エピローグは紡がれる

「ぐ、うぅ……」


 全身を苛む激痛が、ヒヒガミ・連に対しての目覚ましであった。

 普段であらば意識が覚醒した数秒後には目を見開ける程度には朝に強いのだが、目蓋は癒着したかのように微動だにしない。代わりに回転するのは、頭脳。

 意識を取り戻しているのに、何かが欠落した感覚は絶えず存在を主張している。

 たったそれだけの証拠で、寝起き特有の思考にかかる靄も吹き抜け、連は肉体を無理やり覚醒させた。


「蓮ッ!」

「あ、連様ッ。意識を取り戻しましたか!」


 最初に視界へ飛び込んできたのは、染み一つない真白な天井。そして意識を失っている間に世話をしていた女の顔であった。

 ムユキ・タカハシ。二三歳女性。吉原支部資材調達部所属。

 一通り目を通していた社員名簿の中から該当する名前を引っ張り出し、礼の一つを述べる時間も惜しいと努めて冷静に問いかけた。


「ムユキ、蓮の様子を知らないか」

「蓮様、ですか……」

「そうだ。意識を失う多少前から反応を掴めなくなった」

「……」


 蓮の名を口にした途端、花のように弾んでいた表情に影が差す。

 余程口にし難い状況なのかと予想し、連は直前の状況を思い出す。

 蓮もまた地下の第八研究室で侵入者と交戦し、そして左腕を負傷した状態で敗走した。連へ脳内で報告している際にも相当参っていたのか、焦燥が伝わっていたのを覚えている。


「あの、その……蓮様は……」


 言い淀むムユキの態度は、一秒でも早く蓮の無事を確かめたい連には多大な心理的負荷となり、上半身を寝台から起こす要因ともなった。

 まだ安静にすべきとムユキは寝かしつけようとするものの、自身の安静など妹の無事の確認とは比較するべくもない。向こうとの連絡が取れればそれで万事解決ではあるものの、未だに報告の一つもありはしない。妹も自身と同様に救助され、今も惰眠を貪っているのか。


「三階や二階には誰かが穿った穴が多数存在する。ここからもう一人の侵入者が逃走した可能性がある」

「地下の査察を行っている連中から報告だ! 薬物の流通拠点ってのは本当らしいぞ」

「ホラ、傷は浅いですよ」


 雑多な声が喧しい。この状況下で先程まで寝続けられるなど、著しく疲労が蓄積していたのか。


「ッ……ぁ!」

「連様ッ!」


 足を地につけた瞬間、足の裏に万遍なく画鋲を突き刺されたかの如き激痛が走る。

 走馬灯として駆け抜けたのは、かつて今回のように脈絡なく激痛が走り気を失った際に我道から投げかけられた言葉。


『君の身体は幾度かの実験を経て、超人的な身体能力を得たわ。でもどうも、人知を超越した力に貴方の脳が耐え切れてないみたいね。

 おそらくだけど、蓮が意識を手放すのに合わせて貴方の肉体にかかる負荷を一人分の脳で処理する必要が生まれるようね……ふむ、そういうことなら視神経や三半規管ではなく単純に筋線維の密度増強などに舵を切るべきだったのかしら』


