第4話

 まさか……婚約パーティーを終えて以降、月島雪乃ゆきのは自宅にこもって物思いに耽ることが多くなっていた。夫の収入だけのみで暮らしていけるので仕事をしておらず、結婚してからは用が無い限り外出をしない生活が続いている。

 夫である夏彦は独身時代から交際していた女性に夢中で、結婚当初から冷え切った仲であった。社交の場でさえもほとんど同行させてもらえず、息子朝陽の婚約パーティーはかなり久し振りに公の場に顔を出す形となった。

 雪乃は部屋の中で白いアルバムを開き、色白で左首筋にアザのある若い男性の写真を愛しそうに見つめている。歳の頃は朝陽とほぼ同世代で、成長していくにつれて隣にいる女性ではなく雪乃に似てきていた。

『私の子供を差し上げます』

 当時雪乃は妊娠していた。しかし夫との間にできた子ではなく、寒川さむかわという名の夏彦の部下に強姦された結果宿ってしまった命であった。それが元で夫が離婚を画策し始めたので一度は中絶も考えたが、先代社長である義父がそれを許さず息子の画策も握り潰した。

『あのメス豚も妊娠したらしい』

 義父からもたらされた情報を頼りに月島商事からほど近い集合住宅に辿り着き、夫の不倫相手である影山つばきという名の女性と対峙した。

『あなたの子供を私にください』

 雪乃は夏彦とつばきとの不倫そのものに心は乱されなかった。しかし不義の子を月島商事の後継にはできないという体裁しか頭に無く、自身が産む予定の子よりも月島の血をひくつばきの腹にいる子の方が相応しいと考えていた。

『代わりに私の子を差し上げます』

『えっ……?』

『あなただって望んだ状態の妊娠ではない訳じゃない?』

『でも……』

 いくら予定外の懐妊だったと言っても、つばきにとっては愛する男性との間にできた子なので嬉しさは当然あった。そんな我が子を手放せだなんて……随分と身勝手な要望をしてくるものだと警戒を込めた視線を雪乃に向ける。

『私の子は夫との間の子ではないの、彼にはあなたがいるから私に求めてこないのよ』

『……』

『当然私が妊娠するなんておかしな話だから、夫はこれ幸いと離婚を切り出してきたの。でも体裁もあって先代社長に跳ね返されてね』

 自身たちの恋情が元で苦しんでいる人間を目の当たりにしたつばきは、不倫というものの罪深さを実感していた。

『かと言って不義の子を世継ぎにはできないのよ、だから月島の血を引くあなたの子を後継として育てさせて頂きたいの』

『それで私があなたの子を……』

『えぇ。それさえ叶えばあなたと夫との関係は生涯続けて頂いて構わないわ』

 雪乃は自嘲するような微笑みを浮かべながらつばきを見る。

『子供のことは夏彦さんにどうお報せするんです?』

『私から話すべきだけどきっと聞いてくれないでしょうね、だから時間の許す限りあなたと一緒に過ごした方がいいと思うの。あなたの子供のことは可愛がるんじゃないかって……』

『あなたはそれでいいんですか?』

『今更そんな野暮なこと聞かないで』

 彼女はそう言ってすっと下を向いた。つばきはその仕草で目の前にいる女性の孤独を悟る。

『分かりました。あなたの子供は私が育てます』

 それで不倫が許される訳ではなくても、不義の子を孕まされた雪乃の受難の要因が自分たちの身勝手な振る舞いの中にもあるのではないか、という考えがふと脳裏をかすめる。つばきは罪を償う意味合いも込めて雪乃の要望を了承した。

 その約束を交わした後二人は同じ産科での出産を決めて交流を図り、出産時期になると友人に近い関係となっていた。それから二人は全く同じタイミングで、その年の冬至であった十二月二十一日午前零時ちょうどに男の子を出産する。

 雪乃が産んだ子は色白で左側の首筋に大きめのアザがあり、二千五百二十九グラムとやや小さく産まれた。たった一人で出産に立ち向かい、不義の子であっても元気に産まれてくれた我が子を愛おしく思う。相手男性の寒川と全く同じ位置に遺伝してしまったアザを不憫に感じはしたが、自身に似た部分もしっかりと受け継いだ面もあり中絶をしなくてよかったと間もなく別れる我が子に初乳を与えていた。

 一方つばきが産んだ子は彼女に似た赤髪で口元にホクロがあり、顔立ちは夏彦に似た端正な顔立ちであった。夏彦は当然のように出産に立ち会い、元気よくしっかりとした体付きの我が子を愛でていた。これから会う機会が減るかもしれないと自身に似ている部分を探し当てて限られた時間で一生懸命我が子を目に焼き付けようとしていた。

