第9話

 三年の交際を経て月島朝陽と婚約した有明美空だが、幸せ絶頂のはずである中、元同級生の氷上蒼が再度姿を見せたことで精神状態が不安定になっている。

『落ちぶれ者のくせに!』

 かつて交際していた大学時代の先輩影山日向との関係を壊され、朝陽との関係も脅かそうとしてくる彼女に必要以上に怯えていた。あんな思いはもう二度としたくない……呪文のように心で唱え続けているうちに体調を崩し、仕事を休まねばならない事態になってしまっている。

 こんな時に限って元恋人である日向の顔を思い出していた美空は、婚約者が見舞いから帰った直後にスマートフォンを手に取り、長らく使っていなかった連絡先に指を伸ばしていた。何度かのコールではいという男性の声が耳に届き、名乗る前に咽び泣いてしまう。

「ごめん、なさい……」

『美空、なんか?』

 懐かしい関西弁に張り詰めていた心がほぐれていくのを感じていた。美空は数分涙が止まらず、まともに話せぬままの状態に何度も謝って涙を堪えようとする。

『我慢せんでえぇ、落ち着くまで待っとくから』

「日向、先輩……」

 元カレ言葉に守られているような気持ちになり、泣くという行為で溜まっていたものを吐き出した。

『落ち着いたか?』

 美空が泣き止むのを待っていた日向から声が掛かり、涙声ながらもありがとうと答える。

「あ……氷上さんとは、上手くいってるの?」

『あんなんと付き合う訳ないやろ』

「そう、だったの?」

 てっきり二人は交際しているものだと思い込んでいた美空の中で、後悔めいたものがうずまき始めていた。あの時逃げなければよかった……日向との久し振りの通話中、交際期間の思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡る。彼とはくだらないことで笑い合い、時には激しいケンカもした。交際当初は当時十代だったこともあり、能動的に愛して思い出も数多くあった。

 一方朝陽との交際は穏やかで言い合うことも滅多に無く、不自由は無くとも常に何かに飢えている彼とどう向き合えばよいのか戸惑うことがある。裕福な家庭環境で育ちはしたが、両親から十分な愛情を受けられなかった寂しさが時としてシニカルな一面を出しているのかもしれないと感じていた。

 朝陽は基本的に優しい男性なので、一緒にいると心が安らげる存在だ。しかし愛情の枯渇によってできてしまった黒い性分が彼に暗い影を落としており、それがどうにも放っておけず恋愛感情以上に母性が強く働いている状態であった。

「私……蒼が恐い」

 美空は朝陽との婚約を決めた選択を間違いだとは思っていない。しかし衝動的に日向に会いたい思いがふつふつと芽生え、朝陽に言えない弱い側面を晒していた。

「もう、大切にしている人やものを奪われたくない」

『そういうことは俺にやのうて月島さんに言い』

 突き放されたように気持ちになった彼女は、軽いショックを受け言葉が詰まる。

『生涯を共にするって決めた相手なんやろ? ならもっとホンマの気持ちぶつけたらんと彼かえって不安がるで』

「えっ?」

『負担になりたないとか考える前に信じたれって話』

 日向の厳しくも優しい言葉に美空はうんと頷いた。

『それとも、連絡取りにくいんか?』

「うん……彼の部署今忙しくて」

 何だか言い訳がましいな……美空はそんなことを思いながら日向の言葉を待つ。

『そうか。まぁ、調子戻ったらメールくらいしたったら?』

 彼は少し間を置いてからそう言った。

「うん、そうする」

『氷上に取られるんが嫌なら自分から動きや』

 二人の対話がそこでふっと途切れる。交際していた当時からこの静寂も決して嫌いではなかったなと、それすらも楽しく感じていた。

「日向君、また連絡してもいい?」

 静寂を破ったのは美空の方で、無意識に元の呼び方に変えていた。ちょっと調子に乗っちゃってるかな? そういった考えがふとよぎったが、携帯越しの日向は笑っているだけだったので訂正するのはやめておく。

『話するくらいなら。ただ優先順位は間違うたらあかんで』

「うん、ありがとう」

 交流再開の了承をもらえたことに安堵した美空の心はほんのりと温かくなる。日向と話をすることで少しずつ生気がみなぎるのを感じ、久し振りの長電話で声を立てて笑った。

 それから体調も徐々に良くなってきた美空は、約半月振りに朝陽の携帯電話に連絡を入れる。繋がりはしなかったが、履歴に気付いたであろう婚約者の方から折り返す形で通話着信があった。

「ごめんなさい、何度も連絡くれてたのに」

『そこは体調優先でいいよ。もう平気なの?』

 婚約者の気遣いをありがたく思う反面、頭の片隅で日向のことを考えていた。

「復帰は明日もう一度病院に行ってから考えるつもりでいるの、でも随分とよくなったわ」

『それならよかった。一つ聞いてもいいかな?』

 美空は何の気無しに何? と聞き返す。

『二回ほど話し中だったんだけど』

 朝陽の言葉に彼女の心臓が跳ね返った。正直に日向と長電話をしていたなどと言えば気分を害するに違いない……そう考えて実家から電話があったと答える。

『長電話してたんだね』

「えぇ、離れてるから心配されちゃって」

『確かにそうだよね、お見舞いには?』

「妹が来てくれたの」

 朝陽は特に疑いを持たなかったのかそうとだけ返事した。二人の対話はそこで途切れ、これまで感じなかった寂しいものがまとい始めていく。それを打ち破るかのように朝陽の方から美空、と声が掛かった。

『仕事が落ち着いたらどこかへ行こう、この前のリベンジ』

「えぇ、楽しみにしてるわね」

 日向への思いを隠しつつも、朝陽からのデートの誘いを嬉しく思う。その後生活も元に戻り、彼の仕事もひと段落付いていよいよ約束のデート当日となる。美空はこの日に備えて朝陽好みの女性らしいデザインのワンピースを新調し、ヘアメイクアレンジも美容院でしてもらうほどに婚約者に会えるのを心待ちにしていた。

 休日ということもあって朝から多くの人で賑わい、ウキウキした気持ちを抑えながら朝陽の到着を待つ。その間視界に広がる大きな交差点を行き交う大勢の人たちを眺めていると、知人男性の姿を捕らえて表情が変わった。指のサイズほどの彼の表情は見て取れなかったが、ピリ付いた空気をまとわせながら通話をしていた。

 美空は男性から視線が離せず、いても立ってもいられなくなる。数分後に歩行者信号が青に変わった瞬間、約束を反古にして走り出していた。

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