 過剰に強化した結果、過負荷に対して脳が悲鳴を上げるなど悪い冗談にしか聞こえないが、それもまた蓮と連絡が取れれば回復する。

 とにかく蓮の無事を確認さえできれば話は終わるのだ。

 歯を食い縛り、濁流のように注がれる情報の波に耐える姿が余程堪えたのか。ムユキは足を進める連の背後から抱きつき、叫んだ。


「蓮様は侵入者の手で殺害されました!!!」

「──」


 突然の大声に野戦病棟もかくやといった室内の視線が一手に集まるが、連に意識を傾ける余裕はない。

 如何に嘘だと分かり切っていても、注視してしまう事柄はある。

 実の妹の死など、無視する訳にはいかないではないか。


「交戦地区から逃亡中、地下三階時点でッ……ぼ、撲殺されてしまいましたッ。ですからわざわざ確認することはありませんッ! あ、あんなの──」


 人の死に方ではありません。

 泣き喚き、最後は最早ただ絶叫しただけに等しいムユキの主張は、ただの出任せにしては感情が乗り過ぎている。資材調達部とはここまでの詐称術を要求されるのか。

 だが、連としてもここまで言わせてなおも強行するのは流石に気が引けた。

 故にムユキへと向き直り、口を開く。


「その死体が蓮だという確証は皆無。連れて行け」

「ッ……はい」


 項垂れるような声色は、説得に失敗したことへの呵責であろうか。

 幸いにもムユキとの身長差は極端なものではなく、肩を借りるのも多少の不便と内心に湧く一人であらばより早く目的地に辿り着くという感情程度。

 昇降機に乗り、急速に階を下る。どうやら連が眠っていたのは六階だったらしく、次々と階を下降した。

 目的地へ到着したことを現す音が鳴り、二人がゆっくりと鏡の割れた箱を後にする。

 扉の向こうに広がっていた廊下の光景は、ムユキがあそこまで連の活動を妨害した理由を推察するには充分であった。

 頭部を失い、付近の壁面にもたれかかる屍。

 足を砕かれ、のた打ち回る間に顔面を陥没させた屍。

 自慢の得物を砕かれ、驚愕に目を見開いたまま胸部を大きくへこませた屍。

 なるほど、侵入者の内一人は深刻かつ末期的な殺人癖を抱えていた様子。人の死と聞いて真っ先にこの光景を思い浮かべるのは、鈍器に囲まれた半生を送ってきたか精神異常者の二択に違いない。


「大丈夫か」

「はい……大丈、夫です」


 空いた手で口元を覆うムユキの姿は、後一つ切欠があれば吐瀉物が廊下に新たな彩を加える様を容易に連想させた。

 そして、視界の端に、信じられぬ物体を発見する。


「──」


 思考が漂白される。

 何も残らない。何も考えられない。

 白の布に覆われた屍から、燕尾服を纏った右腕が僅かに覗ける。

 嗚呼、見間違える訳がない。見間違えられる訳がない。ただ一人残った肉親の、容姿を見間違えるなどあり得ない。

 


「は、す……?」


 我道が兄妹のために仕立てた燕尾服。通信総合商社の中で着用している者など二人しかない。その一人が連であり、もう一人が蓮なのだ。

 ゆらり、ゆらり。

 ムユキの肩を離れ、亡者の足取りが如き曖昧さで連が蓮へと近づく。彼女の声も最早鼓膜をすり抜けるばかり。

 伸ばされる両腕が床に斃れた屍へと向けられる。

 その存在を乞い求めるように。その存在を拒絶するように。


「あ、あああぁぁぁぁぁぁあああああぁぁあああぁぁぁぁぁぁああああああッッッ!!!」


 地下中に響き渡る絶叫は、一人の男が一つの現実を突きつけられた最大の証拠であった。



「違法薬物製造に剣刀法違反……やってくれたね、我道君」

「……」


 自らの名を囁かれ、暑くもないのに我道の額から一滴の汗が滴る。

 室内の照明と窓の外から注がれる大陽光による二重の光源は、たった二人しかいない社長室の様子を白日の下に晒す。

 吉原支部が査察を受けている間、我道は通信総合商社本社へと足を運んでいた。

 既に第八研究室には警備隊の手が介入し、剥き出しの違法薬物やその原料が押収されている。成分の分析がどの程度進んでいるのかは想像の域を出ないが、合法か否かだけなら二日とかかるまい。

