第三章──憂国軍拡同盟編
楽園に至るのは誰か
通信総合商社による薬物流通事件が発覚して、凡そ一月。
発覚当初はおおいに帝都を賑わせた一大事件であったが、主犯であるハヤク・トカゲが全ての犯行を認める遺言を遺して自殺したことも重なり、既に当初の勢いは失われていた。今では新聞の一面を飾ることもなくなり、代わりに終戦記念の式典へ向けた準備に世相は傾いている。
夜も深まり、人の往来も途絶えた台東区。
中央区に程近い地区は相応に式典の準備による恩恵を受けているが、隣接している台東区は特に景気が鰻登り。元より景気の柱であった吉原支部が不祥事で業務が滞っている所に、代替と言わんばかりに盛り上がっていく式典は、区に住む人々からすれば救世主にも等しい。
しかし、祭囃子の音頭につられてやってくるのは吉兆ばかりにあらず。
「ッ……!」
月明りを遮る曇天の下、二つの浅葱が屋根を駆ける。
先頭に立つは、死人を連想させる色素の抜け落ちた髪を夜風にはためかす少年。深まった藍色の瞳は忙しなく周囲を見渡し、更には屋根下の雰囲気にも神経を張り巡らせる。
「ソウジ、急ぐことはない」
ともすれば精神が肉体を追い越して進むソウジを制するは、漆黒。
夜闇の中にあってなおも存在を主張する艶の黒を腰まで伸ばし、眼光は戦の気配を目ざとく捉えんがため真剣の如く鋭利。浅葱で見え隠れする腰には刀の類は伺えず、代わりに背負っているのは自らの髪にも似た漆黒の槍。
屋根から屋根へと飛び移り、浅葱の残影が尾を引く。
「まだ間に合います……!」
「偵察語り烏の報告から既に十数分……どうせ襲われた人は……」
「間に合いますッ!」
背後から投げかけられた諦観とも取れる言葉を強く遮り、ソウジは歯を食い縛って加速。
彼らの役割は現場に到着して終わりではない。
むしろ下手人がいる場合に備え、ある程度の体力を残して到着することこそが望ましい。限界まで体力を絞り出して現場入りし、疲労を癒せぬままに下手人から討ち取られるなど愚の骨頂。
だというのに、一縷の希望を見出してソウジは足早に現場を目指す。
幾度屋根を飛び移ったであろうか。
後方の浅葱を置き去りにして、ソウジは足元の流れ行く景色に異色を発見した。
三階建ての建造物より見据えるは、街灯に乏しい闇をしてなお暗い色合いを基調とした身なり。しかして、着物と手に持つ得物に滴る鮮血こそが辻斬りの下手人という確固たる証拠。
返り血だけなら拭き取るのも容易。一度取り逃がせば、二度目はないという確信を抱いてソウジは屋根の端で腰を曲げる。
「アイツかッ……!」
瞬間的に血が沸騰し、ソウジの頭に血が昇る。瞬時に冷静さを取り戻して落ち着くために呼気を吐き出すものの、排出されるは白煙ばかり。
腰から素早く刀を引き抜き、即座に視線の高さへ持ち上げると半身の構えを形成する。
不要な力みは呼気と共に吐き出せ。
力は炸裂の一瞬のみ、注げばいい。
道場の教えを反芻し、重力に従って体勢を崩す。視線と切先だけは外さぬように、身体と下手人が直線で結ばれるまでに。
「そこな下手人ッ、御用改めであるッ!」
「ッ?!」
わざとらしく大声を上げ、下手人の注目を集める。
不意を打つよりも、突然の声で足を止めさせる。果たして策は通じ、下手人は慌てて首を左右に振り回した。
瞬間、足場が炸裂。
欠けた屋根瓦が宙を舞い、己が身を一矢と化してソウジは音の壁を突き破る。
途端に真空の刃が周囲に牙を剥き、窓硝子が揺れ動き骨子が軋む。
夜闇にも関わらず隠密性を度外視した轟音に、下手人もソウジの居場所に気づいて顔を上げるも既に手遅れ。
「上か──!」
「遅いッ!!!」
刹那。
一条の矢が地面に落着。余剰の加速を踵で殺し、地を削り土埃を上げながらソウジは背に下手人の姿を感じ取る。
突き出された刀の切先には、微かな血の残り香。
遅れて、下手人の首の端から蚊に刺された程度の出血が滲む。
「──ハッ。折角の好機を無駄にしたなッ!」
下手人が口角を吊り上げ、歪に醜悪な笑みを浮かべる。
彼が振り返った時には、ソウジの姿は視界から通り抜けていた。絶好の好機を前にして、致死の刃を掠り傷に乏してしまったのだ。命を繋いだ身としては心の底から歓喜が浮かび上がるというもの。
まして、舌の上から無限の悦楽が湧き上がり、全能の権能を得たかの如き状態ならばなおのこと。
「……」
「どうした、あまりの失態に声もッ──!」
更なる罵声を浴びせんと振り返り、そこで下手人の動きが止まる。
否、厳密には指先が微細に動いていた。
寒さに震えて貧乏揺すりをするように、細かく、微細に。一瞬にして全能感は喪失し、これまでの帳尻合わせと言わんばかりに全身を苛むは度を越した激痛。
正体が痙攣だと判明するのは、下手人の手から刀が零れ落ちた時。
