味噌汁美味
雲間から朝日が帯状に差し込み、小鳥の囀りが枝の上から届けられる。
遮光布の隙間から零れる光が、未だ夢の国へと旅立っている少年の顔にも浴びせられた。光を一手に受ける少年、佐刀鞘は煩わしさすら覚える感覚の中、目を覚ました。
最初に視界へ飛び込んできたのは、天井に吊るされた豪奢な照明器具。色取り取りの硝子細工に天に逆らうよう曲線へと加工した造形は、素人目にも高度な技術を推測させる。硝子内部から室内を照らす輝きは、フタバの話によれば石炭を用いた火力発電の賜物だとか。
「んあ、朝か……」
全身を覆う掛け布団の柔らかさが心地よく、寝起きには程よい暖かさも混じっている。
だが、肝心の佐刀自身の気分は、周囲の環境程に晴れやかではない。
青龍隊発足記念の式典から翌日。
本来ならタカナシからの報告を受け、佐刀は喜々としてオウ工房へと足を運ばせるつもりであった。が、当のタカナシ自身から一度身体の治療をお勧めされ、仕方なしにスメラギ病院へと足を運んだのが昨日。
だが病院ではスメラギから激しい叱責を受け、更に折角席を取った式典を抜け出して青龍隊と刀傷沙汰を起こしたとフタバからも軽蔑の眼差しを向けられたのだ。
自然と目覚めも悪くなるというもの。
『自殺志願者を治療する趣味はない、というのは言ってなかったかね』
『ふーん、青龍隊とやり合ってたんだー。へー。
折角取った席を空席にした上で、私のこともそのまま放置してねー。へー』
回顧するのは、昨日面と向かって言われた言葉の数々。そして彼らの冷ややかな目を交えた姿。
「流石に悪かったかねぇ……」
寝惚け眼を擦りながら、佐刀は布団から脱出して肌寒さを覚える。
擦った左手に視線を向ければ、そこには丁寧に巻きつけられた純白の包帯。細かな挙動に不都合こそあれども、何かを握る程度であらば難なく行える状態にまでは回復している。
故に、佐刀の心を刃物がつつく。
「次からは少しくらい意識するか」
新たな決心を胸に、丈の合っていない寝巻を引きずり扉を開く。
取っ手を捻った先には、毛足の長い赤絨毯を敷き詰めた豪勢な廊下が待ち受ける。
御影石を随所に用い、所々に室内へ彩りを与える赤煉瓦と佐刀の知り得ぬ肖像画──大方、この家の歴代当主の姿であろう──を飾った様子は、正しく名家の間取。
佐刀は今、フタバの勧めもありセーデキム家に居候していた。
「日本四六貴族、ねぇ……あのフタバが」
遥か過去の時代に於いて、日本の創生に関わった一族の末梢が日本四六貴族と呼ぶ。
彼ら彼女らはそれぞれ片仮名の一字を冠した中間名を名乗り、現代に至っても幕府の要職につく等して絶大な影響力を有している。
元より佐刀の生きた世界とは異なる歴史を歩んでいるとはいえ、第二次世界大戦を経てなおも貴族が存命なのが正しいかは、彼には分からない。何せ佐刀の知る歴史では、財閥が極度の軍国主義を支援していたがために解体という落陽を迎えたのだから。
尤も、この世界に於いても貴族の間では終戦間際に色々あったらしく、特に強行的な主戦派貴族の幾つかは解体ないし多大な賠償金を強いられたらしいが。
「確かナ行とシの一族が没落したとか……いや、それともジ?」
「中間名に濁点を使ってる貴族はいないよ」
ぶっきらぼうに伝えられた言葉に振り返ると、そこには全身を厚着の寝巻に包んだ赤毛の少女が両腕を組んで立っていた。
「あ、フタバ。おはよう」
「おはよう。じゃ、さっさとご飯食べてオウ工房へ行こうよ。佐刀のための日本刀が出来たんでしょう」
ふん、とあからさまに不機嫌を露わにしているフタバだが、それでも足取りはあくまで後ろの少年が追いつける程度の速度。早歩きで進めば容易に肩を並べられる。
「あぁ、その……昨日は放置して悪かった、ごめん」
「別に、どうでもいいよ。どうせ佐刀は興味なかったんでしょ。
あーあ、折角席を取るのに苦労したのになー」
「めっちゃ気にしてるじゃん。いや本当に悪かったよ。ごめんなさい」
何度か謝罪を口にするも、フタバが受け取る様子はない。
ただでさえ佐刀には単純な暴力装置としか働けない自信がある。
