性が苦笑しました。


「あー、ご心配なく。怪しいものではありません」


 そんな言葉、誰が信用できるでしょう。私は枕元の非常ベルのボタンに手を伸ばしました。


「え、あら?」


 ボタンを押したのに、音がしません。私の視界の隅で、相変わらず女性が笑っていました。


「いま、その機能は停止していますよ。ちなみに叫んでも無駄です。――やっぱり、公共の面前で、きちんと事情を説明したほうがよかったかもしれませんね」


 よくわからないことを言いながら、その女性がこちらに近づいてきました。暴漢? それとも、身代金目当ての誘拐犯? 最悪、私は殺されてしまいます。こんなとき、エイブラハム様がいてくれれば。怯えて後ずさる私に、女性が丁寧な感じで会釈をしました。


 あまり、悪人には見えない感じでした。もちろん、私の部屋に不法侵入はしているのですけれど。


「怖がらないで聞いていただきたいのですが。――いえ、事情より、まずは自己紹介が先ですね」


 顔を上げながら女性が言い、少し考えるように小首をかしげました。


「信じられないかもしれませんが、実は、私は女神なのです。名前はシルヴィア。お久しぶりです。――いまは、確か、メアリーという名前でしたか」


「――女神様?」


 いきなりな女性の発言に、私は眉をひそめました。誰でもそうなるでしょう。女性は苦笑したままです。


「まあ、正確には、女神ではなく、女神の眷属のひとりなんですけどね。私も、まだまだ下っ端なもので。――信じられないというお顔をされていますね? 鍵のかかった部屋に音もなく入り込めて、非常ベルは機能しない。ほかにも何か、特殊な奇跡をお見せしましょうか?」


「――この程度のこと、力のある魔導師なら、雑作もなくできることかと思いますが?」


 この人は何を言っているのでしょうか。ただ、私の家には、そういう侵入者を防ぐための結界も張られているはずです。それすらもすり抜けて入ってきた、この女性の魔力には驚くしかありませんでしたが。


「まあ、この世界なら、そう言われても仕方がないですけどね」


 シルヴィアと名乗った女性が、困ったように苦笑しました。


「とりあえず私は、前のあなたが亡くなったときと同じ時期になったので、どんな具合いか確認しにきたのですよ。実は、あなたの前世のことなんですけどね。――というか、まずは軽く思いだしてもらいますから」


 言いながらシルヴィアが自分の右手を私に伸ばしてきました。反射で目をつぶってしまった私の額に、軽く何かが触れる感触がします。シルヴィアの指だったのでしょう。


 次の瞬間、私は目を見開いてしまいました。これは、フラッシュバックと言うのでしょうか。私の頭のなかで、大量の映像と音声が、一気に駆け巡りだしたのです!


『パパ、ママ』


 私は誰かに声をかけていました。でも、それは私の両親ではなかったのです。黄色い肌に黒い目、鼻の低い、アジア人の男女でした。


 そして、少し大きくなった私は自分の顔を鏡で見ていました。その顔もアジア人だったのです! それも、あまり異性に惹かれるような造形ではありませんでした。何よりも、うっすらと顎鬚が――


『よう、おまえ、クラスのなかで誰が好きなんだよ』


『俺は、○○かな』


 これは、あちらの世界の学校でしょうか。私は級友らしき男子たちと、他愛もない話をしていました。ちなみに、ほとんどの男子がアジア人です。


『ああ、あいつか。あいつ根性ねえぞ。ちょっとからかってスカートめくってやったらヒンヒン泣きだしてよ』


『なんだよそりゃ。格好悪い』


 他愛もない話どころではありませんでした。とんでもないことを話しています。淑女に対する礼儀など、何も考えてはいないようでした。ここは蛮族の集まりだったのでしょうか。


 さらに、私はパソコンをいじっていました。確か、まだ中学生だったはずなのに、「あなたは18歳以上ですか?」という質問に、平然とはいと答えて、そして、なんというか、男性と女性の、いかがわしい映像を見て――


「ああ!!」


 私は頭を押さえました。それでも、思いだす映像と音声は止まりません。――私は、ほかの友人たちと一緒に、自動車の走る夜の道路へ飛びだしていたのです。これは、ギリギリで自動車を避ける、チキンレースという危険な遊びでした。自動車を運転している大人たちをからかうという意味もあったと思います。


 そして私は、暴走したトラックに、本当にひかれかけた、あの娘を助けようとして――


「大体のところは思いだしてくれたようですね」


 気がつくと、私はぼうっとしていました。目の前にシルヴィアがいます。私はさっきまでと同じ寝室でひざまずいていました。


「あ、あの、鏡を」


 立ち上がりながら私は鏡台に目をむけました。――自分の声は、自分で聞いていてもソプラノに聞こえます。当然です。声変わりなどするはずがありません。私は女なのですから。


「見たければご自由にどうぞ」


 シルヴィアの言葉を聞き、私は鏡台の前まで行きました。――白い肌に青い目、金色の髪。そして胸も膨らんでいます。足の間におかしなものはついていません。そうです。これが私、メアリー・クレメンスのはずです。アリエーヌ王国の伯爵家の生まれで、通っているのはツイン学園。魔界大戦が終了し、和平の証として、魔族や勇者たちが共に通う学園で、魔将軍の家柄のエイブラハム様や、ほかの皆様と、ともに勉学に励んできたはずです。


「いまは、確かにその通りですね」


 私は何も言っていないのに、シルヴィアが言ってきました。たぶん、私の考えを読んだのだと思います。


「ただ、それ以前の記憶も、確実にあなたのものなんですよ。思いだした以上は否定できないでしょう?」


 シルヴィアの言葉を聞いても、私は返事ができませんでした。本当に否定できなかったからです。あのころ、私がどれだけ愚かなことをやってきたのか。廃屋で火遊びをして、火事を起こしかけたこともありました。いまの私の手に、あのときのやけどの跡は残っていませんでしたが。


「とりあえず、認めていただけますか? あなたは前世でアジア人の少年だったのですよ」


 シルヴィアの声は、ひどく静かに聞こえました。

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