第7話

 この日の仕事を全てキャンセルしてまで奈良へ赴き、かつて愛したつばきの焼香と我が子であるはずの日向と対峙した夏彦だったが、まさか恐怖と憎悪を蘇らせる事態になるとは考えてもみなかった。一体どうなっているんだ?……自身とつばきとの間にできた子にあるはずのホクロは無く、代わりにあったのは左首筋にある大きなアザだった。

 彼にはこのアザに見憶えがあった。かつて自身の秘書を務めていた寒川という名の男にもほぼ同じようなアザがあり、かねてより妻雪乃を思い慕っていることも知っていた。つばきとの婚姻を成就させたいがために彼を焚き付けて妻に迫らせ、既成事実をかさに離婚を企てていた。

 ところが先代社長である父に企みの全てがバレてしまい、自身の計画は完膚無きまでの潰された。よって雪乃との離婚も不義の子の中絶も無くなり、体裁に見合う形で妻と秘書との間にできた子は月島商事の次期跡取りとして世に知らされる結果となる。

 それを見計らうようにつばきは姿を消し、以来二人の間にできた子とはこれまで一度も会うことは無かった。しかし夏彦にとってはその子こそが実子だと、赤髪と口元にホクロのある我が子を片時も忘れなかった。それから月日は流れ、不義の子として産まれながらも、それなりに出来の良い世継ぎに成長した朝陽が没落令嬢との結婚を決めた。

 一旦は親戚を挙げて反対したが、妻の懸命な説得と美空の美しさを目の当たりにしたことで周囲が折れ始め、体裁の一環として結婚に同意して婚約パーティーを計画した。その頃にはつばきが奈良に戻っていることも、その子供が日向と命名されていることも知っていた。

 まさか彼女が世を去っているとは思わなかったが、取引先企業に【影山日向】という名を見つけて調べさせた。その結果奈良県出身で朝陽と仕事上で接点があったと分かり、そこに目を付けて一度姿を見ておこうと彼宛に会社に招待状を送った。

 直接会うまで確証は無かった。しかし対峙してみると顔立ちこそ似ていないが、持っている雰囲気はつばきを彷彿とさせるものを持っていた。口元のホクロは成長過程で消えたのかも、平成生まれの若い男性であればベースメイクぐらいはしているかも知れないからそのせいだろう、赤髪も世間では咎められるだろうから染めている可能性もある……あらゆる可能性を考えて日向を実子だと思い込んでいた。

 それなのに一瞬だけ見せた冷ややかな態度で全てが打ち砕かれた結果となる。あの男は一体誰なんだ? 我が子だと思っていた日向はどこにいるんだ? 裏切られたような気持ちに苛まれた夏彦は、失意を胸に帰路に着いた。住み慣れてはいても落ち着ける場ではない我が家に入ると、今やすっかり冷めきった仲となっている妻の個人部屋に直行する。

『どういうことだ⁉』

 夏彦は部屋のドアをノックもせず、失意を怒りに変えて妻をなじる。雪乃にしてみれば夫の不機嫌の理由が分からず眉をひそめた。

『何がです?』

『俺とつばきの子はどこへやった⁉』

『朝陽なら家におりますが』

 妻の事も無さげな物言いに夏彦は表情を歪める。

『何を訳の分からないことを言ってるんだ⁉』

『訳の分からないことではなく事実ですよ?』

『なら日向ってのはどこの誰の子なんだよ⁉』

 夏彦は対話の温度差に苛立ちを募らせて声を荒げた。

『私が産んだ子です』

 雪乃はそう言って冷ややかな視線を夫に向ける。

『俺たちの子はどこにいる⁉』

『ですからその子が朝陽なんですよ』

 彼女は何度も打ち明けようとしてそっぽを向かれ続けてきたことを、ようやっと吐露できて大きく息を吐いた。

『なぜそんな大事なことを今まで黙っていたんだ⁉』

 自身の態度を棚上げする夏彦に雪乃はふんと鼻であしらう。

『あら。これまでただの一度でも私の話を聞こうとなさったこと、おありだったかしら?』

 彼女は開き直ったように腕組みをし、自身よりもはるかに身長の高い夫を見下す視線を送った。

『これまで培ってきた俺も思いがどうなる⁉ 無駄骨だとでも言いたいのか‼』

『さぁ、あなたこそ赤髪と口元のホクロでどうしてお気付きにならなかったの?』

『それはお前が産んだとばかり思っていたからだ‼ 何も言わなかったお前が悪い‼』

 夏彦は自身の非を全く認めること無く更に妻をなじる。これまでこうして屈服させてきたがこの日はそうならず、雪乃は全く表情を変えなかった。

『あなた愛人との時間をどう過ごされていたんです? せっかく黙認して差し上げましたのに、一体何をご覧になっていたんです?』

『何だ‼ 居直る気か⁉』

『血を分けた我が子でさえも見分けられないとは愛と聞いて呆れますわね、今頃つばきさんもあの世で涙をこぼされているんじゃないかしら? 『二十八年間私の子を蔑ろにして』ってね』

 結婚して三十年近く存在そのものを毛嫌いされ、寒川をけしかけて離婚を企てていたことも周知していた雪乃は、人権を踏みにじられ続けた寂しさが恨みとなって一気に噴出していた。今更それを押し殺すのも馬鹿らしくなり、これまでの我慢を止めた瞬間虚栄を張る夫が滑稽な存在にしか映らなくなっていく。

『寒川との子だと後継に相応しくないでしょう? ですからつばきさんと話し合って、無事に出産したらお互いの子供を交換することになりましたの。もちろんすんなりではありませんでしたけど、彼女私の気持ちを汲み取って了承してくださったわ。私の言葉では信じないことを考慮なさる言動はおありだったはずですよ、それにさえもお気付きにならず二十八年間私の子に思いを馳せてらしたの?』

 雪乃は真実を打ち明けられて徐々に打ちひしがれていく夫を面白そうに見下ろしていた。夏彦の脳内処理はなかなか上手くいかずその場にへたり込んで口角を上げている妻を見上げている。

『あなたは体の特徴だけを覚えて、朝陽そのものを全く見ていなかったんですよ。それのみに留まらず、つばきさんが引き取った私の子を実子だと思い込んでいた姿はなかなかに滑稽でしたわよ』

『なら日向は……』

『先ほども申し上げました通り、寒川に孕まされた子ですわよ』

 彼女はそう言い放ってから自嘲するかのような乾いた笑い声を立てた。

『ついでですので教えて差し上げますわね。朝陽の名付け親はつばきさんですのよ』

 雪乃は男性のお手伝いを呼び付け、虚ろな表情で座り込んでいる夫を部屋から追い出した。

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