 また副次的に判明した刀剣の充実振りは、本来は正式な手続きを経た上で取り揃えるべきもの。書類審査を無視して階の一角を占める武具は、不正所持として法に接触している。

 侵入者騒ぎとそれに伴う強制査察の経過は、我道に背を向けた男の耳目にも届いていた。


「我が社は健全な組織運営を心がけている。信頼こそが一番合理的に製品を売り捌くために必要だからだ。

 分かるかい、我道君?」

「……え、えぇ。理解しております」

「ほぉ、それは面白いことを言う」


 大陽の光が、男の口元から揺蕩う白煙を照らす。


「市場に流通させてはいけない製品で得られる信頼など、私は始めて聞いたな。

 どうやら、天才である我道君には会社経営の才能もあるようだ」

「ッ……」


 あからさまな皮肉にも、我道は言葉を返すことが出来ない。

 煙草を口から離し、二本の指で挟む男こそが通信総合商社代表取締役社長、シラキヤ・キセルなのだから。

 肺を満たしていた主流煙が吐き出され、快楽物質を抽出された絞り粕が室内を白く覆う。


「煙草はやはり不滅に限るな。専売局はいい品物を作るよ。

 これで支部がやらかした、という報告がなければ、私も煙草の心地よさに包まれていたのだがな」

「……」

「追って通達を下す。それまでは自室で謹慎してもらおう。

 と、ここまでが表向きの話」


 腰を下していた椅子が反転。

 背を向けていたシラキヤが白衣を纏った女性と目が合う。

 赤みがかった黒髪を前面に掻き上げ、形成するは額出し《オールバック》。品を感じさせる洋式制服は大陸でそれなりに有名な仕立屋から取り寄せたものらしく、赤と黒の縞模様に気品を伺える。

 我道に注がれる目は、虚空の如き黒色。


「納期まで約一月。ぱらいその生産は、間に合うのかい?」

「……本来想定していたパフォーマンスを幾分か下降修正してよければ、依然余裕をもって生産可能です」


 我道の返答に首を捻り、顎に手を当てる。

 思考することに一秒、二秒。


「確かパフォーマンスとは、性能を意味する大陸言葉だったね」

「はい、今は更なる性能向上を目標として実験を繰り返している最中でした。最低限、要求された水準にはひとまず到達しています」

「なるほど……それなら構わないよ。

 後はこの仕様書通りの筋書きに合わせてくれれば」


 シラキヤは机を引き、内に収めていた一つの冊子を取り出した。

 何枚かの紙を紐で纏めた冊子を手渡し、我道に目を通すように促す。

 開いた先で我道の視界に飛び込んできたのは、おそらくシラキヤ自身が組み立てた本事件への筋書きであった。


「薬物生産を要求したのは、利益の独占を目的とした吉原支部技術部次長ハヤク・トカゲ。しかし支部に甚大な被害を齎したことを苦に自殺。我道天才はハヤクから舌を経由して摂取する新薬の実験と聞かされただけで、それが違法薬物とは認識していなかった……

 なるほど、そして次長の自殺で空いた穴を埋めるために誠心誠意働くことで社会への償いとしたい、と」

「吉原支部の社員名簿に目を通して、ある程度職権を濫用できてかつ切り捨てても痛くない社員を選定したつもりだよ」


 要は蜥蜴の尻尾切り。

 我道は耳にしたこともない名前であったが、シラキヤが直々の選定したということは、まかり間違って支部の運営に影響を生む人材ではないのであろう。

 なれば組織運営に関わってはいない我道が口を挟む余地もなし。


「分かったわ。この仕様書通りにすればいいのね」

「理解が早くて助かるよ。ぱらいその再生産に関しては、一時的に別の支部の研究室で行ってもらおうか。支部の移動に伴う手続きを含めても、二日もあれば見つかるさ」


 その後、ニ、三言を交え、社長面談は終了。

 シラキヤと同じ部屋にいたくない我道は、一刻も早く部屋を出るべく踵を返す。

 シラキヤ・キセルという男が発する独特の気配は、剣も刀も携えない身でありながら、下手な人斬り包丁持ちよりなお恐ろしい。一つの会社を率いる地位がそうさせるのか、あるいは別の要因があるのか。

 転移前の世界にも通用する気配を嫌って足早に進む我道へ、背から声をかけるシラキヤ。跳ねる鈴のような声色は、つい先程まで詰問していた男とどうしても重ならない。


「それじゃあ、よい休日を。我道天才君」


 自らの名を呼ばれ、我道の背筋に冷たいものが走った。

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