元々二か月前までは日本の高校生だったのだ。勉学も半端な段階な上、今の世界に応用出来る知識がいったいどれだけあることか。もしもミコガミへの師事が成功していなければ、今頃路上で野垂れ死ぬかフタバの好意に依存しているかの二択である。
そんな状況で如何に屋敷の部屋が空いているとはいえ、払うものも払えない佐刀を居候させてくれる人物に嫌悪を向けられるのは、いい思いがしない。
まして、それが可愛い少女となれば尚更。
「あ、佐刀兄ちゃんだ!」
「またフタバ姉ちゃんと一緒にいる!」
「お、ナナクサにハツジか。おはよう」
「「おはよー!」」
前面から駆けてくるは、平均よりも小柄な佐刀と比較して一回りは小さい二人の少年。
共に冠する二つ名はセーデキム。即ち意味するはフタバの弟達。
セーデキム家はどうやら大家族らしく、マドカとフタバを含めて一一人もの兄妹を抱えている。因みにフタバが次女で兄妹の中で三番目とのこと。
「二人共、廊下を走るなよ。ぶつかるぞ」
「「はーい!」」
「ナナクサ、今日の朝ご飯、何だった?」
「えーと。今日はご飯と卵焼き、後味噌汁!」
「美味しかったよー!」
言い、腹を摩るハツジ。
その様は実に満足がいったという様子で、ナナクサもまた食事に充実を覚えているようである。
追いかけっこだー、とハツジが言うとナナクサもまた応じて駆け出す。まだ齢二桁に満たぬ幼子が二人、先の佐刀の言葉もどこ吹く風。
「だーから、ぶつかるぞー!」
「早く食堂に行こうよ。味噌汁が冷めちゃう」
「はいはい」
走り去る二人を尻目に、佐刀とフタバも食堂への足を再開する。
年月を経た檜の重みを取っ手越しに感じ、佐刀の鼻腔を味噌の香りが伝わった。
一一人兄妹に加えて両親二人が同時に団欒できるよう、長大に広がった机には木目を覆う
所謂辰野式洋館からやや外れた和の食事は、佐刀が元いた世界であらば少なからず違和感を覚えたかもしれない。
「む……」
フタバが食器の並べられた机を一目し、頬を膨らませる。
食器が二つ、横並びに揃えられている。他の机は空席で、既に他の兄妹達は食事を終わらせたのだろう。尤も、長男であるマドカと長女のハジメはそもそも家に帰宅していないらしいが。
ご飯と卵焼きだけならばともかく、味噌汁が入ったお椀をわざわざ動かすのも気が引ける。
「皆して、変な気を使って……」
「ま、気にしてもしょうがないでしょ」
食べましょうや、と佐刀は椅子に腰を下す。内心ではよくやった、と握り拳を作るが表には出さないようにして。
彼の言を否定しても仕方ない、フタバも隣合う席に着席。
食事の前に両手を合わせて感謝の言葉。
「いただきます」
続いて、箸を握るとまずは白米。
市井では闇市が盛況を迎えている貧困振りであるが、日本四六貴族ともなれば食料の確保など容易。帝都オズ組の手を借りるまでもなく、独自の流通網を確立している。
だからこそ、二人の箸には炊き立てで瑞々しい白米が届けられる。
口に含んだ途端、慣れ親しんだ触感と噛めば噛む程に深い味わいが広がっていく。
次に手をつけるのは、卵焼き。一日に三個しか生まないと言われているムラカミ養鶏場特産の卵を調理した一品は、調理人の技量を反映していた。
一口運べば、名産特有の濃厚な味わいと隠し味として砂糖の甘味が堪能できる。
「そういや、フタバはなんで剣士になろうと?」
「どうしたの、急に」
「そういやフタバのこと、碌に知らないなぁ、と思って。もしかしたら俺の記憶を取り戻す切欠になるかも、とも」
嘘である。
元より記憶障害など引き起こしていないが、折角なら使えるものは使っておこう。
「そ……そんなに面白い話でもないけどね。
元々私は帝都の女学院に通ってたのよ」
今でも昨日のことのように思い出せる、鮮烈なる記憶。
一三歳の夏、女学院への通学路を歩んでいた頃。緑生い茂る草木を影に進むフタバの前に立ちはだかったのは、漆黒の大太刀を構えた剣士。
辻斬り、脳が理解した時には手遅れ。
目の認識速度を超えた一突きが、未だ剣士としての才覚を開花させていない彼女の腹部を貫いたのだ。
「腹を?!
