第17話
不法侵入罪で最寄りの警察署に連行された二人は、事情聴取を受けて釈放された頃には空の色が変わり始めていた。二人は並んで警察署を出ると、日向はポケットを探ってシャンパンゴールドのスマートフォンを取り出す。
「これ、持って帰り」
「えっ?」
朝陽は一瞬きょとんとしたしていたが、そういえばと思い直して今度は素直に受け取った。
「壊れちゃってるね」
「自分でしたんやろ」
画面の割れたスマートフォンを手に、呑気そうに笑っている朝陽の姿に日向も吹き出してしまう。
「んじゃ、俺こっちやから」
日向は朝陽の自宅とは逆の方向を指差した。
「うん、じゃあね」
二人はそこで別れ、互いに背を向けて帰路に着く。朝陽は人っ子一人いない道をとぼとぼと歩き、帰宅した頃には空もすっかり明るくなっていた。何時間歩いたっけ? 足はぼろぼろに疲れていたが、心はこれまでに無く晴れやかだった。
「朝陽ッ!」
門戸を開ける音に合わせて、雪乃が血相を変えて玄関から飛び出してくる。これまでどことなく余所余所しかった女性が、自身を本気で心配している表情に多少の戸惑いを感じた。しかしそれが凛とした母親像として映り、本当の拠り所を作って待っていてくれていたことが何よりも嬉しかった。
「お帰りなさい」
「ただいま」
雪乃は久し振りの笑顔を見せた朝陽の体を優しく抱きしめ、それに安らぎを感じて初めて心の底から身を委ねる。警察署から連絡はあったはずなのだが、彼女はなぜ黙って出掛けたのか? 廃墟ビルに侵入して一体何をしていたのか? などと詮索しなかった。
「今日はゆっくり休みなさい」
雪乃は朝陽を自宅に迎え入れる。朝陽はその言葉に甘えてその日は一日中泥のように眠り、翌朝は何年か振りに清々しく目を覚ました。
それ以降の朝陽は見違えるほどに安定し、すぐにでも復職できそうなほどの回復振りを見せている。それでも無理はさせられないとメンタルクリニックへは通院していたが、これまでと打って変わった患者の姿に医師の方が驚いていた。ただ急激に元の生活に戻すのはかえって危険だということになり、徐々に外の世界に慣れていこうと外出を増やしている。
そうしていくうちに思考が意欲的になった朝陽は、気持ちの整理を付けようと自分から美空にコンタクトを取る。合う日時を決めてから、プロポーズをしたレストランを予約した。
「長い間連絡できなくてごめんね」
「私の方こそ、お見舞いにも出向かなくて……」
美空は申し訳無さげにそう言ったが、朝陽は母が自身を気遣った上でしたことだと理解していた。彼女はそれに従うことがさいぜんだとそうしただけなので何のわだかまりも残っていない。二人はプロポーズの時と同じ席で、同じフルコースメニューを仲良く食べた。
「美空」
「はい」
「君の人生は君らしく生きてほしい。だから婚約は破棄しよう」
朝陽の心には憎悪も悔しさも消え去っており、ただ美空の幸せを願っていた。一方の彼女は多少の罪悪感を抱えていたものの、日向と共に歩む決意を固めていたのではいと頷いて指輪を返却する。
「どうか日向と幸せになって」
「ごめんなさい……ありがとう」
美空は謝意と礼を述べてからひと足先に店を出て行った。その後も一人席に着いたままぼんやりと外を眺めている朝陽の元に、キツめの目つきに濃いルージュを施した氷上蒼が外から彼の姿を見つけて嬉しそうに入店する。
「お待ちになられたかしら?」
「まぁね。単に早く来すぎただけだからあまり気にしないで」
明らかに張り切っている感のある蒼に朝陽は鉄仮面のような笑みを浮かべ、近くにいるウェイターにコーヒーを二人分注文した。
「ご連絡頂けて嬉しかったわ、綿駆使今日この日を心待ちにしておりましたのよ」
「ごめんね、もっと早く会っておきたかったんだけど」
「お気になさらないで。体調不良と伺ってましたので心配致しておりましたの」
これまで以上に身に着けているものにお金をかけ、明らかに濃く仕上がったメイク顔の蒼は勝ち誇った表情を見せている。