しかして得物を手放すという大失態も、神経を爪弾きにされる感覚の前では思慮の外。
刃毀れに意識を傾ける余地もない相手に、ソウジは悠々と距離を詰める。
「霞に覆われ無明の世界。
雲向によりて虎逢し。
龍尾を受けるは左足。
晴眼を以って心理を見据える」
紡ぐ言葉は師範より賜りし道場の理念。七つの型を唄に組み込み、折に触れて寿がれた祈りの形である。
「僕の刀は外法に穢れているとはいえ、無辜の民草にかかる災禍を妨げるなら師範も納得してくれる……
そうは思いませんか」
「ウ……ガ……ァ」
下手人の返答は、苦しみ呻く呪詛ばかり。
口内を筆頭として体内の局地が灼熱に飲まれ、閉じることを忘れた口は際限なく涎を垂らす。姿勢を維持出来ず膝から崩れ、ソウジを見上げる様は慈悲を冀うが如し。
懇願の意を視線に込めるものの、応じる目つきは冷気を帯びる。
「無為な辻斬りに精を出しておいてよくそんな目を……」
君が斬殺した人々から向けられた同様の目に、いったいどのような行為で答えてきたのだ。
とはいえ既に下手人は無力化している。ソウジの役割は殺害ではなく確保なのだから、如何に憎悪が湧き上がろうともこれ以上の追撃は権力を枷にきた横暴に過ぎない。
怒りを削ぐため、蔑視の眼光を付近の家屋へ向ける。
そして、ソウジも膝を崩した。
「ウッ……!」
「ソウジ、どうした?」
縋りつくように刀を地面へ突き立てると、一足遅れて到着した浅葱が声をかけた。
左手で口を覆い、指の隙間と見開いた目からは体液が垂れ流される。一目して健常な状態とは言い難く、浅葱は最初地に転がっている下手人を睨んだ。
だが僅かでも斬り結んでいれば当然残る跡が何一つない故に、原因は他にあると判断。視線を素早く周囲に運べば、自ずと答えは現れる。
「あぁ、あれか」
家屋の一つにもたれかかった一組の男女。背に深々と傷を浮かべる男と虚ろな眼差しでそれを眺める女、壁面に塗りたくられた鮮血を考慮せずとも両者の絶命は必至であり、犯人が誰であるかなど議論の意味もない。
浅葱は額に手を当て、溜息を一つ。
頭を振ってしゃがむと、嗚咽を繰り返すソウジの背に手を当てた。
「あれはただの物だ。私達が助けられなかった人じゃない」
「ミツバ……それは詭弁、うぉぁッ……!」
慰めの言葉に辛うじて反応を示すが、自然と目つきが鋭くなる。
ミツバの言いたいことは把握しているつもりだが、やはり問題はそこでないのだ。
脳裏に過るは死山血河。
廃工場の足場を埋め尽くす屍の群れ。誰が流した血なのかの区別もつかず、混ざり合った血潮の香りが幼き耳目に焼きつく。
地面に縫いつけられた足は一刻も早く離れろという脳の指示を受けつけず、荒れる吐息が視線を勝手に下へ落とす。
そして、虚空を覗く眼光と視線が交差した。
『なんでお前だけが生きている?』
「ア゛ァ゛ッ……!」
「ソウジ」
幻聴が更なる吐き気を誘発し、ソウジは姿勢を一層屈める。指の隙間から零れる胃酸もより濃くなり、流れる涙が整った顔立ちを汚す。
「警備隊を志すような人間が被害者を責める訳がないだろう。たとえ殉職したとしても」
宥めるような、冷めたような。
彼が
一分か二分か、あるいは十分近くは経過したか。
嗚咽も収まり、ソウジが袴腰に右膝へ手を当てて立ち上がる。
「すみません、時間をおかけして……」
「ソウジのためなら気にしない。それよりも……」
ミツバが黒槍の柄で下手人の頭を軽く叩く。
丁度吐き気を誘発していたためか、胃の中身に混じって一枚の紙面が吐き出される。見慣れない戯画の描かれた、舌に乗る程度の紙面が。
「やはり今回も例の薬物……野にばら撒かれたにしては妙に多いぞ」
通信総合商社が生産していた分は、既に証拠物件として警備隊で押収している。
が、ハヤクの自殺までの間に幾分かが部下の手で秘密裡に運び出され、裏で売買が行われている。とは、商社の社長であるシラキヤの弁。
しかし、最近頻発する辻斬り事件の犯人がこぞって摂取しているとなれば、いくら何でも不審極まる。警備隊の目を掻い潜って持ち出すような神経質な作業では、とても出し切れる訳がない程に流通しているのだ。
最早開発資料そのものが流通し、別の生産拠点が稼働しているとでも考えねば成り立たぬ。
「いずれ、このことはマドカさんに報告するべきかもしれませんね」
「それもそうだけど、ひとまず帰ろう。明日……もとい今日は早い」
「ですね」
左手で口元を拭うと、ソウジとミツバは帰路に着く。
今日は彼らの隊の編成式。
お披露目の機会に居眠りをしては、指揮官の説教は必至。一刻も早く帰還して少しでも惰眠を貪らねば。
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