『よく見てあげて』

 つばきはそう言って我が子を慈しむ夏彦に催促した。雪乃との対話が絶望的であればこうするしかないのかも……そうすることによってもうじき入れ替わることになっても必ず気付いてくれると信じて。

 数日後、二人は退院までのわずかなチャンスを狙って赤子と共に対面して、誰にも知られることなく互いの子を交換して別れを告げた。雪乃が産んだ子には【日向】、つばきが産んだ子には【朝陽】と名付けられ、母子が入れ替わった状態のまま時が流れていった。

 雪乃が手にしているアルバムは、それから程なく実家に戻ったつばきから送られてきた実子日向の成長記録であった。特に示し合わせてそうした訳ではないか、彼女もまた同じようなものをつばきのいる奈良に送り続けていた。それはつばきが亡くなった十年前に途絶えたが、息子の婚約パーティーの場でニアミスしたことに動揺を隠せなかった。

 あの子は私を知らないはず……雪乃は咄嗟の判断で体調不良を装い、付き人の影に隠れていた。初めて直に見る実子は顔立ちこそ寒川に似たが、育った環境を映しているのか雰囲気はつばきを彷彿とさせる優しさが備わっているように見えた。遠目からでも我が子を……としばし実子の動きを観察していたが、彼女と同じ左利きが遺伝しているのを見た瞬間すぐにでも駆け寄って抱きしめたくなった。

 しかしそれはできなかった。出産の際二度と会わないと心に決めてつばきに我が子を託したのだ。雪乃は衝動を押し殺し、別室に移動する選択をした。その後体調を心配した朝陽の婚約者美空と顔を合わせて衝動を紛らわせたが、成長した実子の姿が脳裏に焼き付いて切り離すことができなくなっていた。

 婚約パーティーの機会を利用して夏彦が日向との対峙を狙っているのは雪乃も薄々勘付いていた。月島商事の情報網があれば退院直後に姿を消した愛しきつばきの所在など簡単に見つけられたであろう。しかし夫は子供を取り替えている事実には気付いていないと見え、恐らくは日向を実子だと思い込んでいる様子であった。

 いずれ話はしないと……雪乃は何度も夏彦と対話の場を設けようとした。それこそ先代社長に頼み込んで会食の場をセッティングしてもらったこともあった。ところが夏彦はあれやこれやと理由を付けて逃げ回り、不義の子を産み育てやがってとなじるばかりであった。

 この子こそつばきが産んだ子なの……衝動的に言葉に出しても殴られるだけであった。赤髪で口元にホクロのある我が子を見向きもせず、一切の愛情を注いでこなかった。夫の愛情を自身に向けることすらままならず、つばきの子朝陽に期待した一縷の望みも今や絶たれている状態で、それに対する申し訳なさも手伝ってどことなくよそよそしい態度で接してしまっていた。

 朝陽もそれは感じ取っていたのかもしれない……子供の頃から手の掛からない『いい子』で育ち、自分たち両親に対して甘えたい気持ちを遠慮させているのを心苦しく感じていた。

『会ってほしい人がいる』

 朝陽がそう言って連れてきた美空は賢く美しく女性だが、没落した社長令嬢という理由で夫も親戚たちも難色を示した。雪乃は大切に思いながらも愛情いっぱいにしてあげられなかった我が子に対し、せめて本気で愛した女性と結ばれてほしいと反対する親戚たちの説得役を買って出た。

『朝陽が選んだ女性だから信じてあげてほしい、家が没落したのは彼女の責任ではない』

 そんな説得が実を結び、親戚たちも今となっては美空の優しく美しい人柄を評価している状態だ。夏彦はまだ思うところがある風だが、息子たちの婚約パーティーを計画する程度には態度を軟化させている。

 そんな二人は微笑ましくなるほど順調に愛を育み、この日は仕事後のデートで帰宅が遅くなると聞いていた。雪乃は一人になるのをいいことに、実子の写真が収められているアルバムをダイニングに持って降りてゆったりとした時間を過ごしていた。

「ただいま」

 ところがなぜか普段よりも少し遅い程度の時間に朝陽が帰宅し、慌ててアルバムを二階の自室に置いてからさも今まで部屋でくつろいでいましたという体で息子を出迎える。

「お帰りなさい、美空ちゃんは?」

「体調不良で早退したんだって」

「そう、お見舞い行った方がいいかしら?」

「さっき行ってきたけど、無理はさせない方が良さそうな感じだった」

「姑相手だと気を遣わせるわね」

 雪乃は傍らに立っている家政婦に食事の支度を指示すると、私はもう済ませているからと二階に上がり、再びアルバムを手に取った。

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