「うん、最近やっと良くなってきたんだ。心配をかけたみたいです申し訳無かったね」
当たり障りのない対話をしている二人のテーブルに、先程と同じウェイターが二つのコーヒーカップを配膳した。
「お待たせ致しました」
「どうもありがとう」
朝陽は彼に礼を言って視線を合わせる。一方の蒼は見向きもせずさっさとカップに手を伸ばした。美空はサービス業経験があり、その業界の店員たちに必ず笑顔を向けていたことを思い出す。そういった細かい気配りのできるところが没落お嬢様であっても気品が消え失せないのだろうと、振られてもなおいい女だと思わせる振る舞いの上品さが彼女にはあった。
「そうだ、君に渡したいものがあってね」
朝陽は美空とは真逆の振る舞いを見せている蒼の前にジュエリーボックスを差し出す。蒼はいそいそとカップを置き、物欲しそうな態度でそれに手を伸ばした。
「まぁ、何かしら?」
「開けてみて」
朝陽がそう言い切らないうちに、蒼はためらいなく閉まっている蓋を押し開ける。
「これを……私に?」
彼女は満面の笑みを浮かべて、ボックスの中身を朝陽に見えるように向きを変える。その中には一カラット近くあるダイヤモンドの乗った指環が入っていた。
「なんて素敵なの、本当に私が受け取っても宜しくて?」
「気に入ってくれた?」
「もちろんだわ」
蒼は朝陽側に向けていたジュエリーボックスをすっと差し出すが、朝陽はにこやかに頷くだけであった。
「はめてみたら? サイズが合ってるといいんだけど」
そう言われた蒼は少々表情を曇らせながらも、手の中にある美しい指環に魅せられて、嬉しそうに指で摘むと自身で左手薬指に装着させる。
「キレイ……」
「よく似合ってると思うよ、サイズも問題無さそうだね」
朝陽は向かい席の女の様子を冷ややかに見つめていた。
「えぇ、どうもありがとう」
一方の蒼は、無表情でいる朝陽を無視してキラキラと輝くダイヤモンドをうっとりと眺めている。しかし待てど暮せど期待していた言葉が耳に届いてこない。
「朝陽さん?」
彼女は鉄仮面の笑顔を作る朝陽に催促の視線を送る。
「欲しければあげるよ、それ」
「えっ?」
「何だと思ってたの?」
「婚約指輪ではなくて?」
期待外れのやり取りに蒼の目がぴくりと動いた。
「今はただの指環だけど。何か問題あった?」
「今はってどういうことですの?」
「言葉のままだよ」
朝陽はそう言って乾いた笑い声を立てる。
「何が可笑しいんですの?」
「可笑しいよ。だってそれ、元は美空の婚約指輪だったんだから。少なくともあの日までは彼女の左手薬指に収まっていたんじゃないかなぁ?」
「は?」
「君の婚約指環なんかある訳無いでしょ。そんなのを嬉しそうにはめてさ、滑稽すぎて笑うしかないじゃない」
指環の出処を知った蒼の目は一気に吊り上がり、はめていた指環を抜いて朝陽に投げつけた。
「私を馬鹿にしてらしたの⁉」
逆上した彼女は、店内に響き渡るほどの大声を上げて他の客たちの注目の的となる。
「馬鹿にしているんじゃなくて馬鹿なんだよ君は」
「何ですって⁉」
「これまでずっと美空からいろんなものを掠め盗ってきてるんでしょ? そんな君だからこそお似合いだと思っていたのに、気に入ってもらえなくて残念だよ」
朝陽は外国人顔負けのジェスチャーを見せて方を竦めてみせた。
「ふざけないで‼ この私にあの女のお古を寄越すなんてどういう神経していらっしゃるの⁉」
「美空のお古で満足していたのは君の方じゃない」
朝陽は投げつけられて床に転がった指環を拾い上げ、テーブルの隅っこに置かれていたボックスに戻してポケットに入れる。
「彼女を散々傷つけてきたあんただけはどうしても許せなくてね、その面二度と晒さないでくれないかな」
彼は感情的になって泣き崩れる蒼に向け、冷たくそう言い放った。
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