第18話
朝陽と別れた日向は警察署から徒歩十分ほどにある自宅へ戻り、仮眠を取ってからシャワーを浴びて普段通り出社する。アルコールが抜けきれていない感覚があり、この日は外出業務が無いため風邪気味の振りをしてマスク装着でデスクワークをこなしていた。
「影山、【月島商事】さんから連絡が……何だ今日は酒臭いな」
直属の上司にそう言われてしまい、日向は作業を止めて深酒しましたと詫びを入れる。
「お前がそういうの珍しいな。担当の仕事じゃない案件だし、風邪気味とでも言っておくよ」
「そうして頂けると助かります」
その言葉を受けた上司は別の男性社員に声を掛け、【月島商事】へ出向くよう指示を飛ばしていた。彼の計らいで外回りを免れた日向は、その日の業務を終えて定時でオフィスを後にする。年末の慌ただしい時期で残業を強いられている社員も散見し、外は真っ暗だったがビルの灯りは煌々と点っていた。
「今日はもうしんどい」
睡眠をほとんど取れなかったため、夕飯をすっ飛ばしてでも布団に入ろうと決めて本社ビルの正面玄関を出た瞬間、見たことの無い中年女性が前方で立っている。彼女は白い紙袋を持っており、日向を一点に見つめていた。
知らんけど知ってる……彼は吸い寄せられるように女性に向けて歩みを進める。彼女もまた日向に向けて美しい微笑みを見せ、迎え入れるように待っていた。
「初めまして、影山日向君ね」
女性の問いかけに日向ははいと頷く。
「月島、雪乃さん……」
「えぇ」
実母となる月島雪乃は微笑みながら目に涙をためていた。これまで色褪せた余所事の事実に過ぎなかった二人の親子関係に一気に色が付き始め、初対面であるはずなのに距離を取らせる溝は取っ払われている。これまで何があろうと影山つばきが自身の母親であると固辞したい思いがあったが、いざ対峙すると雪乃もまた日向にとって必要な母性を携えていた。
「あなたが、俺の……」
「えぇ、でもそれはあなた自身で決めていいの」
「……」
雪乃は持参していた紙袋を日向に手渡す。似たような形状のものが実家から出てきているので中身は察しが付いた。
「これって……」
「そう、つばきさんから毎年送られてきた成長記録よ。あなたのご実家からは朝陽のものが出てきたんじゃないかしら?」
「はい、それは朝陽さんにお渡ししてます」
実の親子でありながら初対面となる二人は、他所他所しいながらも並んで歩く。
「昨夜はありがとう、朝陽のこと」
「いえ、俺も用があったといえばあったので」
「そうだったのね」
雪乃は隣を歩く我が子の横顔に微笑みかけた。日向の視界には映っていなかったが、隣からは優しい空気が伝わっていた。だからこそ夏彦が彼女を毛嫌いし、朝陽を蔑ろにしてきた心理が余計に分からなくなる。つばきを愛していたからと言えば聞こえはいいが、妻として迎え入れておきながらの仕打ちにやりきれないものが込み上げてきた。
「あの、差し出がましいことを伺ってもいいですか?」
日向は隣にいる実母へ体を向ける。
「何かしら?」
「月島社長との夫婦生活、辛く……なかったんですか?」
日向にとって、以前対峙した夏彦との対話でずっと気になっていたことだった。雪乃は一瞬だけ寂しそうな表情を見せたが、すぐに口角を上げて寂しかったわよと答える。
「離婚、しようって思わなかったんですか?」
「頭をよぎることはあったけど、行動に起こしたことは無かったわね。私なりに彼のことは愛していたのよ」
何であんな男愛せるんや? つばきにしろ雪乃にしろ、女性にしか分からない魅力が夏彦には備わっているのか? その方向で考えてみても、日向自身が男であるため皆目理解できなかった。
「けれど夫はつばきさんとの再婚を考えていてね、それを実現させるために寒川を近付けさせたの。既成事実ができればそれをかさに離婚できるって魂胆だったそうよ」
寒川は夏彦の指示に従って雪乃に近づき、性的な関係を持つ間柄となる。ところが彼自身かねてより雪乃を思い慕っており、いずれ彼女を月島家から連れ出そうと考えていたそうだ。
「それを知ったのは随分と後になってからなの。子会社に出向になって退職した後、実家の母宛てに届いた寒川の手紙にそう書いてあったって聞いてるわ」
淡々と事実を伝えていく実母の姿に日向の心が疼き始める。
「でもね、仮に知っていたとしても当時の私は寒川の手を取らなかったと思うの」
「寒川……俺の実父を愛することはできんかったんですね」
「えぇ」
雪乃は立ち止まってから頷いた。
「寒川は、子供ができたことを喜んでくれたのよ。自身の手で育てられないと分かっていても、私の身勝手を知った時も責めてくることは無かったわ。でも当時の私には彼の心情が理解できなかったの、半分強姦のように扱ってたくせにって思っていたから」
「……」
「今思えば私が一方的に寒川を拒絶していただけなの。彼は真面目にあなたを愛していたのだと思う、何度かつばきさんを訪ねているそうだから」
ヒュッと吹いた突風で雪乃の髪がなびき、顔にかからぬよう左手で乱れを抑える。その手は良家の婦人とは思えぬほどのかさつきで、苦労の年輪が伺えた。
日向はその手に母を思う。見た目はそれなりに美しく身なりを整えているが、家事をこなし子供を育て上げた母親の手であった。この手で産まれたばかりの俺を抱いてくれたのか……記憶に残っていない出生時に思いを馳せていると、乾燥した若々しくない手が愛おしく感じる。
雪乃は空いている右手で日向の首筋をそっと触る。寒川の遺伝ともいえる大きな痣がある位置で、ひんやりとした感触に日向の体がかすかに震えた。約三十年振りに触れ合った二人は、これまで誰に対しても抱かなかった新たな気の流れを感じ取っており、まさに血を分けた関係性であることを実感させられる時間であった。
日向は首筋にある雪乃の手を握る。かさついた手からは温もりが伝わってきた。雪乃は更に日向との距離を縮め、髪を抑えていた左手で成長した息子の体を抱きしめる。つばきとはまた違った安心感に包まれた日向は、実母の体に身を委ねた。
「お、母……さん」
母と認めてもらえることなど期待していなかった雪乃は、その言葉を聞けただけでも感慨深い気持ちになって腕に力がこもる。日向もまた雪乃の体にしがみつき、子供のように泣きじゃくっていた。
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