だ、大丈夫だったのかッ?」
「うん、今は大丈夫。怪我も完治してるし。
でもその時は、そんなことを考える余裕なかったし……引き抜かれた直後にバアァッ、って出た血が花弁みたいでさ、漠然とだけど死んじゃうのかなって思ったよ。
でも、そこに彼がやってきた」
朦朧とする意識の中でも、鮮明に覚えている。
辻斬りとフタバの間に割り込んできた剣士を。
血の如き赤の刀身を携えた錆だらけの刃。死に装束を連想させる白に赤をまぶした着物、裾や袴の内より覗ける骸を彷彿とさせる痩せこけた容姿。救世主を称するには鼻が曲がる程に鮮血の匂いが強烈な剣士は、腰にまで届く臙脂色の髪を風に揺らす。
「雰囲気からして、彼は只単に血の匂いに招かれたのかもね。
でもとにかく、彼は呆気なく辻斬りを切り伏せてみせたのよ」
「へぇ、わざわざ割り込むんだから当然と言えばそれまでだが、強かったんだな」
「うん、強いのは……強かったよ」
壁面に飛び散るは血染めの華。
死に装束により鮮烈な赤をまぶして、彼は袈裟掛けに辻斬りを斬り落とした。
そして返す刃で再び屍を斬り捨てる。
「死体を、か」
「そう、何度も何度も執拗に。まるで子供が砂山の城を崩すように」
腹部に刺突痕を残すフタバなど眼中にも入れず、通学路の一つに血の池地獄を建設する彼の後ろ姿は、フタバの胸に二つの恐怖を刻み込む。
力がなければ、自分もあぁなっていたかもしれないという恐怖。
そして災厄は、理不尽に降りかかるという恐怖を。
「斬殺されるのに覚悟の有無なんて関係ないんだって思った時、剣士になろうと決めたんだ。
強くなれば、自分だけじゃなくて誰かを守ることもできるって。そう思って」
「へぇ、立派な理想論じゃん」
いつしか、佐刀は箸を置いて話に夢中となっていた。
「と言っても、特別何かをやれてる訳でもないけどね。精々、街中で絡まれてたり、困ってる人に手を差し伸べるくらいだけで」
「充分凄いけどな、それ」
「家に余裕があるからだよ。
剣術にしてもセーデキム家の剣術とか一刀流は肌に合わなくて、結局は我流でなんとかしてるし」
その結果が、現在の遠心力と二振りの大得物を駆使した我流の剣術を操るフタバ・タ・セーデキム。名家の一員に名を連ねる者とは思えぬ豪快な太刀筋を振るう少女である。
一連の話を終え、フタバを背伸びを一つ。
「あぁもうッ、こんな話してたらご飯が美味しくなくなっちゃうよッ。食べよ食べよ!」
「フタバが女学院の制服着たら、むしろ美味しくなりそうだけどな」
「着ないよ!」
普段と大差ない声色で怒鳴るとフタバは箸を手に取り、既に冷えた味噌汁に手をつけた。 母が味噌汁に溶かすのは、白味噌。口に含みさえすれば、多少冷えた所でその味は不変であると実感できた。
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